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流出雑記 

2008年01月24日 | Weblog
私は私というものに何かひっかかり続けている。


私とは何かと、考える迄もないと言われるような類のものに捕われるのだが、そういうことをこれから舞台において表現したいと思っているわけではない。
何かしらの答えを求めている訳でもない。

ただ私の地盤がそういうものであるということ。

それは足をとられてどこにも行けない沼です。

しかし思う。
底無しの沼は。
沈み続けたらどうなるだろうと。

暗転。
開演、何かがはじまるまでのわずかな暗やみの中、舞台袖でそんなことを思う。

底無し沼にふと星をみるような自由さと広さが

あ。

目を開けて夢を見ている。
こういう体感は舞台で何かがはじまるその手前のわずかな時間にある個人的なものであるが私自身が舞台へ引きよせられる動機となる。
役者は一個人でありながら自由自在な存在として仕掛けられた場所で完全にふりをするというやり方で観客を騙す。騙すことでしか成立しない。
それは事実である。
沼にいても。

舞台に立つことで得た体感から引っ張りだされた言葉は主観的であるし、観客にとって舞台がどうこう以前のことである。
観客の視点から読まれた時にただの戯言であるかも知れない。

舞台で私は纏い、ふりをする。
何かのふりがやりたいなんて妙なことだ。
しかし何よりその中で、裸体の時間、日常の取り繕いからも離れて
なにもはじまる前に

そういうものに惹かれるのです。