年を取ると、我慢することが多くなる。わたしの場合は若い時の反省からきている。大概の我慢は吉と出るが、水分補給を我慢するのはよくないようだ。何よりも血圧を上昇させる。「喉が乾いた 茶の間に行こう」が「あと1時間もすれば夕食の時間だ 我慢しよう」、外出先では「ペットボトルの口のみはみっともないし 喫茶店は高い 家まで我慢しよう」となってしまう。手の甲に、また、首に皺が増えたのは水分を摂り足らないせいだろうか?最近、外出にはスポーツドリンクを薄めたものを持ち歩き、机の上には魔法瓶とマグカップを置き、ウーロン茶を飲んで入る。パソコン、読書の合間に、熱いウーロン茶のマグを両手で包むと、手先は温まるし、間食が少なくなって食事が美味しくなった。皺はとれないが「また 地震か」と錯覚する立眩みに眩暈は少なくなった。切っ掛けは戸棚の奥にあった、胴に白馬八方尾根と書いてあるマグを見つけたことだ。「鉛筆立にも使えない」と手にとってみると、意外に両手にすっぽりとおさまった。また、一寸やそっとのことではひっくり返えりそうにない、どっしりとしたこの大きめのマグは、今は机の上で、水に弱いキーボードと相性がとてもよい。
植木鉢などの素焼きを除くと、身の回りにある焼き物は、せっ器、陶器、磁器にボーンチャイナに分かれるという。せっ器は粘土と陶土とを合わせ焼きしたもので、備前・丹波・信楽・瀬戸焼き等がそうだ。当家では焼き魚や刺身の盛り付け皿に使っている。粘土の粒子が粗く、吸水性があるため釉薬を掛け、表面をガラス状の膜で覆ったのが、俗称、土ものという陶器だそうだ。家内の大半の食器は陶器である。磁器は石英・カオリンなどを含む粘土を高温で焼いた薄手の石もので、客用のティーカップセット等がそうだ。ボーンチャイナは牛の骨灰を混ぜて焼いた軟質磁器で、英国の食器に多い。今までボーンチャイナと磁器は同じものと思っていました。陶器と磁器との見立てに「磁器には牛の骨が入っている」などと知ったかぶりをしていたのです。恥と反省です。脱線を続けると、人生の節目、節目に、例えば、自転車を買ってもらったとき、自動車を購入したとき、退職したときに自分の図書館をもつというのはどうだろう?恥をかくことが無くなるというより、また、何か徳をするということより、気持ちの整理が出来る、興味の範囲を広げることが出来るという事で、食べもののような次ステージへの滋養となること請け合いだ。ネット検索もよいが、知識の重層的な検索が可能な図書館にはまだかなわないと思う。ボーンチャイナと磁器の違いも図書館でふと手にした写真集に出ていました。
先日、店頭で、ブルー・オニオンに惹きつけられ、マイセンのマグを手にとってみました。この文様の起こりは、300年ほど前、ざくろを知らないドイツの絵付匠が中国のざくろの文様を、玉ねぎを見ながら描いたものだといわれていますが、この文様には‘ざくろ’の他に、桃、竹、菊もデフォルメされているので、かなり脚色された小話なのでしょう。しかし、考え過ぎでしょうか、この文様に、東西デザインの違和感なき融合とロイヤルな雰囲気にUFOの世界が衝突したところが見えてきます。ユビキタスな文様だといつも感心しています。文様はよかったのですが、マグの取っ手はごつごつで小さく、口縁もうすく薄情もので、石もののマイセンマグには興ざめでした。
身近に置くマグは、見かけや値段より、あたりが優しく、どこか温かみと安定感のある土もの、陶器が良いようです。人によって多少の違いはあるのでしょうが、身近に置いておきたいものには、共通するものがあるようです。丸み温かみのあるもの、気の置けないもの...そう「特別でないもの」が解のようですが、どうでしょう。消費社会を否定するものではありませんが、身の回りには、既に、生活に潤いを与えてくれるものが結構ありそうです。無意識に揃えていたものもあるでしょう。特別なものではないから、身近にあっても目立たない、また、奥に仕舞い込まれているかも知れません。買物をする度に、何か落ち着かない気分になったのは「余分なものを求めていませんか?」との声を聞いていたからに違いありません。試しに、今日から、押入れ、物置、箪笥に状差しを探してみよう。先ず、マグでお茶を飲んでどこから始めるか考えてみよう...
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