夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

文楽

2016-02-27 22:59:31 | 日記
今日は米子市公会堂に、人形浄瑠璃「文楽」を観に行った。
文楽が米子に来るのは20年ぶりとのこと。
会場に入るとき、この可愛い人形に迎えられた。


私は夜の部を観たので、演目は「絵本太功記」と「日高川入相花王(いりあいざくら)」だった。
文楽はほぼ10年ぶりだったが、人形が生き物のように動くのに目を引きつけられる。
筋立ては、リアリズムの観点からはつじつまが合わないことばかりなので、途中までは苛々することもあるのだが、最後に話がガッチリ噛み合い、ああこういうことだったのかと腑に落ちるとともに、強い感動が襲ってくる。
人形遣いと語りと三味線が一体になって、悲しみの波動が幾重にも伝わってくる。

人間が虚構を演じるより、人形浄瑠璃のほうがもっと作り事であることがはっきりしているはずなのに、実際にはただ眼前に、悲劇的な人物たちがドラマを繰り広げているようにしか見えないのが不思議である。

文楽も米子には次はいつ来てくれることやら…。
こういう文化・芸術の面に関しては、東京や大阪の人が羨ましい。

自助の精神

2016-02-24 23:22:37 | 日記
この一週間、試験の採点と再試、また勤務校の入試業務もあって、なかなか記事を更新する時間が取れなかった。
今日、再試とその採点、関係する先生方への連絡や相談も終わり、ようやく一段落ついた。


さて、このタイトルとこの導入部で、読者のみなさんは、私が何を言おうとしているか、すでにお察しのことと思う。

『自助論』の著者、S・スマイルズが説いた「自助」の精神は、自然界の法則のごとき不変の真理である。

外部からの援助は人間を弱くする。自分で自分を助けようとする精神こそ、その人間をいつまでも励まし元気づける。人のために良かれと思って援助の手を差し伸べても、相手はかえって自立の気持ちを失い、その必要性をも忘れるだろう。保護や抑制も度が過ぎると、役に立たない無力な人間を生み出すのがオチである。
いかにすぐれた制度をこしらえても、それで人間を救えるわけではない。いちばんよいのは何もしないで放っておくことかもしれない。そうすれば、人は自らの力で自己を発展させ、自分の置かれた状況を改善していくだろう。
(中略)
自らの怠惰を反省し、節約の意味を知り、酒におぼれた生活を否定して初めて人間は変わっていく。われわれ一人一人がよりすぐれた生活態度を身につけない限り、どんなに正しい法律を制定したところで人間の変革などできはしないだろう。
(『自助論』竹内均訳、三笠書房)

豊かで便利な現代社会にあっては、若者は努力や克己、節倹や奉仕といった、昔から尊ばれてきた価値観を軽視しがちである。
しかし、日頃実際に多くの学生たちと学校や寮で接していると、勤勉・正直・感謝の自助の精神に従って生活している者と、そうでない者との間で、能力や人間性はおろか、運命まで大きく変わってしまうことを思い知らされる。

仁は人の心なり

2016-02-19 22:14:58 | 日記
先日、授業で『孟子』「告子上」中の「仁は人の心なり」について教えた。
『孟子』中でも、特に有名な章段である。

孟子が言った。
仁(愛、思いやり)は人が本来持っている良心である。
義(正義)は人として行うべき道である。
しかし人は、その正しい道を捨てて従わず、良心を失っても探し求めることを知らない。
悲しいことだなあ。
人は、鶏や犬が失われたら、それを探し求めることは知っている。
しかし、良心が失われても探し求めることを知らない。
学問の道は他でもない、その失われた良心を探し求めることなのだ

今日、この文章に関して試験に出題した設問の採点をしていたら、記述問題の所で珍解答が続出した。

問 孟子はこの文章で、なぜ「鶏犬」のたとえを用いているのか。わかりやすく説明せよ。
  (読者のみなさんも、ちょっと考えてみてください。)」


もちろん、ほぼ正解の答えもあった。
・人は、目に見える自分の財産が失われた時にはそれを探し求めるが、良心を失っても探そうとはしないということを示すため。

だが、次のように、思わず突っ込みを入れたくなるような解答も、幾つもあった。(以下は私のコメント。)

・鶏や犬はその当時、卵をとったり、労働力として飼うなど、人間にとって大事な存在だったから。
→鶏や犬は牛馬のようには働きません。

・鶏や犬が逃走したら探すように、己の心も逃げてしまったら探しに行けということが言いたい。

・鶏や犬は食べるものだから、人間が生きていく上では必要なものなので、夢中で探し求めるものの良い例になるから。
→犬を食べちゃダメでしょう。

・人は自分の失われた良心を探し求めないが、鶏や犬にはなつかれたいという気持ちがあって、心を探し求めようとするから。
→鶏になつかれたい人はほとんどいないでしょう。

・いなくなった鶏や犬を探しに行く行動は、仁の心からくるものだから。
→悪いけど、採点しながら笑ってしまいました。

あまりにおかしかったので、同僚の先生に見せたら、
「答案を作る際にかなりぐるぐる考えて、妄想してますよね。」
と言って笑っていた。

夕霞

2016-02-17 23:27:41 | 日記
米子では昨日一昨日と降雪が続いたが、積もるまではいかない。
雨混じりの雪、あるいは羽毛のような雪で、地面に触れるとすぐに解けてしまう。

今日も朝のうちは雪が降ったりやんだりしていたのが、午後は晴れ間が広がり、夕方には研究室の窓から霞がかった大山が見えた。


  大山もおぼろに見ゆる夕霞米子に春はまだ浅きころ
  大山はほのぼの霞む冬と春と行き交ふ空はなほ風さえて

今日は午後からほとんど採点作業をして過ごし、夜になって一クラス分仕上げた。
最終日の明日に、残り三クラスの試験がある。この後、採点、再試、成績処理など煩わしい作業が続くが、早くやっつけて、来月に内輪で行うセミナー発表の準備に本腰を入れたい。

春遠からず

2016-02-15 23:51:45 | 日記
今日の米子は終日雪が降っていたものの、気温が下がらないため、さほど積もることもなく、冬はすでに底を打ったことを感じさせた。
今は雪の中に立っている桜も、来月の末には開花していることを思うと、花の季節が待ち遠しい一方、憂鬱だが美しい山陰の冬と間もなく別れることが寂しくも思われる。


午前中の試験監督を終え、昼食後に試験問題の校正・印刷も済ませて研究室で雑用をしていると、電話が来た。
同僚の若手教員の先生方が、ガトーショコラを作ったから食べにこないかということだった。
ホールのを切り分けてもらい、コーヒーとともにいただく。
チョコレートとコーヒーの組合せは、最強だと思う。
同僚の先生方と談笑しながらの放課後茶会は、忙中閑ありの気分であった。