さんぽ道から

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これからのキューバ?無干渉においておいたら…

2016-11-28 08:43:48 | ダイアリー

フィデル・カストロ前キューバ国家評議会議長が90で亡くなったという。世界各国はこのカストロ氏死亡を、彼の業績・評価とともにトップニュースで報じている。評価は分かれている…

カストロ氏は1926年に、大サトウキビ農場主の私生児(非嫡出子)として生まれ、頭はいいが乱暴者として育ったという。大学の時に民族主義運動に感化され学生運動の指導者となる。卒業後、弁護士になって国政議員をめざすが、軍事クーデターが起き、政治家への道は一時閉ざされる。ただ軍事政権が独裁と汚職まみれであったため、反政府組織と合流し、
1953年に、弟ラウルとともに政権打倒へ武装蜂起。反乱は失敗し、捕らえられるが2年余りで釈放される。釈放後は、更なる闘争準備のためにメキシコに渡り、アルゼンチンのマルクス主義者で革命家のチェ・ゲバラと出会う。1956年、ゲバラや弟と90名ほどの志士とともにキューバに戻り、政府とゲリラ戦に入る。1959年初に政府軍は崩壊し、2月にカストロ氏は独裁政権を打倒した英雄として首相に就任。首相就任後、カストロ氏は、社会主義への信奉を明らかにし、ソ連への忠誠を誓い、資本主義・帝国主義的なものを排除する。

隣国の共産主義国の誕生と米民間企業の国有化が急であったため、米ケネディ大統領は、1961年CIAを使って、外敵と、カストロ政権打倒を図る、が失敗。キューバは米国の侵略と経済封鎖の窮地に、1962年、ソ連とともにキューバに核ミサイルを配備する手配に入るが、米ソの緊迫したやり取り後、ソ連が折れて、キューバの核ミサイル計画は実施の運びとならず。

1959~2008年までの50年間、カストロ氏はキューバのトップにあり続け、海外にあっては、非同盟国としてインド・南アに近づき、反米/共産/社会主義の盟主として中南米に存在感を発揮した。国内では、平等・機会均等を謳い、教育・医療などの社会改革を進めた。2001年には国家の発展に寄与したとしてノーベル平和賞を受賞した。上がない社会の実現で下層の人々にとっては、精神的には、カストロ政権は好かったのでしょう。

ただ、米CIAの侵攻以降、キューバ国民の自由、表現・集会・結社・旅行などの自由とプライバシーは厳し規制され、人権は抑圧された。海外からの投資もなく国内産業・技術・資本は衰退し、また、1989年のソ連崩壊後は、海外からの経済援助もなくなり、因みに医療現場では医薬品はほとんどない状態で、国民は皆、最下層となったという。カストロ政権下、100万人を超える民は難民としてキューバを捨てていったという。

どの視点から見るかによって、故カストロ氏の評価は変わるのでしょう。

カストロ・キューバから学ぶことは?

行き過ぎはよくないということでしょう。

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