自意識・・・自分自身についての意識 自我意識、自己意識。広辞苑より
客観的に思い描いた自分。私について。
産まれてから約24年の月日の中で様々なことを身につけた。
育った環境の中で気が付くと身についていたもの
習得しようと努力したもの
それは立って歩けることからぜんざいの炊き方まで様々なレベルに及ぶ。
それらが絡まりあって現在私は私と名乗る状態にある。
社会の中では言われたように出来ること、よく気が付くとか手際がよいということが人として評価される。
周囲から必要とされることが自分の価値となり、存在理由となってゆく。
何か自分が出来ることを誰かが必要とし、その関係の成立によって身をたてて生きていく。
「私」の存在は他者に託されているのだろうか。
他者に対する自分の在り方、受け取られ方ですべてが決まってくる。
自分の意志の実現は他者との間に浮かんでいるように思われる。
自分が他者からどのように感じられているかということに無関心ではいられない。
私が舞台に立ちたいと思う欲望の中に
「居ながらにして消えたい」 ということがある。
ただ消えるのなら死というものがあるが、ポイントは「居ながら」という点である。
私は私でしかなくこの感覚器官、体から逃れることは出来ない。
だからこの場所で必死になる。
しかし現実社会で身を以て必死になるということは、要領よく仕事ができ気配りができ役立つ、今の世の中の状態をすべてとする人間になるということになってしまう。私が引っかかるのはそこである。その抜け目ない人格コントロールと、そういったことしか価値とされないことに疑問を感じる。
完全に自意識から切り離された人を想像してみた。
無我や悟りの域とは少し違う。私はそんな境地に至ったことはないが、そのような場合は自意識から切り離されたというより自意識がひたすら遠ざかり宇宙くらい遠くから自分を引いて見たような感じではないだろうか。それは自意識の遠隔操作であり、絹糸を細く細く紡ぐようなある意味洗練されたコントロールといえるように思う。
狂気による錯乱とも別種のものである。
私が思う自意識から切り離された人というのは、もはや立っていることもしない。
眠っているのでも死んでいるのでもなくべろんと。その質感をたとえるなら豆腐のような。
呼吸とまばたきはしている。でも意志をもって動くことの無い状態。
今まで身につけたことすべてを無くすとこういうことになる。
だとしたらそれが本来の、自然な「私」というものか。
いやそれも頷けない。
それは極度に不自然な状態である。
「虚」の状態
そんな感じがする。
この「虚」はどこか不気味だが、つまり虚構の虚である。
「虚」的なものは誰しもが持っている要素だが、「虚」を意識化し身体的に捉える感受性の持ち主は演劇体質なのだと思う。
フィクションを引き受ける強度というのもこのあたりにある。
そしてこの「虚」がただのウツロではだめである。
この「虚」は「居」を兼ねるものでなければならない。
ここで言う「居」は社会生活の為に身につけたものとは違う、フィクショナルな時間を生きる為のもの「虚」を基盤とした「居」である。
「私」でありつつ無記名の存在の「挙」手。 はじまり。
役者になろうという人はそもそも自意識過剰なところがある。
観られる場に立つのだから、そうならざるを得ない部分もある。
自意識の過剰の果てに宗教的な悟りとはまた違う方法によってそれこそ宇宙まで。
飛翔するようでなければ浮かばれない。
客観的に思い描いた自分。私について。
産まれてから約24年の月日の中で様々なことを身につけた。
育った環境の中で気が付くと身についていたもの
習得しようと努力したもの
それは立って歩けることからぜんざいの炊き方まで様々なレベルに及ぶ。
それらが絡まりあって現在私は私と名乗る状態にある。
社会の中では言われたように出来ること、よく気が付くとか手際がよいということが人として評価される。
周囲から必要とされることが自分の価値となり、存在理由となってゆく。
何か自分が出来ることを誰かが必要とし、その関係の成立によって身をたてて生きていく。
「私」の存在は他者に託されているのだろうか。
他者に対する自分の在り方、受け取られ方ですべてが決まってくる。
自分の意志の実現は他者との間に浮かんでいるように思われる。
自分が他者からどのように感じられているかということに無関心ではいられない。
私が舞台に立ちたいと思う欲望の中に
「居ながらにして消えたい」 ということがある。
ただ消えるのなら死というものがあるが、ポイントは「居ながら」という点である。
私は私でしかなくこの感覚器官、体から逃れることは出来ない。
だからこの場所で必死になる。
しかし現実社会で身を以て必死になるということは、要領よく仕事ができ気配りができ役立つ、今の世の中の状態をすべてとする人間になるということになってしまう。私が引っかかるのはそこである。その抜け目ない人格コントロールと、そういったことしか価値とされないことに疑問を感じる。
完全に自意識から切り離された人を想像してみた。
無我や悟りの域とは少し違う。私はそんな境地に至ったことはないが、そのような場合は自意識から切り離されたというより自意識がひたすら遠ざかり宇宙くらい遠くから自分を引いて見たような感じではないだろうか。それは自意識の遠隔操作であり、絹糸を細く細く紡ぐようなある意味洗練されたコントロールといえるように思う。
狂気による錯乱とも別種のものである。
私が思う自意識から切り離された人というのは、もはや立っていることもしない。
眠っているのでも死んでいるのでもなくべろんと。その質感をたとえるなら豆腐のような。
呼吸とまばたきはしている。でも意志をもって動くことの無い状態。
今まで身につけたことすべてを無くすとこういうことになる。
だとしたらそれが本来の、自然な「私」というものか。
いやそれも頷けない。
それは極度に不自然な状態である。
「虚」の状態
そんな感じがする。
この「虚」はどこか不気味だが、つまり虚構の虚である。
「虚」的なものは誰しもが持っている要素だが、「虚」を意識化し身体的に捉える感受性の持ち主は演劇体質なのだと思う。
フィクションを引き受ける強度というのもこのあたりにある。
そしてこの「虚」がただのウツロではだめである。
この「虚」は「居」を兼ねるものでなければならない。
ここで言う「居」は社会生活の為に身につけたものとは違う、フィクショナルな時間を生きる為のもの「虚」を基盤とした「居」である。
「私」でありつつ無記名の存在の「挙」手。 はじまり。
役者になろうという人はそもそも自意識過剰なところがある。
観られる場に立つのだから、そうならざるを得ない部分もある。
自意識の過剰の果てに宗教的な悟りとはまた違う方法によってそれこそ宇宙まで。
飛翔するようでなければ浮かばれない。