夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

奇跡のリンゴ(2)

2013-06-30 22:36:17 | 映画
あらすじの続き


リンゴの無農薬栽培は、順調に見えたのは最初のうちだけで、リンゴの木は黒点病と褐斑(かっぱん)病を併発してしまう。
秋則は、農薬の代わりに粉ワサビや酢、他にもさまざな食品を散布してみるが、なかなか効果が現れない。
もっと早く結果を出すためには、実験する畑を増やす必要がある。秋則は義父・征治(山崎努)に、三年目からは四つ全てのリンゴ畑を無農薬でやらせてくれと頼み込む。義父は秋則のために、リンゴ農家の会合で、
「ウチは今度から全面的に無農薬でやる。」
と発言してくれる。
しかし、五年目の春。全てのリンゴ畑が病気と害虫の天国になり、何もかも振り出しに。
秋則も美栄子も義父も、明け方から夜まで黙々と害虫を取り除く日々が続く。
「あれは農業でねえ。農業ごっこだ。リンゴ農家が何十年という苦労の末に、たどり着いた結論が農薬だ。」
と秋則たちは、村の者に責められる。
義父は預金を全額下ろし、翌年に全てを託す。


無農薬六年目。木村家の収入はゼロ、トラックもバイクも売り払い、秋則は一番遠い畑まで、二時間も歩いて通っている。
秋則は、村人からは「かまど消し」(津軽では穀潰し(ごくつぶし)、役立たずの意)と呼ばれ、家には回覧板も届かなくなる。
七年目、妻がリンゴ畑の仕事のかたわら作っている野菜は、無農薬でもよく育つのに、なぜかリンゴだけはうまくいかない。
極貧の生活が続き、娘たちは学校でいじめられ、友人のもっちゃん(池内博之)からは無農薬をやめろと責められる。


当時、商品価値のあるリンゴは高値で取引され、金の成る木といわれていたのに、農作業のない冬、村の中で秋則だけが東京に出稼ぎに行っていた。しかも、宿泊費を惜しんで夜、公園で寝ていた秋則はオヤジ狩りに遭い、所持金の入ったカバンを盗られたりしてしまう。
…このあたりは、見ていてつらいシーンがえんえんと続く。たまりかねて、映画館内のある老人男性が、
「なんだ! 少しもいいことないじゃないか!」
と叫び出したのには驚いたが…。

八年目(昭和60年)、秋則が出稼ぎで作ったお金で酢の散布をするが、税金滞納で畑が差し押さえになり、四つの畑のうち二つを手放すことに。そのころから秋則の心は、壊れた機械のように故障し始める。作業していて、急にリンゴの木に謝ったかと思うと、罵声を浴びせかけ、挙げ句、美栄子に向かって別れを切り出したりする。
行くも地獄、戻るも地獄。秋則たちはいったいどうなってしまうのか?


奇跡のリンゴ(1)

2013-06-29 23:20:08 | 映画
愛する妻のために無農薬でリンゴを栽培しようと決意した男が、11年もの歳月をかけて「奇跡のリンゴ」を実らせるまでの物語。

あらすじ

青森県弘前。三上秋則(みかみあきのり=阿部サダオ)は、子どもの頃から遊び方が普通の子とは変わっていた。
答えを見つけなければ気が済まない子どもで、興味を持ったものは時計、ラジオ、テレビ…なんでも分解してしまう。高校のとき、友達のバイクを分解して組み直し、高性能にしたはずが爆発して炎上、別の友達のギターアンプも、高出力にしたはずがやはり爆発…。
父親は、
「農家の息子は農家のことだけしてりゃええんだ!」
と叱るが、秋則はそれに反発し、高校卒業後、父親に内緒で上京し、電器メーカーに勤める。
ある年、台風9号で秋則の地元のリンゴが壊滅し、秋則は実家からの電報で、すぐに帰るように言われてしまう。
父親は、
「ウチには、お前を東京でいつまでも遊ばせておく余裕はない。」
と言い、あるリンゴ農家がお前を跡取りに欲しがっているから、見合いを受けるよう命令する。
強引に見合いの場に連れて来られた秋則。父親と娘一人だけの家とは聞いていたが、見合い相手はなんと、高校の頃、生徒会長でありながら変人で有名だった秋則に、唯一興味を持って話しかけたりしてくれた木村美栄子(菅野美穂)だった。
美栄子が好きだった秋則は、東京に帰らず結婚することを決意する。


木村家に養子として入り、リンゴ農家の跡取りとして働きはじめる秋則。
安全なリンゴを育てるためには、一年に13回も農薬を散布しなければならない。ある日、美栄子が倒れるが、義父は「いつものことだ。」と言う。美栄子は薬にアレルギーがあった。
秋則が、
「それなら農薬なんてやめたらいい。」
と言うと、義父は、
「やめたらリンゴは育たない。それがリンゴ農家だ。」
と答える。しかし、秋則が美栄子を看病していて、ふとその首を見ると、農薬アレルギーで中毒をおこした皮膚は、ひどくただれている。
秋則は妻の中毒を治すため、リンゴ農家の若手を語らって勉強会を発足し、減農薬や堆肥づくりの研究を始める。
そのころ、美栄子が妊娠して女の子が生まれ、雛子(ひなこ)と名づけられる。(その後、次女の咲(さき)、三女の菜ツ子(なつこ)も生まれる。)


秋則は、リンゴの虫害は、過剰な栄養が虫を呼んでいると考え、肥料を使わない栽培を目指す。そのころ、古書店でたまたま手にした福岡正信著『自然農法』という本。耕さず、肥料も農薬も使わず、何もしない農法…。気づけば、秋則はこの本を朝までかかって読み通していた。
「見つけた! これだ! オラは答えを見つけたぞ!」

秋則は、これが成功すればみんなが助かると言って、義父に四つある畑のうちの一つで、無農薬栽培をやらせてくれと頼み込む。
翌年、無農薬一年目。しかしそれは、これから長く続く苦しい日々の始まりにすぎなかった…。

鞆の浦

2013-06-28 23:09:32 | 日記
一昨日、福山市立大学の説明会が終わった後、『崖の上のポニョ』(2008)の舞台として有名な、鞆の浦(とものうら)に寄ってみた。
福山市中心部から22号線で沼隈半島を南下し、20分ほど車を走らせて鞆の浦に着いた。


ここは、半島の先端部で海上交通の要衝であり、古来「潮待ちの港」として栄えたのだという。
写真では、弁天島の向こうに、低く垂れ込めた雲を頂いた仙酔島(せんすいじま)が見える。仙酔島は無人島だが、遊歩道やハイキングコースがあり、渡し船に乗って5分で行くことができる。


福禅寺(ふくぜんじ)。5時を過ぎていたので、中には入れなかったが、本堂に隣接して対潮楼(たいちょうろう)という客殿があり、その大広間からの海の眺めはすばらしく、「日東第一の形勝」と称えられたのだそうだ。


鞆の町は、江戸時代から昭和初期の民家が多く残る、風情ある町並みである。路地は石畳で敷き詰められ、また社寺も多い。歩いていると、歳月の重みを踏みしめているように感じ、また町のそこかしこから、失われたはずの昔の光景が、面影に立つような感覚に襲われる。


港には、たくさんの漁船が泊まっていた。鞆の浦のシンボル、常夜燈が向こう側に見える。
時折、小雨がぱらつくが、本格的に降ってくる様子はない。


鞆湾の眺めを一望したくて、後山(うしろやま)の坂道を上り、医王寺へ。
境内からさらに階段で583段(!)登ると、太子堂があり、そこから写真のような眺望が。
梅雨空でやや視界が悪いのは残念だが、がんばってここまで来てよかったという気になった。

今回は出張のついでに立ち寄っただけなので、ゆっくりあちこちを見ることができなかった。
今度は時間をとって、のんびりと散策したり、食事を楽しんだり(鯛漁が盛んなので、鯛飯が名物らしい)してみたい。

岡山県立大学

2013-06-27 23:04:50 | 日記

岡山県立大学での来年度入試説明会・意見交換会に参加。
この大学は今年開学20周年を迎え、保健福祉学部(看護学科・栄養学科・保健福祉学科)・情報工学部(情報通信工学科・情報システム工学科・スポーツシステム工学科)・デザイン学部(デザイン工学科・造形デザイン学科)の3学部8学科を擁する。
本校からは、毎年数名が進学しており、今年も推薦・一般入試とも受験する生徒が何人もいると見込まれるため、ぜひとも説明を聞いておきたいと思っていた。


大学を実際に訪れてみて、構内がとても広く、施設が充実しているのに驚いた。緑あふれるキャンパスに、水の流れが目にも涼しい。ここに進学した卒業生の満足度が高いのも、うなずける気がした。


説明会の帰り道、吉備津(きびつ)神社に立ち寄り、生徒たちの入試の合格をお祈りしてきた。
写真は本殿・拝殿(国宝・国指定重文)。室町時代の応永32年(1425年)の再建で、「吉備津造」と称されているそうだ。


先日紹介したように(5/27)、吉備津神社はアジサイの名所でもある。
梅雨の晴れ間に、白、青、紫、ピンク、赤紫…色とりどりのアジサイがとてもきれいだった。

福山市立大学

2013-06-26 23:26:09 | 日記

出張で、福山市立大学の説明会へ。
この大学は、もとは市立の女子短大だったのだが、一昨年に改組して共学の四年制大学へ移行し、同時に新キャンパスを設置して「福山市立大学」として開学したのだ。
岡山市や倉敷市からは十分通学圏内なので、本校の卒業生もこの二年で四人ほど進学している。
私が現在教えている三年生の中からも、きっとこの大学を目指す者が出てくるはずだし、ぜひ一度はどんなキャンパスか見ておきたいと思っていた。


今日は朝からあいにくの大雨で、岡山県南部では警報が出てしまい、学校は休校になってしまった。
午後になって、やや小降りになってきた雨の中、高速道路を飛ばして現地へ急ぐ。
大学に着いた頃、ようやく雨が上がったが、まだ雲が多い。
説明会の会場となった研究棟の窓から見ると、「港町キャンパス」という名前の通り、福山内港に隣接して埋立地に建てられていることがよく分かる。
ちなみに、昨年の大学祭は「港輝祭」という名前で行ったそうだ。

 
大学の建物は近代的な雰囲気でまだ真新しく、ここで学べる学生たちが羨ましい。
構内の花壇には、福山市の市花であるバラが植えられており、雨に濡れて可憐さを増していた。
…説明会が終わって、研究棟を出たところ、偶然、卒業生とばったり。
もともと少人数の大学なので、顔を合わせてもおかしくはないのだが、やはりうれしい。
少し立ち話をして、楽しそうに大学生活を送っているなあ、と感じつつその場を後にした。


帰るときには、だいぶ明るくなった空が、港の水面に映り込んで、なんだか印象派の絵画のようだった。
福山駅から自転車で十五分程度、市の中心部なのに、こんなにロケーションのいい大学も珍しい。
期末考査前で、何かと忙しい時期ではあるが、実際に行ってみてよかった。