1990年代初頭からの約四半世紀、それぞれの階級で印象に残った選手を挙げていっております。記載上のルールは各選手、登場するのは1階級のみ。また、選んだ選手がその階級実力№1とは限りません。
前回お届けしたのが11月18日。その時は「浪速のジョー」こと辰吉 丈一郎(大阪帝拳)でした。今回登場するのが、辰吉のリング生活で一番の苦杯生活を味あわせた選手であるダニエル サラゴサ(メキシコ)。もう20年も前になりますが、1996年3月に行われた両選手の第一戦では辰吉を子ども扱いに。当時辰吉の大ファン(今もそうですが)であった自分にとってあのワンサイド・マッチは悪夢以外の何者でもありませんでした。その後数日、学校では口を開けることすら出来ないほど落ち込んでいました。
自分(Corleone)の過去話が続きますが、あの敗北したリングで辰吉はファンに対し土下座をしていましたよね。同級生が「あそこまでやらなくていいのに」と同情してくれました。
サラゴサほど印象が変わる選手も珍しいのではないでしょうか。初めて見たサラゴサの試合は1991年6月に名古屋で行われた畑中 清詞(松田)。その試合は畑中が2月に獲得したWBCジュニア・フェザー級(現スーパーバンタム級)の初防衛戦として行われました。それまでにバンタムとジュニア・フェザーで2階級制覇を達成していたサラゴサですが、勢いに乗る畑中にとって比較的危険の少ない挑戦者と見られていました。試合後明らかになるのですが、畑中は既に目に異常があり防衛戦どころではなかったそうです。そのようなマイナス要素が畑中陣営にあったとはいえ、試合は五分五分の展開に。案の定結果は2対1と割れました。しかも畑中の再戦要求が通ったほど敗者には少々酷なないようでした。しかし現実には畑中がその試合後即現役を引退したため、両者の再戦は行われませんでした。
サラゴサには失礼な言い方になりますが、実年齢より老けて見えてしまうサラゴサ。畑中との接戦。その後の綱渡り的防衛ロード。加えて試合毎に顔面の何所かを切るというハンディ。まさか再び世界王座に返り咲き、安定政権を築く名選手になるとは想像すら出来ませんでした。
1980年のモスクワ五輪にメキシコ代表として出場したサラゴサ。準々決勝で敗れた後その年の10月に早くもプロデビューしています。デビュー当時はアマチュア出身の選手らしく基本に忠実なボクシングをしていき白星を重ねていき1982年9月にはメキシコ国内バンタム級王座を獲得。それと同時に試合を重ねるにつれ持ち前の技術に加えて逞しさを増していきました。
しかしプロ15戦目、1982年7月にハロルド ペティー(米)に10回判定負け。プロ初黒星を喫してしまいます。天敵というのでしょうか、その相手ペティーと翌年8月にNABF(北米)王座を賭けて対戦しますがその時も判定負けを喫してしまいます。メキシコ王座獲得はペティーとの初戦後僅か2ヶ月目となります。
ペティーに喫した連敗以外は順調に勝ち続けたサラゴサ。デビューからちょうど30戦目、1985年5月に当時空位だったWBCバンタム級王座をフレディ ジャクソン(米)と争い、7回にジャクソンが頭突きによる反則を取られ失格となり世界王座獲得。この失格勝ちというのがいかにもそれ以降のサラゴサのキャリアがどのようなものだったかと示唆していますよね。ちなみにこの試合はカリブ海に浮かぶ孤島アルバで行われました。この島国はベネズエラから僅か数十キロ北に位置しています。
世界王座獲得後、リング場ではサラゴサに厳しい試練が待っていました。3ヵ月後の初防衛戦ではコロンビアの実力者ミゲル ロラの前に完敗。半年後には豪州に渡り当時のIBFバンタム級王者ジェフ フェネックとスーパーバンタム級での無冠戦で対戦。しぶとさを見せ付けるも、2戦続けて大差判定負けを喫してしまいます。その後のサラゴサの活躍を知っているだけに、いくら実力者が相手だったとはいえサラゴサが完敗を喫する姿は想像に苦慮してしまいます。
話がサラゴサから逸れますが、サラゴサから王座を奪取したロラは8度目の防衛戦でラウル ペレス(メキシコ)に破れています。そのペレスも8度目の防衛戦でこの王座と決別。ペレスを破ったのがグレグ リチャードソン(米)で、リチャードソンの2度目の防衛戦で勝利を収めたのが辰吉となります。
ロラが初防衛戦で対戦したのが後のWBA3階級制覇王のウィルフレド バスケス(プエルトリコ)で、バスケスの実子は数年前にWBOスーパーバンタム級王座を獲得しています。ペレスはリチャードソンに敗れた後すぐにWBAスーパーバンタム級で王座を獲得。しかし初防衛戦でバスケス父の強打の餌食となっています。
サラゴサに話を戻しましょう。フェネック戦がスーパーバンタム級転向第一戦目だったサラゴサ。その初陣に黒星を喫してしまいましたが、3ヵ月後には早くも再起に成功。その年の師走には同級のNABF王座を獲得。1988年2月にはフェネックが返上したWBCスーパーバンタム級王座を同胞の大先輩であるカルロス サラテと争い勝利を収めることに成功。2階級制覇達成を成し遂げました。合計3度獲得するWBCスーパーバンタム級王座ですが、この第一次政権では2度の渡韓、1度のイタリア遠征を含む5度の防衛に成功。1990年4月にキャリア中盤のライバルであるポール バンキ(米)との再戦に破れ王座から転落。しかし翌年6月に名古屋で畑中との接戦を制し2度目のスーパーバンタム級王座戴冠を果たしています。
サラゴサのスーパーバンタム級での第二次政権は9ヶ月と短命。フランスでティリー ヤコブに敗れ去りました。当時のWBCスーパーバンタム級王座に常に絡んでいたサラゴサ。ヤコブから王座を奪ったトレーシー パターソン(米)に2度、パターソンから王座を奪取したエクトール サンチェス(ドミニカ)に1度挑戦。どの試合も勝利出来なかったサラゴサ。この間の3度の世界戦結果は1敗2引き分けに終わってしまいましたが、1995年11月、サンチェスとの再戦を制しようやく3度目のスーパーバンタム級王座獲得を成し遂げています。そしてこの王座の初防衛戦で2度目の来日。上記の辰吉を相手にワンサイド・マッチを演じることになります。
辰吉戦から4ヶ月、原田 剛志(ハラダ)の挑戦を受けるために再び大阪の地に。原田をまったく寄せ付けなかったサラゴサは1997年1月、米国・マサチューセッツのリングでウェイン マッカラー(アイルランド)と激闘を演じ白星を加えると共に米国での評価も上げていきます。次の防衛戦では再び辰吉と対戦。初戦ほどの差の試合ではありませんでしたが、又しても辰吉に試練を与えることになりました。
40歳を迎えようとしていたサラゴサ。年齢相応の衰えを見せつつありましたが、まだまだ現役として十分に戦える力を持っていました。しかしそれを上回る新鋭選手が同国から登場。1997年9月、後の4階級制覇王エリック モラレスとの激戦に破れ、王座から転落。同時に現役からの引退を表明しています。
サラゴサの獲得した王座(獲得した順):
メキシコ・バンタム級:1982年9月4日獲得(防衛回数10)
WBCバンタム級:1985年5月4日(0)
NABFスーパーバンタム級:1986年12月6日(2)
WBCスーパーバンタム級:1988年2月29日(5)
WBCスーパーバンタム級:1991年6月14日(2)
WBCスーパーバンタム級:19995年11月6日(4)
通産戦績は55勝(28KO)8敗(3KO負け)3引き分け。KO率はちょうど半分の42%。獲得した世界王座は2階級で4つの緑のベルト。素晴らしい戦績です。またサラゴサは海外での試合経験も豊富で、アメリカはもちろんの事日本のリングに4度、韓国に3度、フランスに2度、豪州とアルバにそれぞれ1度登場しています。
引退後はファン マヌエル マルケスの実弟ラファエルのトレーナーなどを務めるなど、常にボクシングに携わっています。個人的な印象としては名トレーナーになれそうだと思うのですが。将来、辰吉 寿以輝を指導する、何てことあるかもしれませんね。
前回お届けしたのが11月18日。その時は「浪速のジョー」こと辰吉 丈一郎(大阪帝拳)でした。今回登場するのが、辰吉のリング生活で一番の苦杯生活を味あわせた選手であるダニエル サラゴサ(メキシコ)。もう20年も前になりますが、1996年3月に行われた両選手の第一戦では辰吉を子ども扱いに。当時辰吉の大ファン(今もそうですが)であった自分にとってあのワンサイド・マッチは悪夢以外の何者でもありませんでした。その後数日、学校では口を開けることすら出来ないほど落ち込んでいました。
自分(Corleone)の過去話が続きますが、あの敗北したリングで辰吉はファンに対し土下座をしていましたよね。同級生が「あそこまでやらなくていいのに」と同情してくれました。
サラゴサほど印象が変わる選手も珍しいのではないでしょうか。初めて見たサラゴサの試合は1991年6月に名古屋で行われた畑中 清詞(松田)。その試合は畑中が2月に獲得したWBCジュニア・フェザー級(現スーパーバンタム級)の初防衛戦として行われました。それまでにバンタムとジュニア・フェザーで2階級制覇を達成していたサラゴサですが、勢いに乗る畑中にとって比較的危険の少ない挑戦者と見られていました。試合後明らかになるのですが、畑中は既に目に異常があり防衛戦どころではなかったそうです。そのようなマイナス要素が畑中陣営にあったとはいえ、試合は五分五分の展開に。案の定結果は2対1と割れました。しかも畑中の再戦要求が通ったほど敗者には少々酷なないようでした。しかし現実には畑中がその試合後即現役を引退したため、両者の再戦は行われませんでした。
サラゴサには失礼な言い方になりますが、実年齢より老けて見えてしまうサラゴサ。畑中との接戦。その後の綱渡り的防衛ロード。加えて試合毎に顔面の何所かを切るというハンディ。まさか再び世界王座に返り咲き、安定政権を築く名選手になるとは想像すら出来ませんでした。
1980年のモスクワ五輪にメキシコ代表として出場したサラゴサ。準々決勝で敗れた後その年の10月に早くもプロデビューしています。デビュー当時はアマチュア出身の選手らしく基本に忠実なボクシングをしていき白星を重ねていき1982年9月にはメキシコ国内バンタム級王座を獲得。それと同時に試合を重ねるにつれ持ち前の技術に加えて逞しさを増していきました。
しかしプロ15戦目、1982年7月にハロルド ペティー(米)に10回判定負け。プロ初黒星を喫してしまいます。天敵というのでしょうか、その相手ペティーと翌年8月にNABF(北米)王座を賭けて対戦しますがその時も判定負けを喫してしまいます。メキシコ王座獲得はペティーとの初戦後僅か2ヶ月目となります。
ペティーに喫した連敗以外は順調に勝ち続けたサラゴサ。デビューからちょうど30戦目、1985年5月に当時空位だったWBCバンタム級王座をフレディ ジャクソン(米)と争い、7回にジャクソンが頭突きによる反則を取られ失格となり世界王座獲得。この失格勝ちというのがいかにもそれ以降のサラゴサのキャリアがどのようなものだったかと示唆していますよね。ちなみにこの試合はカリブ海に浮かぶ孤島アルバで行われました。この島国はベネズエラから僅か数十キロ北に位置しています。
世界王座獲得後、リング場ではサラゴサに厳しい試練が待っていました。3ヵ月後の初防衛戦ではコロンビアの実力者ミゲル ロラの前に完敗。半年後には豪州に渡り当時のIBFバンタム級王者ジェフ フェネックとスーパーバンタム級での無冠戦で対戦。しぶとさを見せ付けるも、2戦続けて大差判定負けを喫してしまいます。その後のサラゴサの活躍を知っているだけに、いくら実力者が相手だったとはいえサラゴサが完敗を喫する姿は想像に苦慮してしまいます。
話がサラゴサから逸れますが、サラゴサから王座を奪取したロラは8度目の防衛戦でラウル ペレス(メキシコ)に破れています。そのペレスも8度目の防衛戦でこの王座と決別。ペレスを破ったのがグレグ リチャードソン(米)で、リチャードソンの2度目の防衛戦で勝利を収めたのが辰吉となります。
ロラが初防衛戦で対戦したのが後のWBA3階級制覇王のウィルフレド バスケス(プエルトリコ)で、バスケスの実子は数年前にWBOスーパーバンタム級王座を獲得しています。ペレスはリチャードソンに敗れた後すぐにWBAスーパーバンタム級で王座を獲得。しかし初防衛戦でバスケス父の強打の餌食となっています。
サラゴサに話を戻しましょう。フェネック戦がスーパーバンタム級転向第一戦目だったサラゴサ。その初陣に黒星を喫してしまいましたが、3ヵ月後には早くも再起に成功。その年の師走には同級のNABF王座を獲得。1988年2月にはフェネックが返上したWBCスーパーバンタム級王座を同胞の大先輩であるカルロス サラテと争い勝利を収めることに成功。2階級制覇達成を成し遂げました。合計3度獲得するWBCスーパーバンタム級王座ですが、この第一次政権では2度の渡韓、1度のイタリア遠征を含む5度の防衛に成功。1990年4月にキャリア中盤のライバルであるポール バンキ(米)との再戦に破れ王座から転落。しかし翌年6月に名古屋で畑中との接戦を制し2度目のスーパーバンタム級王座戴冠を果たしています。
サラゴサのスーパーバンタム級での第二次政権は9ヶ月と短命。フランスでティリー ヤコブに敗れ去りました。当時のWBCスーパーバンタム級王座に常に絡んでいたサラゴサ。ヤコブから王座を奪ったトレーシー パターソン(米)に2度、パターソンから王座を奪取したエクトール サンチェス(ドミニカ)に1度挑戦。どの試合も勝利出来なかったサラゴサ。この間の3度の世界戦結果は1敗2引き分けに終わってしまいましたが、1995年11月、サンチェスとの再戦を制しようやく3度目のスーパーバンタム級王座獲得を成し遂げています。そしてこの王座の初防衛戦で2度目の来日。上記の辰吉を相手にワンサイド・マッチを演じることになります。
辰吉戦から4ヶ月、原田 剛志(ハラダ)の挑戦を受けるために再び大阪の地に。原田をまったく寄せ付けなかったサラゴサは1997年1月、米国・マサチューセッツのリングでウェイン マッカラー(アイルランド)と激闘を演じ白星を加えると共に米国での評価も上げていきます。次の防衛戦では再び辰吉と対戦。初戦ほどの差の試合ではありませんでしたが、又しても辰吉に試練を与えることになりました。
40歳を迎えようとしていたサラゴサ。年齢相応の衰えを見せつつありましたが、まだまだ現役として十分に戦える力を持っていました。しかしそれを上回る新鋭選手が同国から登場。1997年9月、後の4階級制覇王エリック モラレスとの激戦に破れ、王座から転落。同時に現役からの引退を表明しています。
サラゴサの獲得した王座(獲得した順):
メキシコ・バンタム級:1982年9月4日獲得(防衛回数10)
WBCバンタム級:1985年5月4日(0)
NABFスーパーバンタム級:1986年12月6日(2)
WBCスーパーバンタム級:1988年2月29日(5)
WBCスーパーバンタム級:1991年6月14日(2)
WBCスーパーバンタム級:19995年11月6日(4)
通産戦績は55勝(28KO)8敗(3KO負け)3引き分け。KO率はちょうど半分の42%。獲得した世界王座は2階級で4つの緑のベルト。素晴らしい戦績です。またサラゴサは海外での試合経験も豊富で、アメリカはもちろんの事日本のリングに4度、韓国に3度、フランスに2度、豪州とアルバにそれぞれ1度登場しています。
引退後はファン マヌエル マルケスの実弟ラファエルのトレーナーなどを務めるなど、常にボクシングに携わっています。個人的な印象としては名トレーナーになれそうだと思うのですが。将来、辰吉 寿以輝を指導する、何てことあるかもしれませんね。