夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

児島の月

2012-10-31 23:48:24 | 日記
児島(こじま)は私にとって愛着のある町だ。倉敷市の児島半島南部にある漁港町(下津井港がある)で、地場産業の繊維の町としても有名。学生服、作業服やジーンズの産地で、本州と四国を結ぶ瀬戸大橋のお膝元でもある。

正直、今は、大橋が開通した20年ほど前の勢いはないが、それでも、海と山と川のあるこの小さな町の風情が好きで、学生の頃から何度も訪れている。

初めて行ったのは、大学に入った年だった。NHKの視聴率調査のアルバイトで、町中心部の味野や琴浦の辺りを、梅雨空の下、1日かけて住宅を1軒1軒回った。

あのころは、町なかの商店街ももっと活気があったのに、今はすっかり寂れてしまい、つい感傷的になってしまう。

夜の瀬戸大橋はとてもきれいだったが、見ていたらそれまで時々雲の絶え間から月が見えていた空が俄かにかき曇り、冷たい時雨が降ってきた。しかも、夜目にも雨脚がはっきりとわかるほど、激しく降ってくる。



海上の眺めは、遠くまで見渡せるため、はるか向こうで時雨を降らせていた雲が、しだいにこちらにも近づいて、ざあっと降りつけていく様子が、なんだか橋をつたってやって来るように見えて、

  海原はあなたよりまづ降りそめて時雨ぞわたる瀬戸の長橋

時雨はひとしきり降って通り過ぎていったが、その後も時折小雨がぱらつき、せっかくの美しい月も、流れる雲に隠れがちで、しおれているように見えるのが少し残念だった。

  いにしへを心にこめてながむれば児島の浦の月ぞ露けき

石清水八幡宮

2012-10-30 22:03:51 | 日記


学会が終わったときには、すでに夕方になっていたため、「今から行っても途中で日が暮れるだろうなあ」と思いつつ、以前からどうしても行きたかった石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)にお詣りした。

石清水八幡宮は、貞観二年(860)の創建。京都の裏鬼門にあたる南西の地にあり、鬼門(東北)にあたる比叡山延暦寺とともに、都の守護、国家鎮護の社として崇敬を集めてきたという。また、伊勢神宮に次ぐ宗廟(皇室の祖先を祀る)として朝廷に重んじられ、歴代天皇・上皇はしばしば行幸・御幸している。

後鳥羽上皇の和歌にもたびたび石清水が詠まれ、また自らの和歌を奉納したりしている。

それと先月、古文の授業で『徒然草』第52段の「仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ~」の話を教えたこともあり、今度京都に行ったらぜひと思っていたのだ。

七条から京阪電鉄に乗り、八幡市駅で降りると、すぐ目の前に男山ケーブルがある。このときにはすでに日が暮れてしまっていたが、ここから下のケーブルカーに乗って山頂まで行く。

標高143メートルの男山山頂まで約3分、車内放送で石清水の由緒などについてのガイドを聞くことができる。例の『徒然草』52段が紹介されているのも楽しい。

仁和寺の老僧が、案内も無しに石清水八幡宮へ参詣に行ったが、山頂に本殿があるのを知らず、麓にある摂社の極楽寺や高良社を拝んだだけで、これで全てだと勘違いして帰ってしまったというのだが、実際にあった話なのだろうか?

山頂に着いたらもう真っ暗で、足下もおぼつかない中、参道を歩いてようやく本殿にたどり着く。誰もいない境内で心静かにお祈りし、門を出ると、後ろで扉が閉まった。どうやら私の参拝が済むまで待ってくれていたらしい。

帰りのケーブルカーを待つ間、近くにある展望台から眺めると、ご覧の通りの夜景でとてもきれいだった。やっぱり来てよかった。



  男山けはしき坂を越えて来て都の四方(よも)の眺めをぞ見る

昨日の学会のこと

2012-10-29 22:54:05 | 日記
昨日は学会に行く前に清水さんにお詣りしたので、けっこうギリギリになって会場に到着した。

会場は、京都産業大学・壬生川校地の「むすびわざ館」で、付属の中学・高校と同じ敷地にあった。写真のようにお洒落でモダンな建物で、ホールもきれいで快適だった。ただ、学会の会場が大講義室でなくホールなのは、私としてはあまり嬉しくない。

会場の座席には、肘掛けのところに、折りたたみ式の机がついているのだが、これがとても狭くて書き物がしにくい。私は「学会ノート」というのを作っていて、学会の講演や研究発表を聴きながらのメモは、資料集の冊子でなく、ノートに書き込むようにしているので、机は大きくて床に固定されている方が書きやすいのだ。また、私は書き物の際は、何種類かのペンを使って書きたいので、その意味でもホールの椅子についている机は不便である。

昨日は、専門外の発表が多かったので、結局資料集に書き込んだが、今後はノートの取り方も考えた方がよいかもしれない。

それにしても、専門や対象とする作品のジャンルが違うと、こんなにも研究方法が違うのか、ということを思い知らされる。また、散文作品だと、和歌文学ではまず出てこない戦乱、性愛、凄惨な描写、反道徳的事件や思想などがリアルに描かれていたりするので、和歌がいかに生活や社会の生な現実的要素を忌避し、捨象したところに成り立っているかを改めて痛感する。

自分が取り扱う対象が和歌であっても、同時代の様々なジャンルの文学や記録、芸術・芸能、宗教との関わりを考えていかなければならないと思った。今回の大会は、『今昔物語集』『平家物語』、鴨長明など、メジャーな作品・作者についての発表が多かったので、私にも興味が持ちやすかったし、他の方の発表技術や資料の作り方で参考になることが多かった。また、一見やすやすと発表しているように見えても、今日のためにどれだけの準備をし、作業や労苦を積み重ねてきたのだろうということを思った。ギャラリーでの企画展では、会場校所蔵の『千載集』日野切や『明月記断簡』など、貴重な書籍の展観も閲覧でき、たくさんの収穫を得て帰ってくることができた。

京都に行きました

2012-10-28 18:45:12 | 日記
学会に参加するので京都へ。

開始までに少し時間の余裕をみて、清水寺へお参り。中学の修学旅行も含めて何回か来ているが、いつ来ても新鮮に感じる。

最後に訪れたのは京都女子大で学会があったときなので、もう10年ほど前になる。あのときは、たしか四月の下旬で、清水の舞台から見えた藤の花がとてもきれいだった。

今日は朝からずっと雨で、傘をさしながら坂を登っての参詣は大変だったが、境内に入ってその眺めの美しさに、やはり来てよかったと思った。

雨がやや色づき始めた木々にいっそうの紅葉を促すように降り注ぎ、そこから霧が生じて、上のお寺のほうにのぼってくる眺めがまるで絵のようで、ついじっと見入ってしまった。

  時雨の雨木々を染めつつ麓より霧たちのぼる清水の寺

十三夜

2012-10-27 21:25:03 | 日記


八月十五夜の中秋の名月に対して、九月十三夜の月見は「後の月見」という。十五夜に次いで美しいと言われている月なのに、今夜はあいにくの曇り空で、時々小雨が混じり、ながめることができないのが残念だ。

そういえば、後鳥羽上皇は、建仁二年(1202)九月十三夜には、水無瀬(みなせ)離宮で歌会を行っている。この日は、上皇がかねて歌人達に詠ませておいた恋歌十五首を、歌合に番えたものが、藤原定家によって読み上げられ、その後、歌のよしあしについての評議が行われた。

定家の日記『明月記』によれば、この日は朝からよく晴れ、雲や靄もなく「夜月清明」だったという(うらやましい)。評議は夕刻になって終了したが、参加者の興醒めやらず、「月前秋風」「水路秋月」「暁月鹿声」の三題で当座の歌合が行われ、さらに「しうさむや(十三夜)」を各句の上に据えた折句歌と、「みなせかは(水無瀬河)」を隠し題にした歌を詠むことが求められた。

後鳥羽上皇は、十三夜の折句歌では、
  志賀の波や浦わの月のさゆる夜に昔恋ふらし山の秋風
飛鳥井雅経(あすかいまさつね)は、同じく、
  しばし見んうき雲晴るるさやけさは昔もあらじ山の端の月
と詠んでいる。二人ともすばらしい。

私も挑戦してみようと思ったが、折句歌は難しかったので、「十三夜」を五首の初めに置いて詠むことにした。「山家の月」の趣で、山里で侘び住まいする者の立場から詠んでみたのだが、うまくいかなかった…。

  し 時雨れつる空とも見えず晴るる夜の月漏り明かす槙の板屋に
  う 憂しとみる世もなかなかにそむかれず月かげばかり友とならひて
  さ さびしさは月見るにこそまさりけれ同じ心に見る人もがな
  む 虫の音も秋をや惜しむ草の原月に恨むる声ぞ聞こゆる
  や 山里は訪(と)ふ人もなし夜もすがら月をながめてしのびわびつつ

写真の月は、昨日撮ったもの。本当は、今夜に照ってほしかった。