坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

読経なくとも念仏はある

2011年03月28日 | 坊主の家計簿
 あ~、咳が止まらん。さっさと寝よ。

 ツイッターをツラツラ眺めてたら、被災地で葬儀が出来ない、読経が出来ない。逆にいうと、人が亡くなった時には葬儀をしなければならない、読経しなければならない。

 当然、そういう宗派の方が多いのだろう。
 けど、今回の大災害では読経すら出来ない場合が多い。

 読経は大事。葬儀は大事。
 でも、『ただ念仏』が第一義。

 自衛隊員の方や、救急隊員の方が、僧侶でなくとも、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と念仏申しつつ、救助活動をし、亡くなられた方々に対しても、読経は出来ずとも「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と。

 「南無阿弥陀仏と念仏申すだけで充分なのだ」と。

 読経する事が出来なくとも、僧侶がいなくとも、南無阿弥陀仏と念仏申すだけで充分なのだと。

 宗祖親鸞聖人は生涯に4度の大災害に遭われているらしい。衛生状態も悪く、自衛隊等の重機もなかった時代。何やら1000万人もの方が亡くなられたり、日本の大半の方が亡くなられたり。
 そんな状態。
 数万人の方が亡くなられた今回の大災害よりも大きな災害で亡くなられた方。
 読経が足りるわけがない。僧侶が足りるわけがない。

 僧侶も門徒も関係なく、その念仏の功徳に関係のない南無阿弥陀仏。

 今現在。読経がない状態で土葬であったり、火葬であったり。
 それは『僧侶の数が足りない』という実情でもあるが、『真宗の教えが行き渡っていない』という実情でもある。

 「あ、坊さん、別に来てくれるねんやったら有り難いけど、念仏はあるで」
 等々。
 「読経してくれたら有り難いけど、念仏はあるで」と。

 「お坊さんが来てくれなかった」
 「読経もなく土葬」
 「読経もなく火葬」
 という後悔の念を抱かしている。

 「南無阿弥陀仏があるじゃないか」

 でなく。