坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

御遠忌の朝

2011年03月19日 | 坊主の家計簿
 駅前に新しいラーメン屋が出来た。以前も同じ場所でラーメン屋があったのだが、3ヶ月ぐらいで閉店。結構、美味しかったのだが、ラーメン650円。この辺りで650円あれば、ラーメンに焼き飯が付く。定食は400円から食べれる。多分、ミナミとかなら「美味しい」と評判になって、650円でもやって行けたのだろうが、この辺りでの商売はキツかったのか。
 今回新しく出来たラーメン屋は550円。ランチタイムには700円やったかな?唐揚げとライスが付いて700円ぐらいならば、他の中華料理屋と充分に勝負出来るし、夜でも550円ラーメンならば他の中華料理屋と勝負出来る。ライス100円でお代わり出来たはずだし。650円で腹一杯になって、かなり美味しい、っちゅうか、とんこつラーメンのスープとしては絶品のラーメンだし、まあ、勝負出来るだろう。

 以前のラーメン屋もお気に入りだった。650円と少し高いのだが、太麺でボリュームもあって、スープも結構イケた。近所にあると非常に有り難い店。でも、潰れた。
 今度の店は潰れては困る。

 前の店の店主が借金をして店を作ったのかどうか知らないし、今度の人もそう。借金をして作ったのか、実家が金持ちで御気楽商売なのかは知らん。でも、潰れると困るのだ。

 大阪でも数日前から2リットルのペットボトルの水がない。
 「水がなければビールを飲めばいいじゃない」と言われるかも知れないが、朝からビールを飲むわけにもいかない。
 私はお茶を飲まない。ほぼ白湯ばかり飲んでいるのだが、2リットルで59円やったかな?の、ミネラルウォーターも飲んでいる。そろそろ在庫が少なくなって来て、いつも買いに行く遠方の店まで行っている時間がなかったので、近くの薬局&酒屋2店、共にない。この間はあったのだが、ある噂ではカップ麺もないらしい。そういや、薬局のカップ麺コーナーには在庫が殆どなかったし。ただ、特売88円のヤツだけであって、通常価格128円の商品はあったのだが、そろそろないのかも知れない。

 こういうのを『買い占め景気』と言っていいのだろうか?商品がない、という事は、カップ麺だったり、ミネラル水だったり、電池、トイレットペーパー、紙オムツ、ナフキン、なんぞの業界は忙しくてたまらん状態なんだろう。きっと株価も上昇しているのかも知れん。
 建築業などもそうだろう。今はまだ入れる状態ではないのだろうが、これから東北では復興に向けた建築ラッシュの好景気である。地元の建築会社や、今回の災害で職を失った方々にも仕事が出来る。非常にエエ話である。きっと300数十万の失業者の方々にも仕事が入るだろうし、まあ、飯場仕事が出来る人でないと無理だが、釜ヶ崎等の寄せ場で生活して居られる方々、「万博は俺らが作ったんじゃ!」とプライドを持って居られる方々の代わりに「東北は俺らが復興させたんじゃ!」というプライドになるかも知れん。

 けど、それまでの裏に、経営に苦しんでいる方々も居られる。

 プロ野球の開幕で揉めているらしい。それ程興味がないのだが、今日の昼間、車で移動中にAMラジオのキャスターがエライ激怒してはった。いわく「こんな時に野球なんかしている場合か!」である。
 いや、あーた、こんな時もクソもないでんがな。
 まあ、説得力のあるのは東京ドームなんぞの、今、計画停電している地域でのナイターは「おい!」だろう。計画停電している地域の人達にとっては「その電力をこっちにまわせ」だったりするのだろう。
 
 今回の大災害で義援金が多く集まっている。

 ふと、香典について考えてみたりもする。
 最近、香典拒否の葬儀が多い。でも、今回の大災害で「こんな大変な時に私はぬくぬくとした生活をしていて本当にいいのだろうか?」と、感じられる方は多い。そして、罪意識を持ったりする。これは葬儀でも同じである。私は坊主バー3代目マスターが死んだ時に、かなりの『香典』ではないが、かなり高額の金で通夜の酒を用意した。これは私自身が故人に対する罪意識の禊である。香典は基本、相互扶助なんだが、罪意識を祓う禊としての、まあ、香典を払う事によって、親しい人を無くした心のケアの働きもある。だから、受けとりを拒否する事は、故人と親しい人達の心のケアを奪う事にもなる。また、香典返しをしていく作業の中で、遺族の心のケアにもなる。面倒なんだが、大切な作業である。

 今回の大災害で多くの義援金が集まっている。それは相互扶助であると同時に罪意識のケアにもなる。「こんな事しか出来ませんが。。。」と義援金を送る事によって、ほんの少しだけなんだろうが、「私はやった」と。
 祈りでも同じである。『被害者に対する祈り』と言っても、まあ、これは宗教観が問われるのだが、無霊魂ならば、祈られる対象はない。あるのは、それぞれの心の中に居る『被害者』である。だから、被害者に対して祈る事によって、心の中に存在する被害者に対する罪意識のケアになる。
 
 同時に、その姿を見る事によって、「ああ、私も死んで行く時には、みんなからああいう風に大切に思われるのだ」という安心感にもなる。だから、とても大事。

 イベントの自粛ムードが流行中。
 プロ野球の開幕に関してのアンケートでも「こんな時に開催しても、楽しめない!」(http://www.daily.co.jp/information/top/0003871877.shtmlより)等とある。その他、多く聞く声であったりもする。
 非常に心優しい感覚。きっと、優しい方なんだろう。

 私は小さなバーを経営していた。小さなバーだったので、仕入れの支払いは現金払い。その度。だから、毎月の売り上げから「ようやく、これで家賃が払える」と。そこから「これで電気代」「これで水道代」等々。最後に残ったのが私の収入。

 「こんな時に『そんな金を使っている場合か!そんな金を使っている余裕があるのなら被災地にまわせ!」

 私は『そんな金』で生活していた。また、今も多くの方々が『そんな金』で生活して居られる。

 いつもニコニコ現金払いだった小さなバーの経営と違って、手形なんぞの商売をしておられる方々も多くいる。その為に少し利子が高くとも金を回しておられたりする。

 イベント。多くの業者が出入りしている。開催が中止になればキャンセル料は発生するかも知れないし、場合によっては泣かなければならない。また、イベントを見越して、例えば、弁当屋ならば、弁当屋に納品している業者がいている。この不景気な中、イベントで入って来るお金が延期になる事によって、会社が倒産したりするケースや、「義援金を払ったから、今月は飲みに行くのを控えよ」で、潰れる店も出てくる。
 それは『仕方がない事』なんだろうか?自粛ムード、優しさの裏に泣いている人たちの姿は想像出来ないのだろうか?

 当然、それも引っ括めての商売である。小規模の商売に『営利目的』もクソもない。『生きて行く為の商売』である。『生きて行く』という事においては被災者と変わらない。自粛ムードの中で二次災害を起こしてどうする?

 助け合い『お互い様』は大事。でも、特定の『助け合い』に心を奪われて、日常に行っている生活の中での助け合い、経済活動という助け合いも忘れたらアカンと思う。
 けど、忘れてしまう。イベント中止の自粛ムード、自粛ブームになってしまう。
 それは自我中心だから。自我を離れる事など無理なのだ。

 こういう事を書くと「お前は支援する事を否定するのか!」になるのかも知れない。けど、違う。全然違う。
 支援する、あるいは「支援したいという気持ち」がなければ、そういう自我中心の私を発見する事は出来ない。

 「何かしなければ」があるから、その行動があるから、自我中心の私を発見出来る。煩悩具足の私を発見出来る。念仏申す機縁を与えて頂ける。
 清廉潔白など不可能にも関わらず、清廉潔白を求めてしまうのだろうが、それも欲望なんだろうが、清廉潔白の中ではなかなか煩悩具足の凡夫たる自己を発見する事は難しいのではないのか?

 きっと、今、一番、「助ける事が出来なかった。。。」と感じて居られるのは、現場におられる方々だろう。
 「何人助ける事が出来た」ではなく、「あの人を助ける事が出来なかった」と。

 その「あの人を助ける事が出来なかった」が罪意識になり、自暴自棄になったり。「なんでやねん、俺は一体、何をしててん。なんで、もっと早く気づいたれへんかってん!」等と。心に深い傷。

【慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々】(歎異抄第四章より)




【日本の皆様へ、

 今回の悲劇で亡くなった多くの方のことを想うと、ある部分、あるかたちで我々自身も亡くなったのだと痛切に感じます。

 人類の一部の苦しみは、全人類の苦しみです。また、人類と地球はひとつの身体です。そのひとつの身体の一部に何かが起きれば、全身にも起こります。

 このような出来事は、命のはかなさ(無常)を我々に思い起こさせてくれます。お互いを愛し合い、助け合い、人生の一瞬一瞬を大事に生きることが、我々にとって一番大切なんだと。それが亡くなった人々へのなによりもの供養です。彼らが我々の中で美しく生き続けれるように生きるのです。

 フランス、そして世界各国のプラムヴィレッジ寺院(瞑想センター)から、僧、尼僧、在家者の皆さんがともにお経をあげ、日本のみなさんに平安、癒し、保護のエネルギーを送り続けています。

 みなさまのためにお祈りしています。

 ティク・ナット・ハン】(http://www.higan.net/news/2011/03/post-5.htmlより)