DAISPO WORLD BOXING EXPRESS

今年もやってるやってる~

この階級、この選手(ウィルフレド バスケス:スーパーバンタム級②)

2016年02月16日 02時41分22秒 | ボクシングネタ、その他雑談
1990年代初頭からの約四半世紀、それぞれの階級で印象に残った選手を挙げていっております。記載上のルールは各選手、登場するのは1階級のみ。また、選んだ選手がその階級実力№1とは限りません。

今回登場するのはウィルフレド バスケス(プエルトリコ)。先日お届けしたダニエル サラゴサ(メキシコ)に続き、スーパーバンタム級(当時はジュニアフェザー級)で日本人選手たちの大きな壁となった選手です。サラゴサ同様日本で猛威を振るったのは20年も前になります。サラゴサ同様、私(Corleone)に悪夢のどん底に陥れたのは1994年3月。当時の日本で最大のホープと期待されていた葛西 裕一(帝拳)を僅か初回125秒でTKOに下した一戦でした。この試合、葛西が弱かったというよりバスケスの動きが見事すぎました。得意の右クロスでダウンを奪い、その後すり足で距離を潰しあっという間にダウンを2つ追加。まさに強豪のボクシングでした。この葛西戦より4ヶ月前、後楽園ホールで横田 広明(大川)の挑戦を受けていたバスケス。体調不良によるためか、横田の変則的なボクシングに戸惑ってか。兎にも角にもその試合ではさえないパフォーマンスを披露。しかし横田戦のバスケスを見れば誰だって挑戦したくなりますよ。



自分(Corleone)の過去話になりますが、あの時代、1990年代半ばの日本ボクシング界を牽引していくのは、辰吉と葛西だと確信を持っていました。しかし残念ながらそれはあくまで希望と期待で終わってしまいました。



サラゴサ同様、このバスケスに対するボクサーとしての印象も大きく変わりました。初めて見たバスケスの試合は1992年3月、敵地メキシコに乗り込んで当時のWBAジュニアフェザー級王者ラウル ペレス(メキシコ)に挑戦した試合。その試合でバスケスは素晴らしいパフォーマンスを見せました。しかしボクシングを見始めたばかりの自分にとり、「こんな選手もいるんだな」程度にしか映りませんでした。その後比較的頻繁にバスケスの試合は見てはいましたが、体自体が硬いせいでしょうか、それほど好印象を持つことは出来ませんでした。

最終的にはその強打で試合を自分のものにする。それがバスケスのボクシング。しかしそんな試合運びの上手さという高等技術を理解出来なかった自分にとってバスケスは綱渡り防衛の名選手程度にしか見えませんでした。しかもそこに横田戦が加わるのですからね。



バスケスの全盛期はまさに葛西戦を含めた辺りだったのではないでしょうか。葛西を退けた後2度の防衛後、IBFバンタム級王座を16度防衛したあのオーランド カニザレス(米)との技術戦を制したのですから。カニザレス戦は競った試合内容でした。しかしこの実力者に競り勝つのですからたいしたものです。

164センチとバンタム級としてはそこそこの身長の持ち主であるバスケスのプロデビューは1981年の1月。何と4回判定負けでその長いプロ生活を始めています。プロ第4戦目では6回引き分け、1984年6月に行ったプロ20戦目には無効試合を経験しますが、それ以外は順調に白星を重ねていったバスケス。そのほとんどをKOで勝利を挙げています。バスケス念願の世界初挑戦は1986年2月。その半年前にサラゴサから同王座を奪取したばかりのミゲル ロラ(コロンビア)に挑みます。両者がダウンする激戦。敗れたとはいえバスケスは評価を確実に上げました。3ヵ月後に元WBCフライ級王者だったアントニオ アベラル(メキシコ)に激戦の末敗れますが、そりゃ~負けますよ。その6日前に実戦を一試合行っているのですから。

再起後3連勝を果たしたバスケスに2度目の世界挑戦の機会が訪れます。バスケス2度目の世界挑戦者1987年10月、韓国に渡り当時のWBAバンタム級王者朴 讃栄(韓国)に挑戦します。前半戦は朴がリードしますが、強打のバスケスが徐々にペースを把握。10回TKO勝利を飾り、プロデビュー31戦目にして念願の世界王座獲得に成功します。バンタム級でのWBA世界戦として出場した3戦をすべてをアジア圏で戦ったバスケス。韓国で王座を奪取し、翌年1月の初防衛戦は大阪のリングで六車 卓也(大阪帝拳)と死闘の末ドロー防衛。5月の2度目の防衛戦はタイで行い、カオコー ギャラクシー(タイ)に1対2の判定負けを喫し王座から陥落しています。

その後前記のペレスとの初戦に判定負け、WBOとWBAでバンタム級王座の座に就いたイスラエル コントレラス(ベネズエラ)にまさかの初回TKO負けを喫するなど停滞気味だったバスケス。逆にそれらの敗戦が結果として吉と出たのでしょうか?2階級制覇を達成したばかりのペレスに招聘され、戦前の予想を覆す勝利を収め2階級制覇を達成。結局この王座は葛西、カニザレス等強豪を破り防衛回数を9まで伸ばすことに成功。

それまでのすべての世界戦を敵地、または第3国で戦ってきたバスケスですが、1995年5月に遂に故郷プエルトリコのリングで世界戦を行う事が出来ました。しかしその試合、曲者アントニオ セルメニョ(ベネズエラ)の技巧の前に屈してし残念ながら故郷に錦を飾る事ならず。その後6度世界戦に出場するも、再びプエルトリコで世界戦を行う機会は訪れませんでした。

同じ時代、同じ階級でしぶとさを見せつけたサラゴサ。このバスケスもまだまだしぶとさを見せつけます。スーパーバンタム級王座から転落後僅か1年にして、今度はWBAフェザー級王者エロイ ロハス(ベネズエラ/帝拳)を大逆転の11回TKOで勝利。プエルトリコの大先輩、ウィルフレド ベニテス、ウィルフレド ゴメスに続いて3人目のプエルトリコ人ウィルフレド世界3階級制覇達成に成功。2人の先輩たちと比べると地味なウィルフレドですが、大偉業には変わりありません。



それまでの大半の試合を控えめなマッチメークに費やしていたバスケスですが、キャリアの後半になってビック・マッチに出場する機会に恵まれます。そう、1990年代後半のボクシング界に旋風を起こしたWBOフェザー級王者ナジーム ハメド(英)と対戦するチャンスを得たのです。1998年4月に行われたその試合。バスケスは事前に保持していたWBA王座を返上し、ハメドに挑戦。しかし当時の勢い、そして両選手の相性はバスケスに悪く完敗。善戦空しく英国の地でKO負けを喫してしまいました。

   

その後2002年10月まで戦い続けたバスケス。その長いキャリアの締めくくりに、無冠戦ながら母国のリングでKO勝利を収めることに成功しています。

バスケスの獲得した王座(獲得した順):
プエルトリコ・バンタム級:1984年3月17日獲得(防衛回数0)
WBAバンタム級:1987年10月7日(1)
IBFインターコンチネンタル・バンタム級:1989年10月26日(0)
IBCスーパーバンタム級:1990年9月10日(0)
WBAスーパーバンタム級:1992年3月27日(9)
WBAラテン・フェザー級:1995年12月9日(0)
WBAフェザー級:1996年5月18日(3)

通産戦績は56勝(41KO)9敗(4KO負け)2引き分け。KO率は60%。獲得した世界王座はWBAの3階級。主要世界団体が2つから3つに移行していた時代の世界3階級制覇は、現在よりずっと価値のあるものではないでしょうか。



バスケスは海外での試合経験が非常に豊富で、アメリカはもちろんの事日本とフランスのリングにそれぞれ4度、スペインに2度、韓国、タイ、メキシコ、イタリア、そして英国のリングにそれぞれ1度登場しています。

引退後はWBOスーパーバンタム級王座を獲得している実子バスケス・ジュニアのトレーナーなどを務めるなど、ボクシングに携わっているようです。同時代で戦った日本でもお馴染みのサラゴサとの王座統一戦話が出なかった事が不思議でなりません。その一戦が実現していたらどのような試合になっていたのでしょうね。両者の相性からするとサラゴサ。しかしそのパンチ力で最後までバスケスがライバルを脅し続ける。緊張感のあるフル・ラウンドで終始する。そんな感じがしますがどうでしょうか?

コメント (11)
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