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流出雑記 

2015/3/16

2015年03月17日 | Weblog

月に一度写真をライフワークにしている精神科医の撮影の仕事をもらっている。
人物を撮るけれど、撮ったものを反転させてネガの状態にしたり、影を撮ってそれをまた反転させて白い影の写真を作ったり、実体より影を撮っている。なんとなくその手法、被写体との距離の取り方を見ながら、職業柄ひとの生々しさをいやという程見てきたからなのか、影にこそ本質を感じるに至ったのだろうかと勝手に想像する。

先生は何かの話しの途中に、体と精神のあいだにあるものは感情だと言っていた。つまり心の病気とは感情の振れ幅が極端なかたちで表われたり、それとは逆に感情が動かなくなってしまったり、感情の発露に不具合が生じるということなのでしょうかと尋ねてみた。それは症状として表われているもので、問題になるのはつまり「想起する」というところにあるらしい。
正常と呼ばれる状態のときに人は過去の記憶から必要なものだけ取り出している。記憶というのはビデオで撮るように記録されたものを再生するふうな仕方で思い出されるのではなく、常に現在時において構成されるものであるから、不必要なことまで想起してそれに捕らわれて今をないがしろにするのは良い状態とは言えない。
もうひとつはまだ来ていない未来への杞憂が過ぎる場合で、先のことへの心配に捕らわれてしまうこと。

過去に捕われ過ぎることも未来を杞憂し過ぎることもどちらもそうなるときを想像すると、時間に余剰があるとき、時間を持て余す時期に陥りやすいように思う。適度な多忙さは心の健康につながるのかも知れない。いやそうに違いない。
未来 現在 過去の間にあり、その3点によって支えられている自分自身のバランスをうまくとれている人は正常と言うことになる。今のことしか考えられないのはどうなのだろう。これは聞きそびれたので今度聞いてみたい。

今日は肉を食べた。赤い牛肉の力を感じる。

自分の選びとっている生き方のうえで、ゆるされた時間のすべてを捧げなければ至らない生き方の理想のために道のない道を行く人は、自分で自分の修行の道を引いていくしかない。日々をどういうふうに生き、どのように体を使うか。それはどんな表現方法を選ぶ人にとっても同じで、自分を際に立たせて歩き続ける筋力は日々によってしか培われない。

新しい年度に入る前に身と身の回りを整えようと思う。