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(「冷泉家の至宝展」図録〔NHK・NHKプロモーション発行〕より転載)
このブログでもしばしば取り上げている、後鳥羽上皇と藤原定家。
昨年来、彼らの書や作品に直接触れる機会が何度もあり、改めて彼らの和歌史上、そして日本文化史上における存在と影響の大きさを感じるようになった。
特に藤原定家は、和歌史上の巨大な存在であり、死後間もなくから歌聖として仰ぎ見られ、名声に包まれてきた人物である。
しかし、生前の実像はどうだったのか。
どのような意志を持ち、どのような意識で日々を生きていたのか、もっと知りたくなった。
幸いにして、定家はその日記『明月記』を遺してくれている。また、定家の伝記や『明月記』に関する研究や著作も数多い。
このコーナーでは、定家と後鳥羽院との出会いのあたりから、『明月記』を繙き、少しずつ紹介していくことにしたい。
上の写真は、京都の冷泉家所蔵の重要文化財、定家自筆『明月記』第九巻から、建仁三年(1203)正月(旧暦の一月)四日条の一部。ちょうど、810年前の今頃の時期だ。
四日 天晴
午時参摂政殿御共参院今日御幸始也~
と、定家が摂政左大臣の九条良経の供をして行動したことが書かれている。
『明月記』は原本がかなりの部分残っているが、当時の公家日記の常として漢文体で書かれ、しかもご覧のように、決して読みやすいとは言えない字でびっしり記してあって、中には判読に苦しむところもある。だが、それも含めて史料を読むことの楽しさなので、このコーナーでは、著者の生の声を聞ける面白みも伝えていけたらと思っている。
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(上掲「冷泉家の至宝展」図録より、定家図)
最後に『明月記』の著者・藤原定家は、応保二年(1162)~仁治二年(1241)、八十歳。鎌倉時代前期の歌人で、名の「定家」は通常「ていか」と呼びならわしている。藤原道長の六男・長家を祖とする歌道家・御子左(みこひだり)家に生まれ、正二位中納言にまで進んだ。父の俊成(しゅんぜい)は、『千載和歌集』の撰者。後鳥羽上皇の厚遇を得て、歌壇の第一人者となり、『新古今和歌集』では撰者の一人となる。その後、上皇とは不和を生じ、処罰をこうむるが、承久の乱(1221)後は歌壇に復帰して大御所的存在となり、『新勅撰和歌集』では単独の撰者となった。
家集(かしゅう=個人歌集)は『拾遺愚草(しゅういぐそう)』で、妖艶巧緻な歌風といわれる。和歌・歌学に関する著作多数。歌集、物語、日記をはじめとする古典の書写、校訂も広範に行っている。
上の定家像は、冷泉家に伝わるもので、似絵(にせえ=肖像画)の名手・藤原信実(のぶざね)作との伝承を持つが、実際は時代が下る鎌倉後期の制作と考えられている。現存する定家の肖像の中では最も古いと見られているが、私は定家の人となりをよく伝えてくれる絵のように感じている。
ちなみに、「冷泉家の至宝展」は、今から14年前の平成11年、京都文化博物館で行われたのを観に行った。(後に、詳しく触れることもあるだろう。)当時はあまりお金がなかったので、岡山から鈍行で京都まで行き、午前中に展覧会を鑑賞し、午後から龍谷大学で行われた例会に参加した。展覧会に夢中になって時間があっという間に過ぎ、お昼ご飯は近くのラーメン屋で急いで食べた覚えがある。例会が終わった後は、古本屋に寄って帰って来た。貧しいけれど夢があった時代だったなあと、苦しいことばかりだったはずなのに、今はとても懐かしく思い出される。