夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

「レイトオータム」観ました。

2012-04-30 21:31:58 | 映画
『ラスト・コーション』(2007)に出ていた美人女優のタン・ウェイがお目当てで観に行った。ダブル主演のヒョンビンは、韓国ではドラマ『シークレット・ガーデン』などで人気の俳優らしい。

シアトルの街を舞台に、中国系アメリカ人のアンナ(タン・ウェイ)と、韓国を出てアメリカでホストをしているフン(ヒョンビン)との悲恋を描いた映画だった。

アンナは7年前の夫殺害の罪で服役中だが、母が亡くなり、模範囚だったこともあって、72時間だけ外出を許可され、故郷のシアトルに向かう。長距離バスに乗ると、そこに何者かに追われるかのようにフンが乗り込んできて、運賃が足りないので30ドル立て替えてくれという。フンは「金を戻すまで」と言って、大切にしている時計をアンナに渡す。

翌日、シアトルの街で偶然会ったアンナに、フンは街のガイドを申し出、観光バスに乗ったり、工事中の遊園地に勝手に忍び込んで楽しんだりするうちに、アンナはフンに心を許しはじめ、自らの過去のあやまちを話しだす。「私たち、どこから間違ってしまったのかしら」。


詩情あふれる作品で、全編ほぼくすんだ色調の画面、晩秋らしい枯れ草のような色が多用されていた。また、セリフや音楽、筋の説明を極力抑え、役者の演技や表情、シアトルの晩秋の風景に語らせようとする意図が見てとれた。

ただ、母親の葬儀後のシーンから後は、どうもシナリオがよくないのか、納得のいかない展開もあり、正直、見終わった後で、もやもやしたものが残ってしまった。期待が大きかっただけに、少々残念。

ジェスチャー・ゲーム?

2012-04-27 22:29:14 | 雑談
これも以前の話、授業中に漢字テストをして、その答え合わせのときのこと。

「《舗》の部首は何かな?」

と聞くと、クラス一のお調子者のI山君が、

「べーっ」

とベロを出した。(正解は《舌》)。

次に、

「《乾》の部首は?」

と聞くと、I山君が、両手を合わせて顔の横に持っていき、なよなよと体をくねらせるポーズ。

…わけがわからず、みんながキョトン、としていると、

「乙女の《乙》じゃーっ!!」

クラス全員で爆笑した。


I山君が卒業してもう2年にもなるが、元気にしているだろうか?

「守株」の新解釈

2012-04-25 21:20:12 | 雑談
これは以前の話になるのだが、1年生の古典の実力テストに、漢文で「守株」の文章を出題した。みなさん、ご存じの話である。

昔、宋の国の人が、畑仕事をしていたら、兎が走ってやって来て、木の切り株にぶつかり、首の骨を折って死んでしまった。それ以来、その人は農作業をやめて切り株の見張り番をするようになったが、二度と同じように兎を手に入れることはなく、畑は荒れ放題になり、その人は国中の笑いものになったという。

型のごとく、出典(『韓非子』)や語句や書き下し文や返り点について問うた後で、〈なぜこの人は鋤(農耕具)を捨てて、切り株の番をするようになったのですか〉という問題を出した。

だいたいは、模範解答として用意していたような答えをしていたのだが、一人の生徒だけ、「うさぎが再びやって来て、切り株にぶつかって首の骨を折って死ぬのを防ぐため」と書いてあった。

採点しながら思わず大笑いしてしまった。

後になって、同じく古典を教えているK田先生にその答案を見せたところ、「なんという心優しい…。」と言って笑っていた。

わからない生徒の気持ちになって考える (評論)

2012-04-24 21:02:41 | 教育
これが実際には難しい。自分ではわかりやすく噛み砕いて教えたつもりなのに、「難しい」「わからなかった」と言われるくらいショックなことはない。

ただ最近、生徒がどのようなところでつまずくのか、ちょっとわかるようになってきた。

たとえば、生徒が難しいと言って嫌がる評論の場合でも、「この文章で、筆者は、①どんな話題について述べているか、②どんな主張をしているか、③どんな理屈で説明しているか」を常に意識させることで、ある程度までは生徒に理解させてやれるようになるという感触を、最近の授業で得ている。

まず、評論ができない生徒は、①のところですでにつまずいているケースが多い。そもそも、この文章で何が話題になっているかが把握できていないのだ。

そこで、段落の最初の方に出てくる話題を示す語句(「~は」という形で示されることが多い)に着目させ、四角で囲ませる。そして、筆者がその話題を通して何を言っているかに着目させる。

たいていは、その話題について、通説や通念が先行してあり、筆者がそれについて検討したり批判したり、という行論になることが多い。

その対比の図式は、本文中に「AではなくB」、「AよりむしろB」、「Aとは違ってB」などという形で示されていることが多いので(駿台の小坂恵子先生は「構造語」と呼ぶ)、その構造語に着目させながら、ここは通念、ここは筆者の意見、と腑分けして指摘し、整理して板書し、説明してやる。

たとえば、「〈現代がどのような社会であるか〉という話題について筆者は論じようとしているんだけど、その話題についてはすでに〈消費社会論〉という立場からの説明が勢力を得ていて、筆者はそれを踏まえながらも、この点について問題視し、批判しているよね」というように、授業を展開していけば、少しはわかってもらえる。

とにかく、「生徒はどこでわからなくなっているか?盲点はどこか?」と自問しながら、授業の組み立てを考えることで、ひとりよがりの授業からは脱却できるのではないかと思う。以前は、筆者の代理人のような立場から教えていたような気がする。


今日の放課後、教室に遅くまで残って受験勉強していた3年生の生徒と話をしていたら、「最近、現代文が少しわかるようになってきた」と言われた。「先生、教え方、変わりました?」

「少し工夫を加えたんよ」と答えたが、その生徒が以前、授業アンケートで「現代文の授業が苦痛」と書いていた生徒だったので、とても嬉しかった。

実際には、教え方の基本は変わっていないし、マイナーチェンジくらいの変化にすぎない。それでも、わからない生徒の立場から授業の組み立てを考えることで、受ける印象は大きく変わってくるのだと思った。これからも生徒のつまずきのもとを発見し、それを取り除き、正しい理解に導ける教え方ができるようにしていく。

一斉授業は悪か?

2012-04-23 21:16:42 | 教育
福嶋隆史氏の『国語科授業 成功の極意』(明治図書)を読む。

「教え合い・学び合い」の授業についての意見に特に共感した。

教師は、教科知識や指導技術といった専門性への評価のもとに教員免許を受け、採用試験に合格した上で仕事をしている。

専門性のない教師による授業が「授業」であろうはずがなく、そのような授業で生徒達に学力を育てることはできない。

「できない生徒」のつまずきの段階を正確に見出すことも、そのつまずきに対して最善の解決策を与えることも、あるいは、「できる生徒」自身がより高い目標をどこに設定すればよいのかを明確にすることも、いずれも、専門性のある教師にしかできない仕事である、と福嶋氏は言う。

教師主導で一斉授業を行い、教師が全体に目配りし、要所要所で個々の到達度を見きわめる手立てを持つからこそ、生徒の学習への評価も可能になる。


私自身も、一斉授業がすべての基本であり、指導目標・計画のもとに、綿密な教材研究と生徒への理解・愛情に支えられて、毎回の授業が成り立つと考えている。(もちろん、生徒のレディネスや善意の協力にも支えられて成り立つ、双方向の活動であることは重々承知している。)

また、昨年12月、岡山県総合教育センターで、白鴎大学教育学部教授・赤堀侃司氏の「デジタル教科書と指導法」という講演を聴いたが、現在、教育のIT化の進展に伴い、一斉指導の利点が見直されてきているそうである。また、国際比較でも日本の教師の指導力は抜群と評価されており、特に〈生徒を授業に引きつけ、マネジメントし、集中して勉強させる〉力が優れている、と話されたのには、我が意を得たりと嬉しく感じた。

近年、一斉授業について、「生徒を画一化し、個性や自主性や思考力を奪う」、「大量生産・消費時代の教育方法で時代遅れ」などといって否定するむきがあるのは残念である。一部に陳腐化・形骸化した授業もあるのは事実だろうが、かといって、先人達の優れた実践の積み重ねを尊重し、今後に生かしていく精神まで失ってしまっては元も子もない。