坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

がんばれ煩悩!

2011年03月02日 | 坊主の家計簿
 おはようございます。
 いや~、やっぱし早起きすると気持ちええわ。朝まで飲んでるヤツの気が知れん。やっぱし、早寝早起きが人類の基本であって、日々是健康。

 っちゅう事で、今日は報道ステーションの途中で寝て、2時過ぎに起きる。26時過ぎ、っちゅう深夜の呼び方ではない。午前2時である。早寝早起きをして、で、只今、朝酒中であったりする(笑)出来ればこのまま朝風呂に行って、もう一度寝る、っちゅうのが、黄金の休日パターンかも知れんのぉ。。。っちゅうか、朝まで寝とけよなぁ。。。テレビ付けっぱなしやったけど。

 今日は車検。当日入庫の当日受け渡し。
 代車が1日1000円の、1キロ10円のガソリン代。電車代が往復500円程度かかるし、念のために代車。まだ新しいダイハツ・ムーブ。早いぞ。加速も良ければ、ブレーキもすんげえ。「うちの車と全然ちゃうやんけ。。。」なのだが、まあ、「これが若さというやつか」(byシャー)だ。まあ、それ以前に、うちのトッポちゃん、デカイし。空気抵抗、最高に悪いし♪

 昨日は通信作りでほぼ寝てなくて、そのまま仕事だったので、車検に車を放り込んで、昼飯喰って、たっぷし寝る。車を取りに行って、帰宅して晩御飯食べて、また寝てやがるし。「あぁ~」っちゅうやつでんな。

 ツイッターで知って録画しておいたNHKクローズアップ現代の『岐路に立つお寺~問われる宗教の役割~』を観る。

 http://cgi4.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail.cgi?content_id=3010

 前半は経済的価値。
 後半は社会的価値。
 どちらも何かの価値。

 等と言っては元も子もないのだが。。。

 ちなみにうちは、経済的価値でいうと、え~。。。税金払えません(笑)っちゅうか、所得税は税務署の方から「要りません」であったりする。あ、これは決して「坊主丸儲け」ではなく、単に収入が扶養家族2人なので課税対象以下だったりする。何やら「ゼロ申告」とか言ったりするらしい。つまり、御国から認められた貧乏人であ~る♪
 もっというと、寺からだけの収入ならば、生活保護以下やな。他でお手伝い等をさせて頂いて、で、それを宗教法人の収入にして、そこからなんとか給料を頂いている貧乏人であったりする。
 っちゅうか、寺からの収入だけでは本山への支払いが出来ずに、公務員とかで得た収入から払っている方も多く居られると思ったりもするのだが。。。
 直接知っている実例でいうと、過疎地にあるバカでかい寺の住職さん。確か、門徒が2~3件だった様な。過疎になったので。でも、寺はデカイので修繕費や維持費でお金がかかる。だから、出稼ぎに来ておられた。日当1万円やったかな?出稼ぎの生活費もかかる。日当1万円で月に26日稼働出来たとして26万。まあ、仕送りは半額ぐらいか。半額を寺の維持費にまわして居られたりする。そういう人を直接住職になる前に知っているので、「なんとかしなければならない」っちゅう覚悟ぐらいはあったりする。漁師やってはる人も居ったか。

 後半は社会的価値。

 その前に、「社会に役立つ仏教」ってなんや???いや、大真面目に。仏教は社会に役立つ事なのか?社会に役立とうとするから、「社会に役立たなければ」なんぞとある種の強迫観念が戦争協力に結びついたのではないのか?

 で、番組内容。

 先日『先義後利』という商売用語を教えて頂いた。御商売をやる時は、まず先に利益を求めない事らしい。利益を先に求めるのではなく、何かの社会的メリットであったり、そういう事を第一義にする事で利益は後からついて来る。番組でも数人の社会的活動をなさっている僧侶の方の活動に対して支援をして呉れる人が出て来ているらしい。んが、んなもんは今の時代、先に知っている。NPOなんぞもそうでんな。あの、ほれ、「鯨を殺すな!」の活動もそうでんな。また、人間の煩悩は生易しいものでなく、まあ、「必ず」と言っていいのだろうが、自覚するしない、言葉にするしない、は別にして、「こういう事をやったらウケるで」なんぞと。ある種の社会的活動、まあ、ボランティアにしても、純粋を求めてしまうからアカン。純粋なんぞ人間に成り立つわけがない。自尊心、欲の塊が生身の人間だろう。生身の人間がやる活動に純粋もクソもない。『純粋』を売り物にするのは、それも商売だ。商売のひとつのあり方なだけ。必ず不純が付きまとう。そういう中での社会活動でんな。で、今の宗教界は、っちゅうか、伝統教団の中で、檀家制度が崩壊、っちゅうか、元々『過去の遺物』『江戸時代の制度』でしかなかったりするのだが、檀家制度が崩壊しつつある中で、そういう方向に『(あえて)商売』の道を切り開くのもアリだと思う。その事によっての社会的な価値。
 ただ、それだけの様な気がするのだが。。。で、それが人間の生業。『商売』。『商売』という言葉が気に入らないのなら、っちゅうか、『商売』っちゅう言葉が気に入らない真宗僧侶はどうかと思ったりもするのだが、言葉を変えるのなら『生き方』だろう。
 生き方の中で仕事、商売をせなアカンわけであって、その『商売』の職種が違うだけ。
 『純粋』が好きなのならば、煩悩を隠している事が純粋だとは決して思わない。綺麗ごとだけしか言わない事が決して純粋だとは思わない。っちゅうか、まあ、『綺麗ごと』をいうのが商売のあり方であり、その『綺麗ごと』の幻想に対して金を払って居られる方々、まあ、旧来の『檀家』と『僧侶』、『聖』と『俗』のあり方幻想でお金を払っておられる方々が居てるわけなんだし、それも『生き方』としてはアリかな、と。

 『ホンマもんは世に出ない』っちゅう事もその幻想の一つ。っちゅうか、何が『ホンマもん』か個人的なものだし。
 番組には親しい先輩が出てたけど、まあ、最近になってようやく活動が『(あえて)派手』になって、新聞やマスコミ、今日のテレビなんぞに取り上げられるようになったが、その前からエエ仕事してはったのだが。目立つ様になったのか、目立たなかったのかの違いだけで。もっと言うならば、マスコミが取り上げる『社会的価値』の価値を得ただけであって、それ以前から、もう、ずっと前から『価値』があったわけであってでんな。。。それだけの話なんだが。。。

 まあ、後は能力。
 その先輩は元々スンゲー能力があった人なので、その能力を認められ、っちゅうか、最近発揮して来たから『社会的価値』が生じたのだろうが、能力を発揮して居なかった頃から、まあ、こんな言葉が妥当なのかどうか知らないが、『ダメ』だった時代から一部の人達から評価されていたわけであって、非常に信頼されていたわけであって。だから、まあ、ホームレス支援だったりするのだろうが。

 まあ、その先輩の影響を多大に受けているのが私であったりもする。いや~、ホンマ最初あった時から感動したもんなぁ。本人はどう思っていたのかどうか知らんが(笑)だから、飲み屋でダメ人間から絶大なる信頼を得ていたし、同じくダメ人間だった私も感動したわけであって。「こんな坊さん、おるのか?」と。それはその先輩が今日取り上げられた様な『社会的価値』としての評価でなく。言葉は悪いが、ダメ人間だったから(笑)まあ、多分、今も変わっていないはずである。だからホームレス状態の人から、今日の番組の中でも、ホームレス状態の人かどうか知らんが、多分『釜のおっちゃん』と呼ばれる人から抱きしめられていたし。ありゃ、ダメ人間やからだと思ったりする。あくまでも私個人の見方でしかないのだが。確かな信頼を得ている事はテレビ以外にも実際に見たし、「ああ、変わらんな」と思ったりする。

 今日の番組の作り方を一言でいうのならば「お前等、このままやったらホームレスになるぞ」やろ。寺社会が『社会』から見捨てられてホームレスになる。
 なったらエエやんけ(笑)
 ホームレス状態にある方々が『社会的価値』から見捨てられようとも、仏教からの価値観からは、阿弥陀如来の価値観からは見捨てられる事はない。
 社会から寺が見捨てられても、全く問題はない。そういう覚悟が寺には必要ではないのか?
 困るのは経済的問題なんだが、それは現場の住職がなんとかするしかない。その他の部分では、「社会から見捨てられても構わない」という覚悟ぐらいは必要ではないのか?まあ、これまた『先義後利』の話なのだが(笑)煩悩は消えまへん。

 で、社会から見捨てられようとも、「ある」っちゅう事が大事だと思ったりする。
 
 番組の後半で「俺は絶対に認めんぞ」の上田紀行が、全国の寺の価値を言っていたが、そういう部分でいう、まあ、全国の寺がある、っちゅうか、他宗派は知らん。その宗派それぞれの考え方があると思ったりするので。で、全国にある真宗寺院の『価値』っちゅうものがあるとするならば、売りする、コピーにするならば、『ダメな寺』である。ダメな住職のダメな寺。
 「ああ、ここにはダメな人が居てるのだ」と。だから『帰れる場所』なのだと。

 これは真宗限定なのだろうが、今日みたいな番組を見ると「ああ、立派な方々が居られるのだ。私も立派にならなければならない」なんぞと思ったりしてしまったりするのだが、方向は逆だと思ったりする。「ダメじゃん、私って」っちゅう所で、そこから、見えて来る『となりの人』の存在が大事だと思う。
 葬儀でも。日頃の御参りも。
 日頃の御参りも最近では『グリーフケア』なんぞという社会的価値観を与えて頂いたが、ずっと前からやっていた事なんだろうが、うちらは『僧侶』『門徒』という関係でなく共に『門徒』。

 人が死んだら悲しいし、イヤだし、死ぬ覚悟なんぞ全く出来てないし、明日の生活も心配だし、子どもの将来も心配だし、寺の将来も心配だし、という全く『覚悟』が出来て居ない生身モロだしの凡夫。「寺が社会から見捨てられたらイヤだし、何か評価されたいし、ホームレス状態になるのもイヤだ」という煩悩バリバリ。「だから、これからの寺は社会貢献に熱心に取り組まないとイケナイのかも知れないなぁ。。。」という剥き出しの煩悩。

 だから、同じ『生活者』、さっき使った言葉では『商売』だったり『仕事』だったりするが、そういう生活者として。
 『聖職者』じゃなく、『聖職者』として『慰撫する側』『慰撫される側』でなく、「お互い様じゃん」なんぞと。
 
 『聖職者』としてあろうとするのも煩悩なんだし。
 隣で友達として関わる、『同じ人間』として関わる事しかあってはならないのだろうが、『聖職者ズラ』したくなる煩悩。

 まあ、要するに、なんでもエエのではないかと思ったりする。だって生き方はそれぞれなんだし。
 第一義として、それぞれの生き方を認めざるを得ないし。煩悩が認めなくさしているが。

 人生色々ならば、寺も色々、僧侶も色々。

 真宗僧侶の社会活動。まあ、何が『社会活動』なのかは知らんが、ボランティアだろうが、反戦デモだろうが。んなもん、あり方、生き方の違いだけ。
 解り易い形での社会活動をするのが『真宗門徒の生活』だとは思わないし、解り易い社会活動をするのが『真宗門徒の生活ではない』とも思えない。あり方の違いだけではないのか?
 『(専門用語すんまへん)聖道の慈悲』から逃げようとするならば、月参りも葬儀も出来ない。だって、月参りや葬儀も今日では『グリーフケア』の価値もあるし。っちゅうか、「ああ、今日はエエ葬儀やった」なんぞという煩悩も出てくる。

 今日の番組で気になったのは月参りだけでは価値を見出せず、その他の社会活動では価値を見出した方が居られたが、え~。。。それは『魔』でっせ。
 「価値を見出せない」なら、素晴らしい。だって、そこに『誇り』は無かったのだろうし。誇りがないまま、どんだけの役に立ってまんねん。それこそ『無私』でんがな。真剣に取り組んではるのだろう、本人の自覚は別にして。まあ、「月参りに価値を見出せない」と呼ばれた側は知らんが。

 煩悩は切り離せない。すぐに有頂天になる私は、っちゅうか、今だって「ほらほら、俺ってスンゲーやろ」であったりする。んなもんや。

 なので、今日の番組で取り上げられた人に対する批判もあるだろう。生身の人間だし。達観してないから批判出来るわけであって、それが頼もしい。頑張れ煩悩!でんな。

 批判されたらイヤだし、うっとうしい。それも煩悩を抱えた生身の人間。愚痴愚痴と。あ、誰かの昔のハンドルネームみたい(笑)

 どうでもエエねんけど、そろそろ朝の7時である。朝酒(?)してるので、早朝から仕事の依頼があったらどうしよ。。。仕事は欲しいが、「今日だけは。。。」なんぞと全く身勝手やのぉ。。。だから、まあ、貧乏なのか(笑)