英の放電日記

将棋、スポーツ、テレビ等、日々感じること。発信というより放電に近い戯言。

『将棋世界』12月号  ~竜王戦展望対談……森下九段×中村太六段~ その2

2014-12-12 22:34:57 | 将棋
「『将棋世界』12月号  ~竜王戦展望対談……森下九段×中村太六段~」の続きです。

 前回、世代交代を検証するため、谷川名人誕生~羽生7冠独占までのタイトル戦を振り返りました。
 検証しながら、当時の思いなどが蘇り、それと森下九段の言葉が化学反応?を起こし、昂揚が過度になってしまったので、少し間を開けることにしました。
 さて、前記事では、「ここで森下九段から信じられない言葉が飛び出したのである」で締めたので、その言葉に対する私の感情をすぐにもぶつけたいのですが、それだと、この言葉に対して、あるいは、最近の森下九段の言動に対して、私が反応してしまったように受け取られるので、ずっと私が森下九段に抱いていた感情、そして、その素となる過去の言動と分析から述べていきます。

「…10秒」「ハイ」
 NHK杯の一コマ。秒読みの声にいちいち返事をする森下氏。彼の実直な人柄を示すシーンである。
 「誠実で他人に優しい」……そういう氏への評価は、今でも変わっていない。
 ちなみに、『Wikipedia』には「極めて礼儀正しく、知人をみつけると100m先であってもお辞儀をするという噂が出るほど将棋界一の律儀者と言われる」という表記がある。

「地獄の苦しみ」
 相当昔(タイトル挑戦やA級に昇級した頃)の話になるが、森下氏が過去(奨励会かC級2組時代)を振り返って、「地獄の苦しみでした」と述懐した発言(文章)を聞いた(読んだ)記憶がある。
 確かに、「四段に成れなければ、今までの努力や時間がすべて無になってしまうという恐怖」は、計り知れないものであろう。しかし、≪それを“地獄の苦しみ”と表現するのは、どうなのだろう?彼は名人、いや、タイトルを数期獲るような一流棋士にはなれないだろうな≫と、そういう言葉(文章)を聞いて(読んで)、そう思った。
 他人事だから言えるのかもしれないが、自力で道を切り開くことができる勝負の世界、しかも、それが好きな将棋である。それを、どうして“地獄の苦しみ”と言ってしまうのだろう?
 確かに大変だが、羽生名人や佐藤九段なら“試練”とは思っても、“地獄の苦しみ”とは思わないであろう。将棋を指していて苦しいと感じても、それと同時に充実感や喜び、楽しささえ感じるのではないだろうか。もし彼らが“地獄の苦しみ”と感じることがあるとしたら、それは好きな将棋が指せなくなった時であろう。

 私の記憶が間違っている可能性もあるので、「森下卓 地獄の苦しみ」で検索したら、「地獄の次はまた地獄」(将棋ペンクラブ)という記事がヒットした。
 将棋世界1998年6月号、森下卓八段(当時)の連載自戦記を引用した記事だが、私の頭に残っている“森下氏の地獄”がこれなのかは定かでないが、このブログ記事を読んで、≪彼は根っからの棋士ではないのだな≫と改めて感じた。

 森下氏を非難しているわけではありません。人間が苦しさを感じるのは当然のことなのですから。(しかし、このシリーズ記事の最終では、氏に対する非難といってよいモノとなりそうです)

「棋士全員にとって屈辱です」(羽生名人が七冠王を達成した時の発言)
 ≪なかなか、気骨のある発言だ≫と思ったが、森下氏の人間性とは合致しないように感じた。なので、気を利かせたマスコミ用のリップサービスかと思ったが、どうやら、羽生名人が七冠に登りつめる過程の名人戦と棋王戦で、森下氏が挑戦し羽生に退けられ、結果的に「羽生七冠」の手助けをしてしまった悔しさを表したものであった。
 おそらく他のトップ棋士も悔しさを感じていたのだろうが、≪それを口に出すのは羽生七冠の偉業にケチをつけることになってしまう。ここは素直に七冠の強さを認め讃えておこう≫と思ったのかもしれない。


「ぜひ私を七冠王にするプログラムを作ってください」(電王戦、記者発表会)
 大衆受けする言葉で柔軟な考え方をする森下氏らしい発言である。
 電王戦出場の動機として「コンピュータの強さを利用することで、若手と互角に戦える力を取り戻したい」という言葉も残している。
 確かに、こういった柔軟な考え方は人生においては有効なものであろう。世間では「棋士対コンピュータ」という対決に興味が集まっているが、「コンピュータを強くなる手段や道具として活用する」ことは、非常に有効であるし、おそらく、多くの棋士がコンピュータソフトに局面の分析や、コンピュータの発想を取り入れて活用していると思われる。
 しかし、この電王戦が世の中に及ぼす影響を考えると、「自分を七冠王にするソフトを」という温い考えで臨んでほしくなかった。
 まあ、「私を七冠王にするソフト」というのは森下氏のリップサービスかもしれないし、「コンピュータの強さを利用」という言葉も、「強いコンピュータと戦うことで」という意味にも解釈できるが。
 『将棋世界』7月号には、「こんなもので終わっていくのかという感覚が20年近くあり、コンピュータを研究に採り入れることで棋力を上げたいと思いました。
 プロが強くなるのは意外と難しいのですが、コンピュータと向き合うと贅肉と不純物が落ち、将棋に吸い込まれて行くような感覚になりました」という言葉がある。

 また、『電王戦 公式ガイドブック』のインタビューでは、「勝ちたいじゃない、勝たねばいかん」とも述べている。う~ん、これまでの発言とは趣が異なるが……これは私の想像だが、森下氏はその場の雰囲気や、相手の意図を読んで、発言をする傾向があるのではないだろうか。


 ツツカナとの対局では、中盤では優位に立った。
 棋士がコンピュータに対して中盤で優位に立つことは多い。しかし、さらに優位を拡大するとなると難しい。よくなりそうな手は多数見えるが、よく読むと意外に難しい。そんな局面が連続し……
 そして、一見ありがたいと思われる手(この将棋では▲7八玉や▲4四金)を指され、ふわっと指してしまった△8五桂(正着は△7五歩と突き捨てを入れてから△8五桂)が敗着となったらしい(森下九段の感想だが、その前に優位の決定づけられたような気もする)
 局後のインタビューでは「△8五桂と跳んだのが相当悪い手でしたね。なんかあると思って跳んだんですが、強く▲8六銀と上がられて。私は▲8八銀だと思っていたんですね。▲8六銀だと△5九角と行けると思っていたので」

 「コンピュータが背後からヒタヒタと付いてきて、こちらが転んだ瞬間抜いていくような将棋」(『将棋世界』7月号森下談より)……ずっと精密に読んできて、1、2手だけ、≪なんかあると思って≫というように緻密さを欠いてしまう……人間のコンピュータ将棋における一つの、そして、よくある負けパターンだった。
【続く】
コメント (2)
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