坊主の家計簿

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 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

筋の道

2011年03月18日 | 坊主の家計簿
 昨日は道場・同窓生の会の会報発送作業。
 朝、非常に珍しく、先輩からも電話で「今日は人手が少ないから絶対に頼む」なんぞの連絡。行く予定だったし、深夜のメールもしたのだが、前日深夜メールは、まあ(笑)え。。。今度からもっと早く連絡しよ。
 まあ、そういう「人手が少ない」と電話連絡して来るぐらいなのだから、「こりゃ、結構終わるのが遅くなるなぁ。。。」と覚悟する。
 っちゅうても、まあ、普段の仕事があるわけであって、仕事を終えて京都へ。食事も駅の立ち食いうどん。「急げ、急げ」である。
 
 京都の作業する場所に到着。「ん?なんか靴が多いやんけ。他になんかやってるのかな?」と思いつつ、部屋に入る。人、むっちゃ居てる。入ってすぐの所に院長先生も居てるし、職員やら、卒業したばかりの人やら。何やら、被災者カンパの呼びかけ文を同窓生の会と、道場の院長先生の連名で呼びかけるらしい。そういう事もあって、院長先生が声をかけたらしい。発送する紙が一枚増えるだけなのだが、まあ、院長先生らしい。久しぶりにベテラン先生や、ビハーラ研修の案内も入るので、ビハーラに関わっている先輩等も来られていて、懐かしい交流。
 あ、作業は『記録的』というか、発送作業始まって以来最短の時間で終了。2時30分頃に到着した私は30分しか働いてません(笑)

 事務局中心に近くの喫茶店へ。いつもならまだまだバリバリ作業している時間なので、続々といつものメンツが登場。まあ、「今日の終了は9時ぐらいかも知れんのぉ」だったし。

 で、まあ、結局数人で飲みに行って、終電で帰宅する。

 行った激安居酒屋。え。。。場所もエエ場所だったのだが、ヒマ。19時から23時近くまで居たのだが、満員には程遠い。3分の1も入ってたかな?19時に入店した時は私たちだけだったし。
 自粛ムードなのかも知れない。

 本山の宗祖親鸞聖人750回御遠忌法要の第一期法要が中止になったらしい。

 http://www.higashihonganji.or.jp/goenki/news/detail.php?id=230
 http://www.higashihonganji.or.jp/goenki/news/detail.php?id=232
 http://www.higashihonganji.or.jp/info/news/detail.php?id=233

 まあ、名称を『被災者支援のつどい』として開催するらしいが。

 え~。。。
 様々な状況判断の中、恐らく苦渋の決断をなさったのであろうが、非常に残念である。無茶苦茶残念である。腹立たしい程に残念である。
 そうなのである。私は怒っている。

 だいたいやなぁ、それは仏法を信じてない、っちゅう事ではないのか?仏法の働きを。また、「やったら御遠忌なんぞするな!」とも。
 事実、現実問題として燃料が「それこそガソリン買うのにムッチャ並んでます」とか、「軽油が手に入りません」とか、その他の交通網も危ないらしいのだが、別に名称を『被災者支援のつどい』にしなくとも、今回の御遠忌は必然的に『被災者支援のつどい』にならざるを得ないのではないのか?何の為に『カフェあいあう』がある。様々な意見交換出来る場を作ったのだ。
 また、法話、御念仏の教えを再確認して、それぞれがぞれぞれに『青草人』、あ、これは同窓生学習会の名前なんだが、無名の市井の人として、それぞれが立ち上がって行ける力を与えてくれるのが真宗の教えではないのか?それが故の宗祖の生涯ではなかったのか?

 ちょっと、何の本に書かれてあったのか思い出せないのだが、ある本にこんな逸話が書かれてあった。
 とあるお寺の坊守(住職の配偶者)のお婆ちゃんが、亡くなりそうだった。死期が近づいて来た時にそのお婆ちゃんは葬儀の心配をした。葬儀と寺での法要が重なって、法要を中止になる事を恐れた。だからお婆ちゃんは「雪に埋めろ」と指示をした。「雪に埋めて、葬儀を伸ばせ」と。それぐらい、寺での法要を大事になさった先達がおられる。

 また、これは北陸だったか?原発反対運動の時に旗にどういう言葉を書くべきか迷っている時に、とある人がやって来て「南無阿弥陀仏」を書いたらしい。

 また、「藤井さん、驚きをとおりこした悲憤いっぱいの臨界事故。おみまいの言葉も申せません。このたいへんな状況のまっただ中で、いよいよ”真宗”を顕らかにしていくという仕事の大きさ重さ、深刻さをおもいます。どうかお身体にごむりなきよう、敬意をこめて…」(真宗ブックレット『いのちを奪う原発』収録「ヒバク」その悲しみの時代 東海村臨界事故から見えてきたこと 茨城県東海村 藤井学招)

 等と。

  浄土真宗に帰すれども
  真実の心はありがたし
  虚仮不実のわが身にて
  清浄の心もさらになし
 (親鸞聖人)

 が、私であり、他人の事など全く考えようとも出来ない罪の深さを照らし出して頂けるのが真宗仏教の念仏の働きではないのか?

 また、御遠忌を縮小、あるいは中止して「義援金として被災地に送るべきだ」等という意見もあるが、それは筋が違う。御遠忌の為に集めた志であって、ならば一度返却すべきではないのか?事務処理は大変だろうが、「これだけの金額を義援金として被災地に送ろうと考えていましたが、一度、皆様にお返しして、皆様に御任せいたします」等の一文と、返還する気持ちを伝えれば、その事が運動になる。決して「大谷派として○○億円の寄附をした」と、世間的評価は得られないかも知れないが、返還した『志』が、それぞれの『志』として何倍にも、何十倍にもなるかも解らない。大谷派に託される方も居られるだろうし、「いや~、うち、最近生活に困ってるからそのまま頂くわ」かも知れないし、何に使われるかは解らない。
 解らないが、それこそ、今回の御遠忌予算に対して「割り当てるのでなく、御門徒の志に託そう」という動きがあったが、義援金に関しても、御門徒の志に託すべきではないのか?
 その結果、「大谷派として○○億円の義援金」というのは無くなるかも知れないが、でも、それぞれがぞれぞれに様々な形の義援金として『志』をなされるかも知れない。それが筋ではないのか?同朋教団としての筋ではないのか?

 また、『御遠忌を中止した』という先例があるのか無いのか知らないが、左翼的妄想から心配するのは、この事が先例となって、「御国の一大事の時に、御遠忌などしている場合か!あの大災害の時に私たちの先達は御遠忌を中止して、多額の義援金を送ったではないか!」等と。
 例えば、戦争時の銃後の守りで多額の義援金が必要になった時など。まあ、左翼的妄想なんだが。。。

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