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流出雑記 

2015/3/12

2015年03月14日 | Weblog

昨夜「BIRDY」という映画を見た。アラン パーカー監督。負傷したベトナム戦争の帰還兵の物語。
たまたまこの映画の公開は1984年で、前の晩に見たカントルの舞台「ヴィエロポーレヴィエロポーレ」も上演もその年だった。(初演は1980年らしい)ベトナム戦争が終わったのは1975年、私はその8年後、1983年生まれで、ベトナム戦争があったことはベトちゃんドクちゃんで知った。

味方の落とした焼夷弾で顔面の半分を焼かれ、その顔を自分だと認められないアル。一ヶ月戦地をさまよった末、人の振る舞いを放棄し何も話さず鳥になっているバーディー。ふたりは少年時代からの友達だった。
バーディーは精神病院の閉鎖病棟に入れられている。バーディーがなぜこうなってしまったのか、治療の糸口を探してかつての友人であったアルが呼ばれた。アルもまた戦地の夢にうなされ、もとの顔を失ったことを受け入れることが出来ず、生きる指標を失っていた。映画はふたりの少年時代から戦地でのことを回想しながら進む。人の行ないによって失われたものが、人によって治癒する希望を残したラストで素直に良かったと思った。

立誠小学校で岡崎芸術座の「+51 アビアシオン サンボルハ」を見た。作、演出の神里さんの祖父母は沖縄からペルーに移民として移り住んでいたそうで、その足跡をたどりその他いくつかの実在した人物の話しも引き入れつつ書かれたテキストが3人の俳優によって話される。
以前「レッドと黒の膨張する半球体」を見たことがあって、そのときも移民というのが題材になっていた。今回もまたそうで、いつも独特な視点から縁取られた世界を見る感覚になる。そういう視点を持つ理由がある作家の、個人的な事情からの目の出発点、そこから見られた世界。

「+51 アビアシオン サンボルハ」はとてもおもしろかった。俳優の動作は形式化されきらないところで、技巧よりもそれぞれの人の湿り気を帯びていたし、なにより言葉に嫉妬した。床の五色や照明の色、何かしらの細々としたセンターをずらしたような余計ともとれる演出要素が劇全体の雰囲気を散らかしどこかずっと不安に見える。そういうものをひとつの作品のなかに含めることは簡単ではない。整理しすぎないことの重要性がある。世界は全部自分の手の届く範囲の、制御できて把握できるものとしてあるのではない、ということがちゃんとその世界に置かれていたと思う。


2015/3/9 ヴィエロポーレヴィエロポーレ

2015年03月09日 | Weblog

雨、降ったり止んだり。今日も夢をみた。どこかアジアの暑い国に公演に行くことになって、夫と制作さんと通訳さん、私の4人で空港にいた。陽射しが強いのを私が気にしていたのを覚えていた夫は、免税店でサングラスを買ってくれた。箱にはレイバンとかいてあり、開けると濃いピンクのフレームの大きなサングラスが入っていた。サングラスはほしかったけれど、普段は使わないしもっと安い物を行った先で買おうと思っていた。「ありがたいけど似合うかなこれ…試着してないし…いくらした?」と聞いたら「29000円くらいやった」「え高い。返品しよう。だって向こうに行って使う予算で払ったやろ。」制作さん「でももうゲート行かないと、飛行機でます!」「じゃあ帰国してから返品する!」と言いながら大急ぎでゲートまで走った。という。

 

小雨になったすきに手帳を買いに行こうと思っていたけれど、今日の雨は家を出るタイミングを与えてくれなかった。お昼の焼きそば味付けはパッタイ風。

昨夜、カントルの『ヴィエロポーレ・ヴィエロポーレ』という作品の記録映像を見た。フランスのテレビ番組で放映されたものが動画であがっていて、だからフランス語字幕。話している内容の全てはわからないけれど、これを日本語字幕で見たことのある夫の解説でなんとなく把握できた。でも別に言葉で言っていることがわからなくても、目の前で展開されるイメージだけで十分だった。

ヴィエロポーレというのはカントルが生まれた町の名前で、この劇はカントルの記憶から立ち上がっている。カントルのパーソナルな記憶、若い頃のカントルの両親の姿、軍服を着た父や花嫁姿の母も出てくる。カントルはやはり舞台の端で劇を傍観している。

舞台上では「記憶」である人たち、もうその姿をしていない過去の、死んだ人たちが溢れ出て来ては喋り、舞台上で再び死んだり、それでいなくなったと思ったらまたすぐにあらわれたり、あらわれたと見えたものは蝋人形だったり、フィクションの前提の上でさらに虚実入り乱れて怒濤のような勢いで劇は展開していく。記憶たちは我が我がと舞台に出てきては、ぎこちない動きで、自然なふるまいを失っていながら喋る。大雑把に言うと皆どこか人形化している。イメージとしてそのような状態が演出されていて、まるでカントルの絵の中の人物のように顔色を失い、物に同化することも可能なオブジェ的な存在感を伴い登場してくる。その演技の状態は、俳優がある人格を演じることによってそこにいる、というふうな見え方をせず、ある人物の記憶、つまりカントルの記憶を担保として、それに動かされて舞台にのぼってきたように捉えられる在り方をしている。その立ち方から、俳優のフォルムがせり上がってくる感じがする。そういう形状をした登場人物としてせり上がってくる。人格というよりずっと形状。 間違いなく人の形がそこにあるけれど、同時にいないとも言える気配がずっと同行している。

記憶である人たちの身に起こったさまざまなこと、それは国の政治的な背景を含んだ身体性、自然ではない、変形し硬化したふるまいが表象するに至った記憶で、それらの挙動に根拠があることが細かな解説をはさまなくても受け取ることができた。その端々まで理解することができなくても。カントルの個人としての記憶を起点に、カントル以外の同時代を生きる人々の身の上にあった圧力が可視化されている。それは上演から30年経ち、ポーランドから離れた国でこれを見た私にも受け取ることができた。それほど鮮烈なイメージに満ちた劇の時間だった。

劇を見たという感覚。一挙に今まで見た中の舞台ベスト3に入ってしまった。記録なのに。

 

 


2015/3/8 の夢

2015年03月08日 | Weblog

病院のようなところにいる。建物自体は出来てまだ新しく、建築も凝ったデザインになっている。森をテーマにデザインされていて、おそらく建物は幹を模した円筒形で、各フロアは回廊になっている。ところどころ円筒を突っ切るかたちで直線の廊下が作られているので、院内は少し複雑で、病室に帰るのに迷うことがよくあった。

病人は年齢、性別で分けられていて、上まで行ったことはなかったけれど、案内図を見るかぎり年齢が高くなるほど上の階にあがっていく。私は20~30代女性のフロアにいた。その年代のフロアも2階に別れていて上の階が症状が重い患者、下の階は自分の身の回りのことは自分で出来るくらいの症状の軽い患者で、夕方5時の門限を守れば外出もできた。私はまだ下の回にいて、1日2回の食事の時に配られる平ったい白い錠剤を飲む以外は特にまだ治療は受けなくてもいいけれど、入院していた。

天気のいい5月くらいの陽気の日、4人で外出をして、川のそばの町を歩いていた。川沿いに家が立ち並び、時々空き家を覗くと、暗い家の中に川から流れ込んで来た水が溜まっていることがあった。空き家の窓をあけて釣りをする。誰かがこういう暗い水の溜まったところには魚がたくさんいると言ったからだ。けれど家の中に溜まっている水はいつからそうして溜まっているのか、カビ臭いにおいがしてくる。4人で時々交代しながら竿を持っていた。私掛かったことない、と言った女の子の竿にとつぜん当たりがきた。強く引くのでこれは大物だと皆で待ち構えた。けれど引き上げる途中、鳴き声でもうわかってしまったけれど、掛かっていたのは黒カラスだった。羽に掛かった針をはずすと黒カラスは当然飛んで行った。

門限まであまり時間がないので今日は諦めて帰ろうと、戻る道の途中の河原で小学生くらいの男の子が釣りをしているのが見えた。この川は幅が広く、流れも速く、流されると助からない。私がこの少年くらいの頃はこんなに水量が多く流れのはやい川ではなかった。そんな水を流すために自然と川岸が削られたのか川幅も広がった。飛び石をとんで対岸まで行くこともできたのに、今は飛び石自体が見当たらない。 魚は暗くて静かなところにいると聞いたはずなのにこんなに流れの早いところで魚が釣れるのだろうか。それを聞きたくて男の子の近くまで降りて話しかけてみた。「ここで魚釣れる?」「釣れる。大物は流れの速いところに沈んでる。もうさっき1匹釣ったし」と男の子が視線を送った方をみると、川岸に石で囲いを作り逃げないようにしたところに大きな魚が静かにいた。

いつか水族館のアマゾン川流域コーナーで見たピラルクという魚にそっくりだった。ピラルクは回遊魚みたいに泳がないで、むしろ生ぬるい水がぼんやりしているうちに魚のかたちに凝り固まってしまったもののようだった。ゆうに私の身長くらいはある。その近くに死んでぼろぼろになりかけた同じ魚が沈んでいたけれど、それはさらに大きかった。

男の子が「あ」と言った。当たりがきたのだ。竿がものすごくしなって折れそうになっている。男の子は川に引きずり込まれそうになりながら竿を倒したり立てたりしながら徐々に糸を巻き取っていく。浅いところまで来てうねる魚の体が見えてきた。青い。男の子はその姿を見て「うわ、アオダイショウや」と叫んだ。この川にこんな色のついた魚がいたのは知らなかった。川の水温が温暖になりアマゾンに近付いてこういう魚が棲むようになったのかも知れないとも思った。男の子は魚を釣り上げた。大きさはさっきの半分くらいで顔つきはピラルクと似ている。でもターコイズからコバルトブルーまで光の加減で微妙な色の変化をするうろこに覆われている。「アオダイショウは滅多に釣れへん、これはおいしい魚やで」と男の子は誇らしげに釣果をぶら下げる。男の子のうちの今日の夕食はアオダイショウの煮付けか唐揚げかなあと話しながら病院に戻る。

その夜、終了時間の間際まで大浴場にいて、誰もいなくなって急いで病室に戻ろうとしていた。大浴場から病室は少し離れていてまた迷ってしまった。歩き回っているあいだになんとなく部屋の雰囲気が変わっているのに気がついた。ひとつ上の重症患者のフロアに上がってしまっていたようだった。私のいる階はあまり病院っぽくないし、壁紙もベージュや茶色やグリーンを使った落ち着いた色調になっていて、4人相部屋だけれど木製の2段ベッドになっている。廊下中にエタノールのにおいもしていない。けれど上の階は白で間仕切りのない空間にベッドが何100床も並ぶ巨大な病室だった。目に見える範囲の大半の人は寝ているけれど、時々ベッドの上でうめきながら苦痛を訴えている人がいる。

看護婦さんはいなくて、80代を過ぎていると見える白衣の老人がうめく女の子のもとに急ぎもせず歩いてきて、腕に注射針を打つ。注射針を打つとまもなくうめき声はおさまり、寝ているのか気絶しているのかわからないその他の患者と同じように静かになる。それにしてもあの老人ひとりでこの広さをカバーできているとは思えない。

病床のなかに友達の女優がいた。長身の長い足がタオルケットからはみ出している。ぐったりして左手を額のあたりにあてていたけれど半分目が開いていたので話しかけた。「先生ひとりだけ?」「同じようなじじいがもひとりがいるけど、どっちも医者じゃなくて注射針打ちにくるだけ。だってこれ治らんから。」「…」「頭とかお腹とかどこが痛いって、はっきり場所言えないけどはっきりした苦痛が発作みたいに時々起こって、その間隔がどんどん狭まってきてる。なんか体の中が破壊されてるっていうか、いろいろつながってる神経とかが引きちぎられていってる感じする。」と鉛のような目で言った。「下のみんなもそのうちこうなるよ。」

彼女が言ったことを知らないわけではなかったから、そんなにショックを受けることもなかった。この病気が治らないということは知っている。

自分の病室に帰ろうとまた歩いていた。廊下の途中に物置のような部屋がひとつあった。物置といっても何もない。何もないので用途がわからない部屋だが、とりあえず物置としたその部屋の中は、物置にしてはひときわ白く明るく、部屋の真ん中に白い梱包材とビニール紐で巻かれた横長のものがひとつだけあった。現代アートのオブジェ展示のようにも見えた。どう考えても人のかたちよりもずっと長いのに、その形が一瞬人に見えて、ここはもしかすると遺体の安置室なのではないかと思った。ここで死んだら棺桶に納められずに、こういうふうに梱包して何体も溜まったら燃やして埋められるんだろう。死体の灰が舞うとよくないからと思った。

でも梱包されているものをよくみると、紫や、ピンクや黄緑色の四角い塊が寄せ集められたもので出来ている。さらによく見ると、多い日夜用とか普通の日用とか超吸収、羽根つきと書いているのが見えて、それが全部生理用品だとわかった。どこかから届いて荷解きがまだなのだろう。これだけの人数の女の子がいたらこれだけあってもひと月のうちに使い切るのだろう。なぜかそれを見ていたら怖くなり走って病室に帰ろう。どうにか部屋にたどりついたけれど、部屋の鍵を部屋の中に置いたままで入れない。絶対に皆寝ている時間だったけれど、外からノックして呼んだらルームメイトのひとりが眠そうな顔をしながらあけてくれた。

 


2015/3/8

2015年03月08日 | Weblog

山口から高原さんがわりと急に京都の方に来ると連絡をもらって、夫と3人で夜に会うことになった。高原さんは照明家で同じ大学の先輩で、卒業してから現場で一緒に仕事したこともある。

この日たまたま母校の大学で夕方からダンスのショーイングがあったので、それを一緒に見た。高原さんは大学に来たのは7年ぶりらしい。夜ほんとうは出町柳のアイリッシュパブに行く予定だった。しかし午後から降り出した雨がやまず、歩くのが億劫なレベルだったので大学の近場の店に変えた。その店も当時はなくて、たしか長崎皿うどんの店だったけれど、そこで皿うどんを食べたことは一度もなかった。長崎に来た訳でもないのに、皿うどんをピンポイントで食べたいと思うことは今後もありそうにないなと思う。皿うどん跡の店はわりと最近オープンして、前をなんどか通って気にはなっていた。最初、同じくショーイングを見に来ていたプロデューサーも一緒で4人だった。彼はついこの前にもこの店に来て、その時はほぼ開店直後に来て閉店まで居座り4人でワインを4本あけたそうで、そのことはバイトの女の子も覚えていた。

なにがおいしかったか聞くと、ポテトだった。ただのフライドポテトじゃなくて、茶色い紙袋に入って出て来て、それと一緒に塩こしょう、カレー粉、コンソメの瓶を出され、好みの味付けに調節できる。前回はそれを3回注文したらしい。

今もあるのか知らないけれど、高校生の頃、放課後テスト勉強しようと山を張るのが得意な友人を引き込んでロッテリアに行くときには、それと同じように袋を振って味付けするフライドポテトを必ず食べていた。シーズニングを入れて袋をふるとけっこううるさい音がする。ファーストフードの店では別に気にならないけれど、大人がレストランで同じ音を立ててフライドポテトを振るのはちょっと恥ずかしいし、その間テーブルの全員で笑いをこらえつつ、隣のテーブルのお客さんには申し訳無さそうな顔をしていなければならない。

プロデューサーはワインが1本空いた頃、別の宴会へ向かった。3人でそのあと閉店までいて、この店はビールが安いと私以外の2人はひたすらビールを飲んでいた。私は最初に少し注いでもらったワインが許容量だった。

帰るころには雨はほとんどやんでいた。

 

 


2015/3/7

2015年03月07日 | Weblog

帰国してからうっかり治ればいいのにと思っていたけれど、やっぱり花粉症の諸症状がフェードインであらわれ始めた。

小6からのおつきあいだと鮮明に覚えている。卒業式の予行練習が目が痒いのと鼻水でものすごく辛かった。花粉症はなぜか遊んだり、自分が動いて何かをやって集中している間はそれほど症状がでないけれど、動いていないとき、例えば順番を待っている間とかが辛い。特に証書をもらったり、順番待ちの多い卒業式の予行練習は苦行だった。増田は予行練習で泣いていると言われる。違う。

耳鼻科に連れて行かれると、鼻の奥に棒を突っ込まれるし、熱もないのに錠剤の薬を飲むのも始終マスクをしているのもいやで、その上外で遊ぶから花粉に晒されほうだいなので、目は掻きすぎ鼻はかみすぎて赤かった。

今は早めに薬を飲んで症状を抑えているからそれほど辛くはない。けれど、寒いところから温かい部屋に入ったりするとくしゃみがしばらく止まらなかったりする。一昨年までアレグラでしのげていたのが去年からどうも効かなくなってアレジオンに変えた。

昨夜寝る前に目がちょっと痒いなと思って暗がりでかばんから目薬を取り出してさしたら、心地よい清涼感とは呼べないレベルの刺激が目に刺さってきた。毒を盛られたと一瞬思ったりしたけれど、そんな冗談すっとぶくらい目の中で痛みが暴走し始めた。目薬と思って目にさしたのは台湾の白花油という薄荷などから抽出したアロマオイルみたいなもので、つまりメントールの原液みたなものを裸眼にさしてしまった。だからとんでもなく染みる。痛い。うめきながら急いで流しのところに行って目の中を洗う。こんな凡ミスが原因で失明したらどうしようと思った。最初まともに目が開かなかったけれど、痛みは徐々に引いてどうにかまばたきができるようになった。視力も問題無さそうだった。

久々に甥のぴよに会いに行く。バイクで20分くらいのところに妹夫婦は住んでいる。去年の夏に生まれたぴよは最初ぐらんぐらんだった頭をもう自分で持ち上げられるようになり、座ったり這ったり、縦横無尽に動き回るようになった。つかまり立ちしたそうに挑戦するけれど、足の裏の使い方がまだわからないのか、立つのを手伝って支えてあげてもなぜか爪先立ちしている。妹の家の台所でタイ料理を作るというお土産。タイで仕入れて来た調味料でガパオとクンパッポンカレーとトムカーガイ。妹の旦那さんはエスニックなものとか、食べなれない味のものをあまり好きではないけれど、この日は出張でいなかった。でもきっとガパオライスに目玉焼きを乗っけたやつならいけるんじゃないかとガパオの素を一袋妹にあげた。夫はぴよを笑かすのがうまかった。

 

 


2015/3/5

2015年03月05日 | Weblog

一昨日からなぜかスイッチを入れても温まらなくなったホットカーペット、直ってたらいいなと思ってもう一度スイッチを入れてみたけれど、やはり壊れたままだった。夕食を終えて片付けて中学英文法ドリルをやっていたら眠くなってそのままコタツで寝てしまった。冬場はずっとコタツの電源を入れずに、ホットカーペットの熱でコタツを温めていた。その方がコタツの中が熱くなりすぎなくてコタツで寝るにはいいのだけれど、それができなくなってしまう。コタツ自体をつけたまま寝ると、起きたときものすごい汗をかいている。1時間くらいして暑さで目がさめたとき、自分が今どこにいて夜なのか朝なのかも一瞬ほんとうにわからなくなった。ついこの間までタイにいて、今日の夕飯もタイの屋台で食べたおかずを思い出して作ったのを食べたせだろうか。未だにあれがなんの肉だったのかわからないけれど、鶏肉か弾力のある魚のような肉と竹の子とタイでよく見かけた小さい茄子を辛く炒めたおかずで特徴的だったのは、緑の生胡椒の実が房で入っていたこと。生胡椒は日本で見たことがなかった。

そんな炒め物を作って食べたせいか、コタツが暑かったせいか。2、30秒のことだと思う。目を覚ました場所に自分が間違って配置されている、これはまずいという感じがした。書いてみるとたいしたことでもないようだけれど、不安の度合いで言うと結構高圧だった。

毎日2ページずつくらいやっていた中学英文法ドリルはついに最後の高校入試模試の問題に到達した。採点したら80点だった。

夜、造形大に金氏さんとせつ子さんのトークを聞きに行った。去年見た金氏さん演出の「レクチャーのおばけ」というパフォーマンスがとてもおもしろかったので、興味があった。「レクチャーのおばけ」を見たときこれをやってみたいと思った。それはどうしてだったのかトークを聞きながら考えていた。

「レクチャーのおばけ」には俳優であるパフォーマーがひとり出演する。パフォーマーは舞台上で2つのことを同時にしている。ひとつは覚えた言葉を喋り続けている。それはいわゆる台詞というものとは違って、ある美術評論家が琳派について話したレクチャーをそのまま丸暗記し、レコーダーを再生したように喋っている。もうひとつは空間に配置された金氏さんのオブジェを解体し、新しく組み立てて別のオブジェを作ること。

これらは役を演じているという立ち方とは違っている。言葉をあたかも自分の意見であるかのようには喋らないし、オブジェを組み上げて行くのも美術家の役としてやっているのでない。パフォーマーは与えられたただそのふたつの作業を同時にやっているというだけで、それらを役として解釈したり所有したりしない距離を保ち続ける。つまりパフォーマーの体が何かしらのイメージを能動的に表現するということがない。まるでそこにあるものも自分が喋っている言葉の内容も意に介さない別の星からやってきました、というくらいに距離をもってふたつの行為を遂行している。でもこの作品のなかでパフォーマーは決して演じていない訳ではない。演じていないところを演じている。演じる要素を扱っている。それとは逆の意味の演技、つま りイメージのなかに俳優が入ってしまうこと、イメージをまとうことは簡単で、俳優がそのことに終始してしまうとき観客との交通は失われる。言葉は一方向か らの独白になってしまう。

パフォーマーは上演時間内に見事なオブジェをひとつ完成させてしまうこと。その作り方は金氏さんが稽古の段階で教えて、そのとおりにやっているそうだけれど、さまざまな工業製品を組み立てて最後に白い石膏を流して固められたのを見たとき、これはきっと何も言わずに展示したら公演中にパフォーマーによって作られたことはわからないだろうというくらい金氏さんの作品が仕上がってしまう。オリジナルであることの価値、美術家本人の立場がぶらされる事態がおこる。フィクショナルな枠の時間のなかでそういうものが出来上がる。これは複製品なのだろうか。それとも作家の手によって作られていないというだけで、出来上がったものは本物といえるのだろうか。そういう疑問が生まれるよう仕向けられたフィクションの矛先がおもしろく、やってみたいというのはつまりこと事態に加担したいということだと思う。

 


2015/3/4

2015年03月05日 | Weblog

昨日の早朝帰国。朝方でた機内食、鮭のきのこあんかけに煮物少しとごはん、パン、フルーツ、ヨーグルトの取り合わせがあまりに節操がなかった。空の上でふだんまず胃にものを入れない時間帯に節操のない献立が目の前に並んでいる非日常さは夢のようだった。ヘッドホンでなかなか聞く機会のなさそうなタイの懐かしヒット曲集を聞いていた。一曲好きな曲があって主にそれをリピートしていた。Taa Numという曲名をメモした。帰ってから検索したけれど、見つからない。タイ文字に変換してみたりいろいろ試したけどヒットしなかった。ちなみに歌っているのは女性。

今これを打ちながら、どうして文章をつづることに興味があるのか考えていた。文字は記号で、自分の持っている記憶、イメージ、知覚、感情、などを記号に変換して喋ったり書いたりしている。この変換作業を経て引っ張りだしてくるのがおもしろい。選ぶことと並べることを字面を見ながらするのがおもしろいから、喋ることより書くほうに比重がある。引っ張りだして来て自分や自分以外の人が読むことができる。声にだして読む人はまずいないだろうし自分でもしないから、ここに溜まっていく文字は読む人の目から入って音にならないまま通過していく。創作として書くということは、その通過していく時間を作るということなのだろうきっと。そういうことをもう少し踏み込んでやってみたい。文字は体からつづられ、同時に体に向けられている。体からつづられ、体に向けられているというのは今やっていること、ダンスや演劇もそうだけれどもちろんその性質は違っていて、ここには私の体はない。文体がある。文体はどんなふうに人の読む時間を作ることができるのか。たぶん今そういうことに興味がある。