坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

As tears go by

2011年03月10日 | 坊主の家計簿
 娘の保育園の入園説明会。
 ママだけでも良かったのだろうが、一応。説明会は午後2時からだったし、朝からやる入園式には行けないし。私が迎えに行く事もあるだろうし、雨が激しい時なんぞには送り迎えもしたいし。
 っちゅうか、まあ、単に一緒に行きたかっただけなんだが。。。

 新しいクラスは10人らしい。1歳児コースらしい。同級生の顔を眺める。「勝った。。。」と(笑)まあ、親のひいき目なんだが、勝った。。。人間は勝ち負けではなく、外見も成績も勝ち負けではないのだが、勝った。。。

 これで新しい心配が出来る。とりあえず娘はミス○○組になる。○○組で一番かわゆいのは娘になる。
 勘違いしないだろうか。。。「男って、みんなバカ」とかになったりしないだろうか。。。3倍返しのバレンタインなんぞで「こんなもので私が喜ぶと思って?」等と調子付いたりしないだろうか。。。不安だ。。。
 と、まあ、入園前から何の心配をしているのか解らんのだが。。。

 今日は娘、大はしゃぎ。説明会の時も後ろでごそごそと同級生やお姉ちゃん、お兄ちゃん等と遊んだり、クラスに入ってからも「キャハハ!!!」と叫びつつ、走り回る。
 そういえば、娘にぶつかったお兄ちゃんが居てて、保育園に来るという事はまだまだガキのはずなんだが、しっかり「ゴメンね」と謝っていた。思わず娘との縁談話を持ちかけようと思ったのだが、それは娘にとっては大きな御世話以外のなにものでもないので、辞め。しかし、エエ少年やった。ん?『少年』まで行かんか。

 私は保育園ではなく幼稚園から。今でも記憶に残っているのだが、初めて(?)幼稚園に行く時に私はひたすら泣くじゃくっていた。「なんでこんな所に行かんとアカンの!」「家に居ったらアカンの!」と。まあ、行ったら行ったで楽しい幼稚園生活だったのだが、初めて行く『学校』っちゅうもんに無茶苦茶抵抗感があった。幼稚園が『学校』と呼べるかどうかは別にして。

 幼稚園の時は絵の具を飲んでた記憶がある。「オレンジ色はミカンの味」なんぞとわけの解らん事を言いつつ。きっとお絵描きもしたのだろうが、絵の具を飲んでた印象の方が深い。まあ、お陰様でいまだに絵が下手だったりするのだが。
 NHKの子ども番組『いないいないばあ』では視聴者から投稿された絵が紹介されるコーナーがある。赤のクレヨンで「ぐるぐるぐる~」っと描いてあったらことみちゃん。黄色だったらうーたん。緑色だったらワンワン。ことみちゃんは「みんなじょうずに描けたね」なんぞと言ったりする。パパは「んなわけないやろ!」とツッコミを入れる。絶対に保育園とか幼稚園で働かれへんな、俺。
 赤でぐるぐるぐる~っと描いただけで「ことちゃん」という感性は持ち合わせていない。

 テレビドラマ『SP』を知ってネット検索をかけたら、岡田准一演じる主人公はフォトグラフィック・メモリー(映像記憶)なる能力を持っているらしい。これは私も昔は持っていた。テストの時なんぞに頭の中で教科書をめくって行ってた。
 なにやら『ヒトでは幼少期にこの能力は普通に見られ、通常は思春期以前に消失する。』(wikipediaより)らしい。
 で、『ヒトは言語によって自然界の事象を抽象的に把握する能力が向上したために、映像記憶の能力が衰えたとも考えられる。』(wikipediaより)らしい。
 え~。。。ようするに私は理屈っぽくなったわけでんな(笑)

 今日、娘が保育園の柱を指差して「あ!」とか言ってた。柱にはカブトムシが描いてあったので、私は「これはカブトムシ」と説明してたのだが、娘が何を指差していたのかは解らない。何に関心があったのかは解らない。

 原っぱには実に多くの植物が生息している。その一つ一つ、また、植物の一つ一つの部位を言語化出来るのだろう。残念ながら私には出来ないが、「え?これとこれって同じと違うん?」なんぞと。きっと野草やキノコ採集は辞めた方がエエ。
 でも、野原は野原。野原として何かしらの循環もあるのだろう。
 地球も、宇宙も。それらを区別する。言葉でもって区別する。

 「これは人」「これは猿」
 「これはカブトムシ」「これはゴキブリ」
 「これはペット」「これは害虫」
 「殺して生き物」「殺したらいけない生き物」
 「殺して良い人」「殺したらいけない人」
 「立派な人」「ダメな人」
 「優等生」「落ちこぼれ」
 「ミカン」「腐ったミカン」

 ♪シュプレイヒコールの波、通り過ぎてゆく~

 あ、金八が(笑)

 今日、娘が説明会の時に「私、ヒマ~」と。まあ、説明はママがしっかりと聞いていれば良いので、娘を連れて後ろの方で他のガキどもが遊んでた所へ。パパ、一応、説明を後方で聞く。
 気が付くと娘は『おままごと』のセットで遊んでいる。玩具のキッチンセット。保育園の先生らしい人が「上手に炒めたね」等と言っている。
 鍋があった。蓋のない鍋。娘は鍋の蓋を探して来て鍋に被せる。迷い無く探し出して被せる。「うちの娘、賢いのぉ。。。天才違うか」と親バカ。なんだが同時に「違う!」と。「もっと、近くにある皿とか色んなもんを被せて実験せえ!」と。まあ、私が見ていない間に鍋と蓋がセットであったのかも知れないが、それでも色んなもの、全く見当外れの皿なんぞを被せて欲しかった。そっちの方が自由じゃん。
 でも、それでもエエのかな?っと。

 言葉は言葉でもって解体するしかない。
 どうせ知識は付く。言語化をどんどんして行く。ならば、それを途中で止めてしまうから差別が生じる。
 「あの人達と一緒に遊んだらイケナイのよ」なんぞで止めてしまうから差別が生じる。
 「あの人は悪い事をしたから殺されても当然なのよ」で止めてしまうから差別が生じる。
 どうせなら、「もう、ワケが解らんわ!」ぐらいまで、徹底して言葉を追求して貰いたい。
 もしくは、その言葉(言語化)でもって、どれだけの人を切り裁いて来たのかを。
 アホになるまで、道を求めて貰いたい。「私はアホだった」まで道を求めて貰いたい。
 「知らない事だらけである」まで道を求めて貰いたい。

 「あ!私って、物知り顔で居たけど、物知り顔で色んな分別をして来たけど、その分別でどれだけの酷い事を『当り前』にして来たんだろう。ごめんなさい、南無阿弥陀仏」と。

 
 なんとなくまとまってしまったのだが、非常に残念ながら私は飲み足りず、グラスの中に焼酎お湯割が残っていたりする。
 なのでもう少しグチャグチャと。

 娘に刺激されたわけではないのだが、6月から学校(?)に行こうと思う。まあ、一週間に一度、夜の数時間だけの学校(?)なんだが。
 どうも、坊さん学校を卒業してから時間が経てば経つ程、なまって来る。怠けて来るし、なまって来る。『念仏者』としての緊張感というか、求道心がなまって来ている。だから、卒業した学校から送られて来る機関誌や、たまに会う在学中の人に会うとビシビシ来る。「ああ、なまっとるのぉ。。。」と。「なあなあにしとるのぉ。。。」と。
 リハビリという言葉が適確かどうかは知らないが、まあ、リハビリである。鈍った刀を研ぎ直しに行くような感じである。

 安田先生は生涯『学生』という言葉を大事になされたと聞いている。つまり『仏弟子』である。『仏』の『弟子』である。
 最近の私は間違いなく『主』になっている。『弟子』ではなく『主』になっている。
 あえての表現なんだが、『門徒』から『僧侶』になり、『僧侶』から『住職』になった。住職が完成形であるわけがない。また『門徒』→『僧侶』→『住職』とレベルアップして行っているわけではない。わけではないのだが、勘違いし易い環境に居ている。勘違いしやすい環境だからこそ、「あ、先生、お荷物を持たせて頂きます」という環境だからこそ、『仏弟子』としての自覚が必要、「共に仏弟子である」「御同朋」という自覚が必要なんだが、「御住職」「先生」なんぞと呼ばれて勘違いしている。怠けている。

【我々は寺の住職というわけですが、その住職は正覚阿弥陀法王の善力住持というところからくるわけです。すなわち住持職です。よく大衆を住持することのできる者のことで、これは阿弥陀如来のことです。だから、我々が住職を名告るとか呼ばれるとかいうことは実は値しないものが、その名を名告りその名で呼ばれるということで、そこには深い懺悔があることです。】(竹中智秀先生『いのちの願いに聞く七章』142ページより)

 なんだが、慣れっこになってしまっている。
 なので、再教育をして貰わないと、私が危ない。もう一度、ブチ壊して貰わないと、いや、自分を壊す訓練、自分を解体して行く力と出会い直す訓練。

 もう1つ。
 これは娘が保育園に入る事に刺激を受けたのだが、近所に大学の図書館がある。うちから一番近い図書館。歩いても5分程度。自転車ならもっと近い。
 大学の図書館なので「学生以外は無理」と思ってたら、なにやら2年間で2000円の登録料を払えば利用出来るみたいだ。仏教系の書物も沢山ある。その他の書物は調べていないが、色んな入門書から専門書まであるのだろう。仏教書がそうなので。
 娑婆の論理で金は必要である。まして、これから娘の教育費なんぞにも金がかかる。
 ならば、信仰としてならば「ただ念仏」なんだが、『僧侶』として『住職』としてのスキルアップしておかないと。
 信仰とは別なんだが、『世間に役立つ僧侶』『世間に役立つ住職』としてのスキルアップを。
 あ、失敬。っちゅうか、ごめんなさい。
 『世間に役立つ僧侶』『世間に役立つ住職』ならば、今、私を、まあ、様々な理由なんだろうが、明日も仕事である。私を必要として下さる方々が現実に居ているわけであって、その人達に対して無礼極まりない発言(書き込み)である。本当に申し訳ない。
 なので、言葉を改めると『もっと金儲け出来る僧侶』『もっと金儲け出来る住職』やな。

 幼稚園に4月から行き出す娘。それまで生きているのかどうかすら本当の所は解らないのだが、当然、生きていて欲しい。だから、娘が大学に行きたい、と言い出した時に、それこそ、「勉強したい事があって、その先生は東京の○○大学に居てるから、私はそこに入りたい」なんぞと言い出した時に、親の情として、私のプライドを保つ為に、「ごめん」でなく「行って来い」と言いたいし。

 今なら、山田邦男名誉教授が居て、森岡正博が教授の大阪府立大学の人間社会学部に入って貰って、その後に大谷専修学院から大谷大学大学院の博士課程まで行って貰いたいと勝手な親のエゴ。
 まあ、私が行きたい、学びたいコースだったりするのだが。。。今から大学に行っている余裕もないし、図書館で本借りて勉強しよ。

 しっかし、俺もやっぱし、典型的な、ステレオタイプ的な『親』やねんなぁ。。。見事なまでに自分が出来なかった事を子どもに押し付けようとしている。
 その根本は未練であり、成仏出来ていない私である。私の人生を私自身が否定しているのが根本である。煩悩具足の凡夫である私の問題である。
 なので、娘が今後どういう風に育って行くのかは解らないが、娘に対して何か言う時に「それは私のエゴである」という事だけは間違いない。
 「そんな事してたら、大きくなったら大変やで」も、しかり。