デンマーク・ロイヤル・バレエ『ロミオとジュリエット』(1)
ジョン・ノイマイヤー版(71年初演)です。金曜日(22日)と今日の公演を観ました。主要キャストは両日とも同じです。
まず作品全体の印象から。舞台装置は簡素(幕物が多い)ですが、そのデザインや色調はともに重厚な質感を醸し出していました。それぞれの舞台装置は細かく分解でき、それらの各パーツをいろんなパターンで組み合わせることによって、それぞれが別物のような背景を作り出していました。
衣装も豪奢ではないですが、デザイン、色彩、模様のいずれもセンスが良く、無駄がなく洗練されていて、上品な感じのものばかりでした。
ただ、キャピュレット家・モンタギュー家の男の使用人たちの衣装には、一部「?」なデザインや色合いのものがありました。白のぴっちりした膝丈タイツと白の脛当てを黒い糸で結び付けているのとかね。
もっとも、装置と衣装を担当したのは、ノイマイヤー作品ではおなじみのユルゲン・ローゼなので、当時の装束の考証に拠ったデザインなのかもしれません。
装置と衣装、そして振付から受けた印象は、まるでルネサンス絵画のような舞台だ、というものでした。
その振付は、「抽象的・記号的・象徴的・暗示的」な踊りやポーズがやたらと目に付きました。
キャピュレット家の舞踏会での踊り、キャピュレット公夫妻、両親に服従するジュリエット、パリスによる踊りは、手足をぴんと伸ばした硬直した姿勢、切り裂くような鋭いステップ、バネのような、もしくは機械人形のような腕の動きなど、いかにも封建的な家風を示すような振りばかりでした。
特に舞踏会の踊りは面白かったです。たとえばキャピュレット公、キャピュレット夫人、ティボルトが3人並んで、片脚を根元から上げてブンと鋭く1回転させ、爪先を床に突き立てるようにして歩き、それから片脚を今度は後ろにぐん、と勢いよく跳ね上げる振りなどは、容赦のない冷たさを感じさせます。
ポーズにもキャピュレット家(というより当時の貴族一般)の家風を示すものがありました。キャピュレット夫人が、両腕を内側に曲げて、両手で逆三角の形を作ったまま静止するポーズ、キャピュレット公と踊るキャピュレット夫人、パリスと踊るジュリエットが、男性たちの前に土下座するようにべたーっと床に座り込むポーズなどです。女性に対して厳格に「無為」を強いる、また女性の男性への絶対服従が当たり前な風潮を表現していました。
キャピュレット公と夫人、パリスとジュリエットがそれぞれ組んで機械人形のような振りで踊り、それが左右対称になっているところなども、ジュリエットがパリスと結婚することは、ジュリエットの両親のような封建的な思想に縛られた夫婦を複製することに他ならないことが示されていました。
それと対比されるのが、ロミオ、マキューシオ、ベンヴォーリオの3人組、街の人々、旅芸人の一座、そしてロミオとジュリエットとの踊りです。
ロミオ、マキューシオ、ベンヴォーリオや街の人々は、腕を柔らかく、脚や足首も曲げたり伸ばしたりと自在に動かし、またダイナミックな跳躍や回転を次々と織り込んで踊り、旅芸人の一座はトリッキーな仕草や振りで踊ります。生き生きとした人間味や若さ、また活気が伝わってきます。
そして、ロミオとジュリエットは、空間に手足を自由に伸ばし、お互いの体を重ねあわせ、手を握り合い、ジュリエットがロミオに高々とリフトされながら踊ります。ハイ・ティーンの男女の、あっという間に炎上して、もはや爆走一直線な恋の情熱があふれまくりです。
登場人物の心情や脳裏に浮かんだ情景を、演出と踊りの複合効果で巧みに表現していたシーンもありました。
たとえば、舞踏会でジュリエットに一目惚れしたロミオが、ジュリエットの後ろでジュリエットと同じ振りで踊る、また、ロミオがティボルトを殺して逃亡し、ロミオを想うジュリエットが踊っているその後ろに、ロミオが現れてやはり同じ振りで踊る、更には仮死の薬を飲んで恐怖するジュリエットの前に、最初に経かたびらを着たティボルトが現れてジュリエットを引きずるようにして踊り、次にロミオが現れてジュリエットと踊るシーンなどです。
演出も非常に細緻で巧みでした。この『ロミオとジュリエット』は、ジョン・ノイマイヤーがはじめて振り付けた全幕作品だということですが、すでに次の『椿姫』につながる演出方針や技術が用いられていました。
まず、主役から脇役に至るまで、登場人物一人一人の行動が相互に連関し、その結果として次の展開につながっていきました。同時に、物語の本筋が進行している脇で様々な人間模様が繰り広げられていて、登場人物のたった一人でさえも、無駄に舞台に立っていることはありません。
劇中劇によって登場人物の心理や後の現実を暗示する、という手法もすでに用いられています。
旅芸人の一座は劇中劇で男女の恋愛悲劇を上演します。それは愛し合う男女が、女の両親によって間を裂かれ、最後に剣でともに自殺する、というストーリーです。
また、ローレンス僧がジュリエットに仮死の薬を手渡します。舞台の奥では、旅芸人の一座が同時進行で、女が仮死の薬を飲み、女の両親は娘が死んだと思って嘆き悲しみ、葬られた娘のもとに恋人の男がやって来て彼女を起こし、恋人たちは幸福に結ばれる、という劇中劇を上演しています。
それはローレンス僧のジュリエットに対する説得を表現しているのであり、また仮死の薬に怯えていたジュリエットが、ロミオと結ばれることを夢想して薬を飲むことを決心する過程を表現してもいるわけです。最初は恐怖で表情がこわばっていたジュリエットは、劇中劇が進行していくとともに笑顔に変わります。
音楽がやまないうちにさっさと場面転換し、スムーズに次につなげていく手法も見事でした。場面転換は機械による単純な作業と人力によって行なわれているようでした。このようなアナログな方式にも関わらず、セットの分解と組み合わせは非常にスムーズで自然でした。舞台装置が徹底して計算し尽くされてデザインされていることがよく分かりました。
見せ場は多くあるのですが、音楽が終わらないうちにライトが落とされて場面転換が行なわれるので、拍手する隙がほとんどありませんでした。場面転換はライトが落とされるのみで、途中で幕が下ろされることもありませんでした。前の音楽が終わりかけるころには場面転換はほとんど済んでおり、ライトが再び点灯すると同時に次の音楽が始まり、新しい場面になりました。
大体、前奏曲が始まってすぐに幕が開いて、ローレンス僧とロミオが登場します。前奏曲や場面転換のせいで、物語の進行がたるんでしまうのを徹底的に避けているようでした。
若かったノイマイヤーの『ロミオとジュリエット』は、今から見ても極めて創意工夫に富んだ、独自性の強い作品だと思います。だけど、やはりケネス・マクミラン振付の『ロミオとジュリエット』には及ばないでしょう。なぜかというと、このノイマイヤー版は、マクミラン版ほど振付と音楽とが合っていないからです。
また、この『ロミオとジュリエット』は、ノイマイヤーの作品の中で、特に優れているとはいえないのではないでしょうか?確かに演出は細かいし巧みなのですが、肝心の振付についていうと、舞踏会の踊りを除けば、そんなに印象に残る踊りがあったわけではありません。
なんだかノイマイヤーの思考と知性ばかりが先走ってしまって、頭でっかちなバレエになってしまった感じがします。観客にとっては、振付家の狙いや目論見が先に目についてしまって、作品を素直に楽しめないところがあるように思います。
でも、ノイマイヤーのような偉い振付家というのは、どんなに若いときの作品であっても、今の作品に通ずる一貫した基本方針というか、太い幹や堅固な基盤のようなものがすでにあるなあ、と思いました。自分はこういう作品を創りたい、というはっきりした考えやイメージを持っている。
逆に言えば、「感性」や「感覚」だけに頼って、自分の振付について曖昧で茫漠とした考えしか持ってない人は、「振付家」には向いてないでしょう。「振付の仕事」はできるでしょうけれどね。
ノイマイヤー版『ロミオとジュリエット』は、もしハンブルク・バレエが上演するのならまた観てみたいです。ですが、デンマーク・ロイヤル・バレエではもう観なくてもいいかな、というのが正直な感想です。
まず作品全体の印象から。舞台装置は簡素(幕物が多い)ですが、そのデザインや色調はともに重厚な質感を醸し出していました。それぞれの舞台装置は細かく分解でき、それらの各パーツをいろんなパターンで組み合わせることによって、それぞれが別物のような背景を作り出していました。
衣装も豪奢ではないですが、デザイン、色彩、模様のいずれもセンスが良く、無駄がなく洗練されていて、上品な感じのものばかりでした。
ただ、キャピュレット家・モンタギュー家の男の使用人たちの衣装には、一部「?」なデザインや色合いのものがありました。白のぴっちりした膝丈タイツと白の脛当てを黒い糸で結び付けているのとかね。
もっとも、装置と衣装を担当したのは、ノイマイヤー作品ではおなじみのユルゲン・ローゼなので、当時の装束の考証に拠ったデザインなのかもしれません。
装置と衣装、そして振付から受けた印象は、まるでルネサンス絵画のような舞台だ、というものでした。
その振付は、「抽象的・記号的・象徴的・暗示的」な踊りやポーズがやたらと目に付きました。
キャピュレット家の舞踏会での踊り、キャピュレット公夫妻、両親に服従するジュリエット、パリスによる踊りは、手足をぴんと伸ばした硬直した姿勢、切り裂くような鋭いステップ、バネのような、もしくは機械人形のような腕の動きなど、いかにも封建的な家風を示すような振りばかりでした。
特に舞踏会の踊りは面白かったです。たとえばキャピュレット公、キャピュレット夫人、ティボルトが3人並んで、片脚を根元から上げてブンと鋭く1回転させ、爪先を床に突き立てるようにして歩き、それから片脚を今度は後ろにぐん、と勢いよく跳ね上げる振りなどは、容赦のない冷たさを感じさせます。
ポーズにもキャピュレット家(というより当時の貴族一般)の家風を示すものがありました。キャピュレット夫人が、両腕を内側に曲げて、両手で逆三角の形を作ったまま静止するポーズ、キャピュレット公と踊るキャピュレット夫人、パリスと踊るジュリエットが、男性たちの前に土下座するようにべたーっと床に座り込むポーズなどです。女性に対して厳格に「無為」を強いる、また女性の男性への絶対服従が当たり前な風潮を表現していました。
キャピュレット公と夫人、パリスとジュリエットがそれぞれ組んで機械人形のような振りで踊り、それが左右対称になっているところなども、ジュリエットがパリスと結婚することは、ジュリエットの両親のような封建的な思想に縛られた夫婦を複製することに他ならないことが示されていました。
それと対比されるのが、ロミオ、マキューシオ、ベンヴォーリオの3人組、街の人々、旅芸人の一座、そしてロミオとジュリエットとの踊りです。
ロミオ、マキューシオ、ベンヴォーリオや街の人々は、腕を柔らかく、脚や足首も曲げたり伸ばしたりと自在に動かし、またダイナミックな跳躍や回転を次々と織り込んで踊り、旅芸人の一座はトリッキーな仕草や振りで踊ります。生き生きとした人間味や若さ、また活気が伝わってきます。
そして、ロミオとジュリエットは、空間に手足を自由に伸ばし、お互いの体を重ねあわせ、手を握り合い、ジュリエットがロミオに高々とリフトされながら踊ります。ハイ・ティーンの男女の、あっという間に炎上して、もはや爆走一直線な恋の情熱があふれまくりです。
登場人物の心情や脳裏に浮かんだ情景を、演出と踊りの複合効果で巧みに表現していたシーンもありました。
たとえば、舞踏会でジュリエットに一目惚れしたロミオが、ジュリエットの後ろでジュリエットと同じ振りで踊る、また、ロミオがティボルトを殺して逃亡し、ロミオを想うジュリエットが踊っているその後ろに、ロミオが現れてやはり同じ振りで踊る、更には仮死の薬を飲んで恐怖するジュリエットの前に、最初に経かたびらを着たティボルトが現れてジュリエットを引きずるようにして踊り、次にロミオが現れてジュリエットと踊るシーンなどです。
演出も非常に細緻で巧みでした。この『ロミオとジュリエット』は、ジョン・ノイマイヤーがはじめて振り付けた全幕作品だということですが、すでに次の『椿姫』につながる演出方針や技術が用いられていました。
まず、主役から脇役に至るまで、登場人物一人一人の行動が相互に連関し、その結果として次の展開につながっていきました。同時に、物語の本筋が進行している脇で様々な人間模様が繰り広げられていて、登場人物のたった一人でさえも、無駄に舞台に立っていることはありません。
劇中劇によって登場人物の心理や後の現実を暗示する、という手法もすでに用いられています。
旅芸人の一座は劇中劇で男女の恋愛悲劇を上演します。それは愛し合う男女が、女の両親によって間を裂かれ、最後に剣でともに自殺する、というストーリーです。
また、ローレンス僧がジュリエットに仮死の薬を手渡します。舞台の奥では、旅芸人の一座が同時進行で、女が仮死の薬を飲み、女の両親は娘が死んだと思って嘆き悲しみ、葬られた娘のもとに恋人の男がやって来て彼女を起こし、恋人たちは幸福に結ばれる、という劇中劇を上演しています。
それはローレンス僧のジュリエットに対する説得を表現しているのであり、また仮死の薬に怯えていたジュリエットが、ロミオと結ばれることを夢想して薬を飲むことを決心する過程を表現してもいるわけです。最初は恐怖で表情がこわばっていたジュリエットは、劇中劇が進行していくとともに笑顔に変わります。
音楽がやまないうちにさっさと場面転換し、スムーズに次につなげていく手法も見事でした。場面転換は機械による単純な作業と人力によって行なわれているようでした。このようなアナログな方式にも関わらず、セットの分解と組み合わせは非常にスムーズで自然でした。舞台装置が徹底して計算し尽くされてデザインされていることがよく分かりました。
見せ場は多くあるのですが、音楽が終わらないうちにライトが落とされて場面転換が行なわれるので、拍手する隙がほとんどありませんでした。場面転換はライトが落とされるのみで、途中で幕が下ろされることもありませんでした。前の音楽が終わりかけるころには場面転換はほとんど済んでおり、ライトが再び点灯すると同時に次の音楽が始まり、新しい場面になりました。
大体、前奏曲が始まってすぐに幕が開いて、ローレンス僧とロミオが登場します。前奏曲や場面転換のせいで、物語の進行がたるんでしまうのを徹底的に避けているようでした。
若かったノイマイヤーの『ロミオとジュリエット』は、今から見ても極めて創意工夫に富んだ、独自性の強い作品だと思います。だけど、やはりケネス・マクミラン振付の『ロミオとジュリエット』には及ばないでしょう。なぜかというと、このノイマイヤー版は、マクミラン版ほど振付と音楽とが合っていないからです。
また、この『ロミオとジュリエット』は、ノイマイヤーの作品の中で、特に優れているとはいえないのではないでしょうか?確かに演出は細かいし巧みなのですが、肝心の振付についていうと、舞踏会の踊りを除けば、そんなに印象に残る踊りがあったわけではありません。
なんだかノイマイヤーの思考と知性ばかりが先走ってしまって、頭でっかちなバレエになってしまった感じがします。観客にとっては、振付家の狙いや目論見が先に目についてしまって、作品を素直に楽しめないところがあるように思います。
でも、ノイマイヤーのような偉い振付家というのは、どんなに若いときの作品であっても、今の作品に通ずる一貫した基本方針というか、太い幹や堅固な基盤のようなものがすでにあるなあ、と思いました。自分はこういう作品を創りたい、というはっきりした考えやイメージを持っている。
逆に言えば、「感性」や「感覚」だけに頼って、自分の振付について曖昧で茫漠とした考えしか持ってない人は、「振付家」には向いてないでしょう。「振付の仕事」はできるでしょうけれどね。
ノイマイヤー版『ロミオとジュリエット』は、もしハンブルク・バレエが上演するのならまた観てみたいです。ですが、デンマーク・ロイヤル・バレエではもう観なくてもいいかな、というのが正直な感想です。