坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

杓子定規

2011年03月07日 | 坊主の家計簿
 首が。。。
 いや、新しい座椅子に変えて、この新しい座椅子の座面が高くてでんな、で、その座面を枕に仮眠するのが最近のマイブーム、っちゅうか、まあ、寝てしまうわけなのですが、起きると首が痛い、痛い。数日前から、痛い、痛い。
 
 なので、今日は銭湯に行って『打たせ湯』っちゅうのをしようと思ったら雨。「雨降ってるのに銭湯行くのは面倒やよなぁ~」と、え~。。。今日も22時ぐらいから24時ぐらいまで座椅子枕で寝てやんの。

 なので24時ぐらいに復活して、録画しているもんでも見ようと諸々。
 昨日の深夜放送だった、え~。。。名前は解らん映画。とりあえず「面白そうか、どうか」だけをチェック。チラッと見たら、なんとなく面白そうだった。

 「君は、今言った言葉を数年後に必ず後悔する」なんぞと、死が近づいた老人が語ってた。なんか、面白そうですやん。
 なので、消さずに『いつか見るリスト』として、保存しとこ。

 で、「君は、今言った言葉を数年後に必ず後悔する」である。

 多分、私はこういう後悔の上に存在している。『多分』というのは、まあ、今までの過去の経験からもあるのだが、んなもんは過去だし。でも、過去の経験上、「あの時に、なんで俺はああいう事を言ってしまってんやろ」なんぞと。
 それは、その言葉を言った相手が死んだり、あるいは、離れてしまった時に。まあ、別れてしまった時に。
 
 「なんであの時」なんぞと。

 でも、それも個人の思いの中でしかない。個人の思いの中でかないのだけれども、それが生身の人間。

 これも半分しか観てないのだけれど、歌人&僧侶の福島泰樹のNHKこころの時代。頭脳警察のメンバーなんぞと一緒にやっている福島泰樹。
 福島泰樹は若かりし頃に入った寺があったそうな。今でも歌人として活躍している能力がある福島泰樹なので、寺に入って本堂改修という事業を成し遂げたらしい。ん?『本堂改修』は変か?まあ、古い本堂から新しい本堂を建て替えたらしい。そこで気力が切れたらしい。気力が切れて「俺は何をしたいのか?」と悶々。心の傷を癒してくれた、居場所を作って呉れた檀家さん達を『捨てて』東京に帰ったらしい。
 その時に福島泰樹は、挨拶&餞別を持って来てくれる檀家さん達にボロボロ涙をこぼしたらしい。「ごめんなさい、ごめんなさい」。
 で、東京に帰って、絶叫歌人としての福島泰樹。非常にローカルな人気なのかも知れないが、でも、一部では人気の福島泰樹。
 寺を離れる時に、ある檀家さんから「ここは出世寺なんです。ここから離れて出世して下さい」やったけな?そんな言葉を贈られたらしい。今も憶えて居られるという事、番組で話して居られたという事は、その言葉が力になったのだろう。

 「君は、今言った言葉を数年後に必ず後悔する」。
 
 そういう言葉を私は沢山抱えている。後悔する言葉を沢山抱えているにも関わらず、変わらずの日々。

 今日出来なかった事で、学習会のブログ投稿、っちゅうのがある。とりあえず日程変更だけはしたのだが、先月の私の発表原稿アップ&感想はまだ。え~。。。明日しよ。

 「自分を通して話す」というのが真宗共同学習ではよく語られる。
 答えでいうと『自分を通す』等、不可能である。
 私の生活等、全く問題になっていない、というのが正解なんだろう。あくまでも『答え』でいうのならば。

 つげ義春の漫画で、道を歩いていたら穴があって、穴があったから入ろうとして、その穴が段々小さくなって来るにも関わらず、「大丈夫だ」と、どんどん穴を進んで行って、身動き出来なくなった時に初めて「ああ」という漫画があったが、死の間際まで自分の人生も他人事。どこかから眺めている。それが煩悩。
 
 だから「自分を通して話す」「自分を問題にする」事など出来やしない。
 出来やしないのだが、はなから断念しているのと、求めないのでは話は違う。煩悩が問題、課題にならない。人を殺しても当り前になる。『当り前』が問題にならない。問題にしようとしない。「それは問題ですよ」と言われた時に、「はっ!」とならない。
 まあ、ならない事はないのだろうが、「そんな事言ってたら生きて行けまへんで」なんぞになる。食の問題しかり。

 なので、「自分を通して話す」「自分を問題にする」とは学習会としての基本理念である事は当然である。当然なのだが、「お前、それは自分の事を喋ってないやんけ!」は、何の事でも同じである。
 自分の人生での辛かった事を話していようが、世間の話題だろうが、みな同じではないのか?

 『世間の話題』と言っても、その話題を選択したのは『その人』である。ツイッターでは『リツイート』といって、「お、この意見面白いやんけ」とか、「この情報面白いやんけ」というのを『リツイート』して広げて行ける機能がついている。
 世間話、井戸端会議でも同じ。
 「テレビでこんな事言ってたで」を感じたのは、その喋っている人。
 その『喋っている人』に対して、「その話もっと聞きたいわ」「あんたの意見も聞きたいわ」なら、『聞きたい』というのは質問者側。
 「あんた、さっきから自分の意見、全然言うてないやん」は、意見をいう人の話を聞いていない&自己責任の放棄、主体の放棄。主語の欠落。
 相手は意見を述べているのだ。それが「テレビでは」であっても。その意見を聞き取れなかった、あるいは、もっと聞きたいというのは、『聞く側の問題』であって、話す側の問題ではない。あくまでも『会話』の中でも行き違いを相手のせいにするのは『聞く力』の欠乏と自己責任の放棄。
 信頼されてどんな話、どんな話題、どんな話し方であっても、『信頼されている』のなら話せる事も多々ある。その可能性を「それは自分を通していない」なら、まあ、「誰もが自分を通した話は出来ない」ならともかく、「誰もが自分を問題にする事など出来ない」ならともかく、あくまでも『学んだ』『体験した』等から得られる経験値でもって、「おまえの話は」は、変である。
 「世間でこう言っているから当り前やん」には自己責任はない。
 同じく、「仏教でこう言っているから」にも自己責任はない。
 大した違いはない。『話題』の違いだけ。

 「こうこう、こうだから、これは当り前やねん」は、自己責任の放棄。
 主語としての『私』が抜け落ちている。
 んが、悲しいかな、主語が抜け落ちた生き方をしていたりする。さも、「これが私の意見です」なんぞと良いつつ、

【人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った。人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした。するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った。しかし、ペトロはそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言った。少したってから、ほかの人がペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、ペトロは、「いや、そうではない」と言った。一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張った。だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。】(ルカ福音書22章54-62)

Newest Model - 杓子定規