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流出雑記 

2015/9/12

2015年09月12日 | Weblog

このパソコンはたいふうと変換するとタイ風と出てしまう。台風が過ぎたあと秋晴れが続く。

中之島の国立国際美術館にヴォルフガング ティルマンスの写真展を見に行く。

京阪で出町柳から淀屋橋。別に取り立ててカレー好きでもない夫にはなぜか大阪に行きたいカレー屋が2件あり、そのうちの本町にある1件に行くことになった。お昼時の御堂筋、1本裏通りを歩くとランチタイムの飲食店で賑やかだった。目的のカレー屋にたどり着いたのは12時40分くらいで、オフィス街のランチ客は引けた後なのか店はカウンターにお客ひとりだった。ほとんどのカレーがひき肉を使ったキーマカレーで、牛、鶏、野菜の他に、鴨、鶏レバー、馬、マトン、山羊などの肉を使ったものもあるちょっと変わったカレー屋。1皿に3種類のルーをかけてもらえるのがメニューにあり、夫、馬、マトン、鶏レバー。私、野菜、鶏、鴨を選ぶ。運ばれて来たカレーはルーそれぞれ色味はやや違えど、どうしてこういう色になったのかと思うほど一貫して黒い。スパイスの強さが特徴のカレーだとは事前に聞いていた。特にクセのある肉のカレーはスパイスの使用量も多いらしく、マトンやレバーは一段と黒い。このスパイスは単に辛いチリの量ではなくて、クミンやコリアンダーなどの辛味より香りの香辛料のスパイシーさで辛味ばかりが立っているのではない。ジンギスカン等が苦手な私がマトンを味見してもまったくクセを感じなかった。それくらいにスパイスの香りが勝っている。どうやって作っているのか分からないけれどルーの油の量も多く、ごはんがルーから出た油分を吸って黄色になっている。肉とスパイスを煎じ詰めたようなルーは濃く塩気も比較的強い。それが惜しみない量掛かっていてそのわりにごはんの量が少ない。それでこのカレーがおいしいかどうかなのだけれど、おいしくはある。他のところにはない味覚だとも思う。けれどいろんなことがややアンバランスで、やっぱりスパイスと油が過剰で、後半食べるのが辛くなってくる。店主は見るからにこだわりのありそうな人で、作るものにもそういったこだわりを踏み越えた自己主張がしみ出しているというか、その傾向が強すぎ、そういう食事をすると胃が疲れるのだった。私の食べきれない分を手伝う夫は変な汗をかき始めていた。たぶん人生のなかでいちばん香辛料を取った食事だったと思う。消化器が香辛料の詰め物になったようだった。

美術館。入り口のところで警備員のおじさんに口のなかのものを捨ててからご入館くださいますかと言われた。それはガムのことだったんだけれど、そういうことを初めて言われたのでもしや毛穴からカレーのにおいがし始めているのかと一瞬思った。

ティルマンスの写真をそんなにいいと思ったことがなかった。と言っても一冊の写真集を見たことがあるくらいだったのだけれど、ピンとこなかったので、今回はどうみえるものかと思っていた。

カメラは写真を撮る機械というより世界にある様々なレイヤーのものごとに焦点を合わせる機会なんじゃないかと思わされた。スナップ的、社会的、審美的、感覚的な散在する視点の置きどころから捉えられた写真のプリントが大小様々壁面に貼り付けられている。
近づいたり離れたりしながら展示を見ることに「気が散る」感じがずっと並走していた。堂々と引き伸ばされた1枚を見ようとしてもそこにはテレビの砂嵐みたいなものが全面に写っている。こんなでかいのに何も見えんというような、見ようとすることを挫かれることが大小あって、なおかつ挫かれない写真もある。なんでこれ撮ったのか何が写っているのか、ということより見ることに仕掛けられた距離の様々を渡る感じだった。

写真という表現について考える。絶景、美しい鳥、戦場の光景、決定的瞬間、何気ない日常…さまざまなものに向けられるカメラの目と切り取られる像。撮られた写真に写っているものを見る。その画面のなかにはシャッターを切るに至った何かしらの動機となったものが写り込んでいる。撮る人が目を向けるものの傾向は否が応にも写真に反映され、それが作風と呼ばれ、写真の評価というものもそこに焦点がおかれるのだろうけれど、ティルマンスは意図的にそういうふうな作風に寄らない撮り方をしているように思えた。むしろ作家としてカメラを構えることに目を縛らないことを自分に課した目の存在を創造しているというか、日常的な私たちの目のあり方、様々なレイヤーでものを見る目を維持することを基盤にしているように感じられた。だからといって日常の些細なもの、なんでもないようなフラジャイルな一瞬や偶然生まれるコンポジションなどに価値を置いているのでもなく、目にうつるものを即物的に見、そこから思考が動くに及ぶものを対象化していることだけは写真を見ていてよくわかる。そういうものをなんでもなく撮る、ということをしている。カメラを構えた自分の発見に魅せられてシャッターを切るという関係の取り方ではない。

写真は写し撮られたものが作品となる。例えば、聞いたこともない異国の少数民族の儀式における仮装の姿や、ベトナム戦争の戦時下、密林を膝下まで水に浸かりながらけが人を担架で運んでいく様を撮った奇妙な神秘性を帯びた写真などを見るとき、そこに写っている像の持つ魅力に引きつけられてそれを見る。そのとき私はその写真にそれが写真であることに魅せられているのではなく、記録されたもののありさまに魅せられているとも言える。では記録映像でもよかったのかも知れないとも思ってみたけれど、それは一概にそうとも言えない。その状態に至る前後の事情等から切り離され、そこに射していた光によって写しだされたものがただ現実を告発することに留まらない力を秘めた一瞬として凝固してしまう場合だってある。写し撮られたものに問答無用に惹かれるということはあるし、最近のことで言えばロジャー バレンの写真、もう少し前だとマリオ ジャコメッリの写真が私にとってそういうものだった。写真の何を見て何を価値とするか、このことはもう少し広く言うと芸術に何を求めるのかということにもつながってくる。これは私の場合は、という言い方になるけれど、私の場合ティルマンスのやろうとしていることには共感を覚える、中平卓馬の貫かれた写真への態度、写真を考えることから紡がれた言葉、特に「私」と世界との関わりの在り方に本当の意味で真摯というのがどういうことかを知らされた。それらは思考が動かされるという意味においての芸術体験で、これとは別に思考ではないものに働きかけてくるものがある。思考ではないもの。これを何と呼んだらいいのか、精神とか魂という言葉を使ってしまうとどこか言いそびれる。コンセプトの説明もコンテクストの理解も必要としないで直接やってくる。強く、そうだ、という感覚があってそれは傲慢を恐れず言うなら、私の手の届かないところにあった私だという感覚で、自分の生きていることに重なり関わってくるものだけれど、それ以上のことはわからない。でも人を好きになることによく似ている。感動し打ちのめされるのだけど、自分も何かしないではいられなくなる。結果自分のかたちが変わるようなこと。