地球規模での環境破壊が問題になり始めた70年代、米国を中心にエコロジー運動の哲学的・倫理学的基礎の解明を目指して生まれた思想が「環境倫理学」だ。
人類10万年の歴史の中で、わずか150年間の世代が、化石燃料を使い果たしてしまいそうな勢いだ。さらに化石燃料による、地球温暖化が問題になる。
そこで、新エネルギーのエースと持てはやされたのが、原子力エネルギーだ。
しかし、この地球環境を守ろうとするエース、倫理観がまったく欠如していたのだ。
福島第一原発事故は、電力会社と国の倫理観のなさを実証した。
50年代から半世紀で、地球の人口は2倍になったという。
人間が生きるために、自然破壊が加速したのは間違いない。
自然が破壊されると、人間は生きづらくなる。だが、人間は間引きをおこなわない。
地球のどこかでは、戦争という名の間引きに近い行為はあるが、自然との均衡を保つほどのものではない。
北海道の自然環境を守るため、増えすぎた鹿の間引きが行われている。昔は狼がいて鹿の天敵になっていたが、狼が人間の生活を脅かすので、人間が絶滅させたため、鹿が増えたのだ。
その鹿を間引きし、人間の食料にしようと北海道を挙げて推奨している。
「自然との共生」という美名の下で繰り返す、倫理観の欠片もない事例ではないか!?。
※今年の1月9日の恵山(618M)。

さて我々の近未来、2020年東京オリンピック。
丹下健三氏が設計した国立競技場が立て替えられる。新設計を見ての私の直感は、メタルっぽい「空飛ぶカブトガニ」だ。「未来都市東京」を誘引させるに充分なプレゼンテーションのようだ。
その設計に異を唱えるのが、社会学者宮台慎二。
新競技場は、周囲の環境を破壊する大きさだという。
明治神宮という歴史的環境を尊重した今の国立競技場だが、その配慮がないのが新たな構想だという。模型もない写真だけの設計で、審査委員長は安藤忠雄氏だという。
新たな生活環境を創造することは、建築家の役割かもしれない。
しかし、人間本位の行き過ぎた環境破壊に警鐘を与えるのも、建築家の役割ではないだろうか。
その役割に、倫理学が合築されてもいいのではないかと、考えてもみる。
大阪万博の「太陽の塔」。そのモニュメントの製作を多くの芸術家が断り、最後に岡本太郎に行き着いたという。
「みんなに嫌いなものを作ってやる」と製作し、結果、その塔だけが残った。
岡本太郎は「醜悪な未来」に、警鐘を鳴らし続けたのだろうか。
「世界初のフルモックス燃料の大間原発」。
これは、倫理が差し込むなにものもない、人間を間引きする存在のようだ。
人間が他の生物に対し、行ってきた悪行の数々。
その罪の償いは「原発ゼロ」を実現することではないか。
そうでなければ、人間として「懺悔の値打ちもない」はずだ。
加藤尚武の「環境倫理学のすすめ」というのを読み返してみたが、倫理観の曖昧な私は、この程度の理解だけだ。
人類10万年の歴史の中で、わずか150年間の世代が、化石燃料を使い果たしてしまいそうな勢いだ。さらに化石燃料による、地球温暖化が問題になる。
そこで、新エネルギーのエースと持てはやされたのが、原子力エネルギーだ。
しかし、この地球環境を守ろうとするエース、倫理観がまったく欠如していたのだ。
福島第一原発事故は、電力会社と国の倫理観のなさを実証した。
50年代から半世紀で、地球の人口は2倍になったという。
人間が生きるために、自然破壊が加速したのは間違いない。
自然が破壊されると、人間は生きづらくなる。だが、人間は間引きをおこなわない。
地球のどこかでは、戦争という名の間引きに近い行為はあるが、自然との均衡を保つほどのものではない。
北海道の自然環境を守るため、増えすぎた鹿の間引きが行われている。昔は狼がいて鹿の天敵になっていたが、狼が人間の生活を脅かすので、人間が絶滅させたため、鹿が増えたのだ。
その鹿を間引きし、人間の食料にしようと北海道を挙げて推奨している。
「自然との共生」という美名の下で繰り返す、倫理観の欠片もない事例ではないか!?。
※今年の1月9日の恵山(618M)。

さて我々の近未来、2020年東京オリンピック。
丹下健三氏が設計した国立競技場が立て替えられる。新設計を見ての私の直感は、メタルっぽい「空飛ぶカブトガニ」だ。「未来都市東京」を誘引させるに充分なプレゼンテーションのようだ。
その設計に異を唱えるのが、社会学者宮台慎二。
新競技場は、周囲の環境を破壊する大きさだという。
明治神宮という歴史的環境を尊重した今の国立競技場だが、その配慮がないのが新たな構想だという。模型もない写真だけの設計で、審査委員長は安藤忠雄氏だという。
新たな生活環境を創造することは、建築家の役割かもしれない。
しかし、人間本位の行き過ぎた環境破壊に警鐘を与えるのも、建築家の役割ではないだろうか。
その役割に、倫理学が合築されてもいいのではないかと、考えてもみる。
大阪万博の「太陽の塔」。そのモニュメントの製作を多くの芸術家が断り、最後に岡本太郎に行き着いたという。
「みんなに嫌いなものを作ってやる」と製作し、結果、その塔だけが残った。
岡本太郎は「醜悪な未来」に、警鐘を鳴らし続けたのだろうか。
「世界初のフルモックス燃料の大間原発」。
これは、倫理が差し込むなにものもない、人間を間引きする存在のようだ。
人間が他の生物に対し、行ってきた悪行の数々。
その罪の償いは「原発ゼロ」を実現することではないか。
そうでなければ、人間として「懺悔の値打ちもない」はずだ。
加藤尚武の「環境倫理学のすすめ」というのを読み返してみたが、倫理観の曖昧な私は、この程度の理解だけだ。