坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

天の恵み

2011年03月23日 | 坊主の家計簿
 スポーツニュースも復活。娘とママが寝た後に、こたつでそのまましばらく寝てしまって、起きたらやってた。

 何やら、プロ野球・セリーグ開幕がまだ揉めているらしい。チラホラ見てると誰かが「勇気を与えられる」とかウンタラかんたら。サッカー選手も「勇気を与えられる事が出来れば」とかウンタラかんたら。
 シャワーを浴びて、ネットを立ち上げる。

 辻仁成。。。さすがである。さすが、胡散臭さは天下一品の辻仁成。

【中山美穂、約10年ぶりの新曲は被災地応援ソング!夫・辻仁成が作曲を担当】(http://news.nifty.com/cs/entame/moviedetail/cnmtoday-N0031192/1.htm

 いや~、御商売上手である。当然、これは『直接的』には金にならん。直接的には金にならんが、人気商売の芸能人、「さすが」の一言である。

 で、「勇気を与える事が出来れば」である。
 え~。。。東北の人って、殆どが巨人と楽天のファンだと思うのだが。まあ、阪神ファンも少しは居ているかも知れない。今や日本一の人気球団だし。でも、広島球場で開催される広島対横浜の試合で「この試合を見て、少しでも東北の方に勇気を与える事が出来れば」って(笑)え~。。。その試合があった事すら気づかない、というか、ほぼ、関心がなかったりすると思ったりするのだが。
 プロ野球の開幕は純粋に電力の問題。仕事場の電力消費量が問題になれば、それは「開催したい」ではなく、「開催出来ない」。それだけの話であって、何を勘違いしとるねん。

 「あ、課長ですか。こんな時に仕事している場合じゃないですし、仕事をする気分になれないのでしばらく休ませて頂きます」と、クロネコヤマトの構内仕分け作業員が言い出したら、物流はストップする。東北に送るべき物資がストップする。
 「今、仕事をしても被災者の方々に勇気を与える事は出来ない」と、カップヌードルの工場で働く労働者が言い出す事もないだろう。仕事なんだし。

 昨日、テレビを見てて、「もう、エエ加減にせんかい!」と。テレビ内容よりもCMである。公共広告機構のCMばかり流れる。他で見るのはCM復活当初から流れているユニクロ、「まあ、ユニクロがやっとるし」という事で、洋服の青山やったかな?なんか、スーツのCM。他、知らんブランドの服飾メーカー。ニトリのCMも見た気がするのだが、CM提携している番組に当たらないのか見ない。今朝、牛丼のすき屋のCMを見た、ぐらいか。他は、ほぼ、公共広告機構のCM。
 オシムが「スピードが命」なんぞと煽り、赤星が寄附を煽り、「思いは形に現さないと伝わらない」なんぞと煽る。
 煽られると「何かしなければ、何かしなければ」である。
 公共広告機構のCMで煽られなくとも、テレビの内容でも煽っているし。

 「今、私たちに出来る事」
 って、そんなにない気がする。当然、地域差と、個人差がある。
 西日本で節電する事は「被災者の気持ちに寄り添いたい」という効果はあるが、実質の電力の問題ではない。
 大阪でも多少不便になった日常生活の中で、毎日の仕事をして、生活費の中から出来る範囲の義援金を託すぐらいのもんである。そんな中でプロ野球の開催ウンタラかんたらを見ていると、「テメーら、仕事せえ!」と。
 ただ、斎藤佑樹が「僕の仕事は野球をする事ですが、こうしたチャリティーをする事も仕事かと」みたいな事を言っていたのは賛同出来る。けど、それは野球の試合をしながらでも出来る。

 大阪の府議会議長が「天の恵み」(http://hochi.yomiuri.co.jp/osaka/gossip/topics/news/20110322-OHO1T00060.htm)という失言をしたらしいが、「腹芸の出来ない議長は如何なものか」なんぞと思ってしまうが、まあ、今回の大災害を『天の恵み』と思う人はかなり多いと思う。
 特に建設、建築業などにとっては『天の恵み』以外のなにものでもない。まあ、商売上手だから言わないだけの話である。「災害に強い○○住宅」などのCMを流すのは得策ではない。今の時期に流すと企業イメージのダウンにしかならず、それは今後の仕事、天の恵みを取り損ねる可能性がある。だから流さない。
 同じく、『プロ野球』という人気商売も同じ。「今やるとマズいっすよ。人気、落ちますよ」なんだろう。それが商売なんだし。『商売』という言葉がキライならば、生活手段である。

 被災地入りしているNPOや、宗教団体、その他の人達も居ている。
 NPOというと、何か純粋っぽいのだが、単なる生活手段である。専従職員はちゃんと給料を貰っている。被災地入りするのが仕事である。生活手段である。仕事の一貫として被災地に入って、情報提供して後続部隊(?)の受け入れ態勢を整えたり、あるいは、その場でやれる事をしている。きっと後続部隊には『仕事を休んでも支障のない人』『学生』『休みを利用して何かしたい人』なんぞが入るのだろうが、別に被災地入りしなくとも、それぞれの仕事をする事が被災地に対しても有用な事である。クロネコヤマトの仕分け労働者だけでなく、それぞれがそれぞれの仕事をする事が、「今、出来る事」なんだろうし、「私には何も出来ない」のならば、何もしなくても全く問題はない。生きているんだし。「私は何も出来ないし、勇気を与える事も出来ない」というのは、違う。それは世間の圧迫から生じるストレスだ。放っておいても「引き蘢りは悪だ!」みたいな感じで騒がれる昨今の中、今回の様な大災害でより一層のストレスを感じられて居られる方々も居ているだろうが、んなもん、やれる人がやればイイ。御国の非常事態だろうが、なんだろうが、「助け合いが大事だ!」「今、私たちに出来る事」なんぞと煽り立てられても、『生きている』だけで価値がある事には代わりない。

 なんぞと言いつつ。
 私は『僧侶』という仕事でメシを喰っている。読経という音楽療法も大事な仕事。
 先日、というか、昨日は遠方の葬儀会館での法事。ふと「東北へ行きてぇ。。。」と。
 今、東北では、それこそ『直葬以下』という『直葬』という葬儀を選ばれた方々をバカにする様な失言をしていた方が居られたが、亡くなられた方々の御遺体を見送る事が出来ずない場合が多々あるらしい。それは僧侶の数が足らない事も原因の一つかも知れない。真宗門徒ならば『僧侶も門徒も、皆門徒』なんだが、やはり、『僧侶』の読経が、それを見送る自衛隊員や、救急隊員、遺族の方々にとって大切である場合もある。それが理由の一つなんだが、もっと言うと、そういう場で読経する事によって、『読経の力』を再確認出来るのではないかと。
 なんか、「坊主はお経だけ読んで」と卑下される方も居られるが、今回の様な大災害で『読経の力』を再確認するのもエエのでは?
 私が行きたいのは、読経の研修に行きたい。
 当然、行けない。

 話は少し変わるが、本山の御遠忌法要に対して「延期すべきだ!」とか、「中止すべきだ!」の声もある。え~。。。多分、全国の大谷派寺院の中で、延期、中止して、現実問題として一番喜ぶ住職は私かも知れない。だって、ブログには書けないが、諸々の事情でもって今頃、今になって団体参拝の呼びかけをしているわけなんだし(笑)延期や、中止になってくれたら、どれだけありがたいか(笑)いや、ホンマ、大変でっせ。呼びかけ期間が2ヶ月もない状況で、かつ、今回の大震災。中止や、延期の声が上がっているのをどれだけ『天の恵み』と思った事か。でも、まあ、それは個人的事情なので、あくまでもワガママなので、「そりゃ、違うぜ」なんだが。

 まあ、そういう事情もあり、行けない。かつ、東北は遠い。かつ、諸々の事情で、損失金額が5万円あり、その中で義援金もあり、え~。。。「今は無理」なんだが、行きたい。
 まあ、夏休みを利用して、ママと娘に「ゴメン!どうしても行かせてくれ」と頭を下げて行くつもりなんだが。
 丁度、宮古に道場時代に一年間ずっと横で寝てたヤツの実家の寺があって、名簿を見ていると他にも居てる。なんとか連絡して、コネをつけて、「頼むから後ろについて読経させてくれ」か、被災地で勝手に読経するか。何にしても読経したい。『読経芸人』と揶揄されるが、『読経芸人』として読経したい。それが芸の肥になる。あ、『芸』ではないが、『喪失感』という、それこそ、声明の先生に怒られる様な話なんだが、私のくどい、クセのある声明をより一層『悲しみに寄り添う読経芸人』として、あの場に実際に立って読経したい。ボランティアもクソもない。被災者支援もクソもない。でも、それが正直な気持ちだったりする。
 
 だから、今、丁度学生だったり、『お寺の若さん』だったりして、あるいは、「これから僧侶としてやっていく自信がない」という方々ならば、被災地に行って読経してくればエエのではないのか?きっと、一生涯の財産になる。

 今回の大災害は主に津波の被害であり、規模が全く違うので、それこそ阪神大震災に関わった方々で現地入りなされた方々の情報を見ていると「阪神大震災での経験は役に立たないかも知れない」という情報もある。
 が、阪神大震災のボランティアが実は「自分探しの旅」でもあった側面もある。それこそ、被災地に行って『被災者』と呼ばれる方から「兄ちゃん、大丈夫か?」等と声を掛けられたり。冗談でなく、結構ある。

 助け合い、というが、物資面では確かに『助ける人』『助けられる人』かも知れないが、精神的ケアでなら、それこそ、お互いの助け合いではないのか?
 だから、「少しでも勇気を与える事が出来れば」等という、意識に違和感を感じる。
 感じるのだが、そういう事をいうのが仕事だったりするのかも知れない。
 
 大阪の府議会議長の『天の恵み』発言。
 それこそ、「被災者の人達がこんな言葉を聞いてどんな気持ちになるのか考えた事があるのか!」ならば、拡散しなければイイ。でも、マスコミでもツイッターでも情報は流れまくる。広がりまくる。その言葉で傷つく人が居ているのならば、その情報を流す事を自粛してもイイと思ったりもするのだが、でも、流し、拡散しまくる。

 『天の恵み』という言葉は当然、真宗では使わない。また、大阪府議会議長が発した『天の恵み』という言葉使いとは少し違って来るんだろうが、今回の大災害は『如来様よりの問いかけ』であったりする。あくまでも個人的感覚なんだが。

 だから、「こんな時に何も出来ない私って」なんぞと思う必要もない。
 私は勝手に『今、私たちに出来る事は?症候群』等と呼んでいるが、そこから沸き起こる『役に立つ(何か出来る)』『役に立たない(何も出来ない)』が、それこそ脅迫的にマスコミから垂れ流されている。
 それぞれのいのちが、それぞれの生活がどれだけ大切であったのか、それを奪われる、突然無くす辛さがどれだけ辛い事かを改めて教えて頂けたのが大震災。だったら、それぞれの『いのち』『生活現場』を大事にする事が一番大事ではないのか?後はそれぞれの人生。

 被災をこれ以上広げる理由があるのだろうか?

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