<「・・・・・わたしが弁護士をしていたころの自分の記憶を振り返ってみると、弁護をしてやったもののうち無罪になったものが六人いたが、そのなかにはひとりとして、潔白なものがいなかったということだけはまず間違いない」「すると先生は、初めからご自分でクロだと信じているような人間のために弁護をなさったとおっしゃるんですか?」さっそくそんな質問が飛ばされた。「そういってもよい。とにかく、それは私の信念とどういう結びつきかたをしているのであろうか?有罪かどうかを決めるのは、陪審員や予審判事の務めです。もしも弁護士が、依頼人の無実を頭から信じられなければ、弁護士としての働きができないとすれば、世の被告のなかで、弁護をしてもらう権利を失わずにいるものはほとんどいなくなってしまうだろう。いやはや、まったくそのとおりなのだ。弁護士というものは、たしかにまちがいだとわかっている事件を引き受けてその弁護を進めるべきものではない。とはいうものの、弁護士は、被告の言い分をいつわりであると確信が持てないばあい、たとえどれほどその言い分を信用していなくても、弁護を押し進めざるをえないのが通例である。・・・・・」>ヘンリ・セシル大西尹明訳「メルトン先生の犯罪学演習」P48~49より
これは1948年に上梓された本ですので、登場人物の言い回しが、和訳までもが、超丁寧で、緩い感じがします。同じ場面が延々と続くところも、現代の読物のテンポの速さとはえらい違いです。アンティークな感じも時にはいいものです。
この抜き出した部分は、法理論とローマ法を教える教授と学生との会話の一部です。普通、昔でも、こんなに長い会話はありませんよね。ドラマの台本だったら、今の俳優だったら、もうできませんと投げてしまうような長さです。著者が読者啓蒙のため書き綴ったともいえるでしょうか?
この会話のへその部分は、“弁護士は間違いだと分かっている事件は弁護を引き受けてはならないが、被告の言い分がはっきり偽りだと確信が持てない程度なら、弁護を引き受けるべきである。被告が有罪か否かを決めるのは陪審や判事であるからだ”でしょうか。
これは、昔から弁護士物語に常に出てくるテーマ、被告の有罪を疑いながら無罪を主張できるか?有罪を知りながら無罪を弁護できるか?無罪判決を勝ち取ってから有罪を知る弁護士の葛藤とその先のアクションは?法と正義との割り切りとは?の一つの答えでしょう。
推理小説でも、序説を読んだ後、後段の解決部分を読み知ると、ストーリーの骨格が見えてきて、著者の創意が楽しめるというものです。
メルトン先生の答えを参考に、次回のTV・映画・小説などの悩める弁護士物語を楽しんでみてはどうでしょう・・・