<息子は彼女をちらっと見上げただけで、読んでいた本に注意を戻した。ふやけたセリアルの入っている、食べさしのボウルが前においてある。息子を愛してはいたものの、一週間後には寄宿学校へ戻っていくことになっているので、彼女は密かに喜んでいた。彼女に手にあまるようになっていたのだ。子どもから大人へ移り変わる、青春期の例の苦悩の時期のために、怒りっぽいうえにふくれ面をするし、にきびだらけで背ばかり伸びる。なんもかも、私をいらつかせるためじゃないかしら、とさえ思えてくる。・・・・・この二、三か月のうちに伸長がぐんと伸び、父親にますます似てきた。このことが息子に対する自分の気持ちに影響を及ぼしていることに、クリスチナは気づいていたし――意識してこだわらぬようにしていた。夫に対して感じているいまいましさを、息子にむけるのは見当違いもはなはだしい。もう少しの間、可愛らしいふっくらとした少年であってくれればいいのに、と彼女は思った。しかし、息子は父親と異なり、他人さまの心に取り入ってしまう魅力を、少なくとも持ち備えていない、とクリスチナは思い返した。今では夫のそうした点が、ひどく彼女にはうとましかった。>ウィリアム・J・コフリン中山善之訳「十二人の使徒」P11~12より
多感な時期の息子と母との、子と親とのとも いえますね、日常の機微をのぞかせるくだりです。離れて暮らしていると、そして、青春期には、親子といえども意思の疎通は結構難しい。そして、子の容姿や性格が両親のどちらかに目立って似てきて 時に まごついてしまう(作中の夫は浮気の常習犯で 母からすると子が浮気の素地を持っていないことにホッとする表現でーす)などなどは よくあることですね…
犯罪や事件の裏の潜んでいる心裡の一部かもしれませんね…
自分はどうだったのだろう…
一概にはいえないが、
子どものころは母親似(父は仕事で別居が長く、結果良しだった?)、五十を過ぎてからは、循環器障害まで、父親似かな(残念でした?)。子から五十までの間は、特に性格面では、両親のものを、祖父母の分まで、まだら模様的に引き継いでいたような(玉石混交?)な気がします。 一般的ですよね…