夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

N・ヒル著『悪魔を出し抜け!』

2014-02-28 22:28:40 | N・ヒル『仕事の流儀』
N・ヒル博士著『仕事の流儀』については、現在記事の配信が止まっているのだが、近刊『悪魔を出し抜け!』を最近読む機会があった。
長年、カーネギーやエジソン、フォードといった成功者にインタビューを続け、成功哲学の第一人者となったN・ヒル博士が悪魔との対話(現実か虚構か、実際のところはわからない)を通して、人間世界を支配する「大自然の法則」を発見するに至る書物である。

この書は、1938年にヒル博士が原稿を完成させていながら(“Outwitting the Devill”)、その後親族の意向により、72年間もの間隠されてきた。学校教育や教会を批判した部分があることや、本の中に悪魔が登場することが既成宗教の攻撃を招く危険を顧慮したのである。しかし、当時を知る関係者がほぼ亡くなっていることから、ナポレオン・ヒル財団が2011年にこの書を公刊し、わが国では昨年11月に邦訳が出た(田中孝顕訳、きこ書房)。店頭に並ぶと同時に購入したのだが、なかなか読むことができず、昨日ようやく読み終わった。

ヒル博士と悪魔との対話で、特に印象に残ったのは次のくだり。

悪魔 私は自分の主張を変えるつもりはない。人間の最大の義務は自分自身に対する義務なのだ。
博士 子どもは自分を生んで育ててくれた親に対し何らかの義務があるのではないでしょうか?
悪魔 そんな義務はまったくない。むしろその逆だ。親は子供に対して、自分の持っている知識をすべて与えるという義務を負っている。さらに言えば、子供を助けるどころか、反対にダメにしている親が多すぎる。彼らは義務という言葉の意味をはき違え、子供たちを甘やかしてばかりいる。本当は、子供たちが自力で知識を得るよう仕向けなくてはならないのだ。
博士 なるほど。つまり、子供に手助けしすぎることは、かえってその子たちを「流される」習慣に導き、何事にも明確でいられないようにさせてしまう、それがあなたの理論なのですね。子供たちに必要なのは、失敗はそれに見合うだけの成功の種を含んでおり、労せずして得たものはどんなものでも、恵みどころかむしろ禍をもたらす、そういう偉大な知恵を持った教師なのだ、そうあなたは信じているのですね。それで間違いありませんか?

ヒル博士は、この書を通じて、「願いは心に強く念じることで現実のものとなる」と主張し、我々が自分の頭で考え、明確な目標と計画をもって実行し、遂行すべきことを強調している。習慣を味方につけ、ヒプノティック・リズム(催眠術のように、我々の肉体的・精神的な習慣を永続的に固定化する、一種の自然法則のようなもの)に無意識に支配されるのでなく、意識して肯定的に使うようにすることは、難しいかもしれないが(ヒル博士は100人に2人としている)、成功者とそうでない者を分ける点は、実にここに存するのだと。

ヒル博士が言うように、失敗を成功に変えるという、「賢者の石」は存在しない。
「自分の頭の中を支配している思考は、その思考の性質に従って少しずつ組み合わされ、自分の欲しいもの、あるいは本当は欲しくないものに姿を変えていく。成功や失敗とは、そういう日々の小さな変化が積み重なった結果なのだ。」

この本を読みながら、自分の過去の成功も失敗も、何に起因していたのか、今にしてその源をたどることができたことも多い。
この本にもっと早く出会えていたら、と思うと、なんだかとても悔しい気もする一冊である。

水無瀬

2014-02-26 23:23:08 | 旅行
出家した後鳥羽院は、鎌倉幕府の御家人伊東祐時が護送して鳥羽殿を出発し、隠岐へと流されることになる。
罪人を送る作法というので、逆輿(さかごし)といって、進行方向とは逆に輿に乗せられ、運ばれていくときの屈辱は想像するに余りある。
その途次、水無瀬(みなせ)離宮の近くを通り過ぎたとき、後鳥羽院はせめてここにいられたら、と思ったというが、所詮は叶わぬ望みであった。

この水無瀬離宮(水無瀬殿)は、後鳥羽院の近臣・源通親(みちちか)がその別荘を献上して、院の離宮となったものであり、後鳥羽院とその時代を象徴する聖地となり、当時の史料にその名が頻出する。それゆえ、一度行っておかなければと思っていたが、今回ようやく果たせた。


水無瀬は、桂川・宇治川・木津川が合流して淀川となる辺りの西岸側に位置し、西海道・南海道の起点となる水陸交通の要衝である。
上の写真は、水無瀬よりやや上流の山崎の辺りから撮ったが(中央は桂川・右手に天王山(270m))、豊かな山河に恵まれた景勝地であり、後鳥羽院が愛したのももっともと思われる。『増鏡』に、
水無瀬といふ所に、えもいはずおもしろき院づくりして、しばしば通ひおはしましつつ、春秋の花紅葉につけても、御心ゆくかぎり世をひびかして、遊びをのみぞし給ふ。所がらも、はるばると川にのぞめる眺望、いとおもしろくなむ。
云々とあり、後鳥羽院は建仁元年(1201)以降、しばしば水無瀬殿で歌会や遊宴などを催している。


水無瀬離宮の北側を流れる水無瀬川。名前の通り、もともと水量の少ない川だったのだろうが、後鳥羽院は、
見わたせば山もとかすむ水無瀬川夕べは秋と何思ひけむ
                            (新古今集・春上・36)
という歌を詠んでいる。
現在では開発が進んでしまっているものの、やはり水無瀬の里の春の夕景色は、きっと趣深かったのだろうな、と往時を偲んだ。


水無瀬神宮は、かつての離宮跡地と推定されている所にある。後鳥羽院は隠岐で亡くなる直前に、この離宮を管理していた水無瀬信成・親成父子に遺言書(国宝「御手印御置文」。2013/5/21の記事参照)を下し、後生を弔うよう言い置いた。
彼らは、後鳥羽院が鳥羽殿で出家する前に、絵師・歌人の藤原信実に描かせた似絵(にせえ=肖像画)を拝領し、御影(みえい)堂を建てて院の菩提を弔った。
御影堂は以後も朝廷や武家の尊崇を受けて慰霊行事が行われてきたが、明治六年(1873)神社となり、昭和十四年(1939)、後鳥羽天皇700年式年の年に水無瀬神宮と称するようになり、今日に至る。後鳥羽院と共に、その第一皇子で土佐配流となった土御門院、第三皇子で佐渡配流となった順徳院も祀られており、いずれも還京の叶わなかった三上皇のご無念を思い、その魂の慰安を心から祈った。

鳥羽

2014-02-25 22:36:00 | 旅行
伏見稲荷にお詣りした後は、昔、鳥羽離宮のあった辺りへ。
鳥羽は鴨川と桂川の合流点に近く、鳥羽の津(=港)が置かれ、古来、西国の人や物資が都に入る交通の要衝となっていた。
白河上皇が鳥羽離宮(鳥羽殿)を造営して以降は、院政の重要な拠点となり、院の御所や院庁諸機関、近臣の邸宅、寺院などが次々に建てられ、まるで遷都したようだといわれるほどの賑わいを見せる。
鳥羽殿の規模は「百余町」(東西約1.7㎞、南北約1.1㎞)に及ぶ大規模なもので、大きな池を掘り島や築山(秋の山)を築き、四季折々の景観も趣深い離宮であり、地上に極楽浄土を移したものと称えられた。


その鳥羽殿の鎮守社であった城南宮は、今も方除(ほうよけ)の大社として知られる。往時を偲びつつ、御本殿に祈りを捧げてきた。

この鳥羽殿は、後鳥羽院にとって、生涯忘れがたい悲痛事のあった場所である。
承久三年(1221)六月、京都に進撃してきた、十九万ともいわれる鎌倉幕府の大軍の前に、院がたはむなしく破れた。七月六日、後鳥羽院(当時42歳)は京中の院御所から洛南の鳥羽殿に移送され、十日、北条時氏から隠岐への流罪を告げられる。
後鳥羽院は、わが皇子で仁和寺門跡の道助法親王を戒師として出家、その有様を見た者は、武士までも皆、涙を流したという。


城南宮は、社殿の周囲を神苑(楽水圓)と呼ばれる庭園が取り囲んでおり、そちらも拝観してきた(有料)。
城南離宮の庭は、鳥羽殿の風景を建物と石組で表した枯山水の庭園である。



神苑にはまた、「源氏物語花の庭」といって、『源氏物語』に登場する植物100余種が植栽されている。
今は、「しだれ梅と椿まつり」の期間中(3/21まで)だが、梅の盛りにはまだ早かった。


何心もなく咲いている梅の花を見ていると、昔の人もやはりこのようにして、早春の梅の花を愛でていたのだろうか、とつい感慨にふけってしまう。

安楽の浄土をうつす鳥羽の宮の跡ににほへる白梅の花


伏見稲荷

2014-02-24 23:37:29 | 旅行
昨日は、後鳥羽院の足跡をたどる一日旅で京都へ。
今回は洛南エリアが中心だが、その前にまず伏見稲荷大社へお詣り。


門前町を歩いていると、お食事処にやたらと「月見うどん」や「うずらの丸焼き」というお品書きが目に着くが、そういえば、ここ深草のあたりは月と鶉の名所だった。
前者はともかく、うずらの丸焼きはおよそ食欲が湧かない。
私は、深草と聞くと、『伊勢物語』百二十三段を踏まえた藤原俊成の名歌、
  夕されば野辺の秋風身にしみてうづら泣くなり深草の里
                      (千載集・秋上・259)
によって、秋の夕暮に鶉が鳴く物悲しいイメージが、どうしても思い浮かべられてしまう。焼き鳥にするなんて、とんでもない。
もっとも、蜀山人の狂歌に、
  一つとり二つとりては焼いて食ふうづら無くなる深草の里
という俊成の歌のパロディもあったな…。


さて、伏見稲荷大社は和銅四年(711)の創建と伝えられ、全国3万余の稲荷社の総本社。稲荷山の麓の楼門や拝殿、本殿も立派だが、やはり、背後のお山を登り奥の院へと向かう鳥居の参道、通称「千本鳥居」を通らないことには、参詣したことにならないだろう。


実際には一体何本あるのか、林立する鳥居を次々にくぐりながら山中深くに進んで行くと、まるで異界に誘われるような気がする。また、谺ヶ池(こだまがいけ)のほとりにある熊鷹社には、たくさんの和ろうそくが供えられ、
「ホラー映画みたい…」
と感想をもらす参拝客がいた。


上社(一の峰)が山頂になるが、帰りはもと来た道ではなく、裏山の方から竹林の道を抜けて麓まで下りてきた。
冬でも変わらない緑が、目にも鮮やかだ。
先日、大雪が降ったときには、どれだけ雪に映えて美しかったろう。
このブログのタイトルは、
  夢かよふ道さへたえぬくれ竹の伏見の里の雪の下折れ
                (新古今集・冬・673・藤原有家)
という歌から頂いているのだが、この歌は「伏見の里の雪」という題で詠まれている。
「くれ竹の」は、竹の「節」と同音の縁で「伏見」にかかる枕詞であるが、伏見の里に多い竹林をも想起させる。
伏見の里で夜に臥して夢を見ていると、降り積もる雪の重みで竹が折られ、道を塞いで人の通う道が絶えるだけでなく、雪の下折れの音で目が覚めてしまい、夢の通い路も途絶えてしまった…。

京都を歩いていると、自然に文学散歩になっているのが楽しい。

マイヤーリング(その2)

2014-02-22 22:09:26 | 映画
内容紹介の続き
ルドルフはマリーと新しい生活を始めようとして、現在の妃との離婚を求める書状をローマ教皇に出し、マリーに結婚指輪を贈る。その指輪には、“JILUD”の頭文字が刻まれていた。
「どんな意味?」
とマリーが聞くと、
「Joined In Love Unto Death.(死ぬまで愛に結ばれよう)」
「すばらしいわ、ありがとう。あなたに指輪をはめてもらわなければ。私たちが願いをかけることができるように。」
「君は何を願ったの?」
「あなたの前に死ぬこと。」


しかし後日、ローマ教皇から離婚の申し立てを却下する旨の通知が届き、ルドルフは父帝から叱責される。
「永遠に別れろ。私は40年、国家に尽くしてきた。」
「父上は、私からすべて取り上げてきた。夢に希望に友人…。」
「別れるか、彼女を修道院に入れるかだ。他に道はない。」
「…せめてもう一度、彼女と会わせてください。」
「今夜の舞踏会が最後だ。24時間。どこで会おうと勝手だが、24時間だけだぞ。」


舞踏会で、ルドルフはその日のファーストダンスをマリーと踊る。
「今まで、あなたなしでどう生きてきたのかしら。」
「…マリー、聞いてほしい。もし私が急に消えたら?」
「一緒に行くわ。」
「はるか遠くでも?」
「一緒なら。」
ルドルフは、私的な用と偽ってウィーンを離れ、マリーを伴ってマイヤーリングの別荘に向かうが…。

感想
私は悲劇は好きではないので、二人がピストルでの心中に至る結末をつらい思いで見た。
物語の中に伏線が幾つも設けられていて、先に挙げた結婚指輪の頭文字もその一つ。
また、二人が初めて出会ったプラーター公園で、一緒に人形劇を見る場面があるが、その中で悪魔が、
「幸せな者ほど早く燃え尽きる。」
と言っていた言葉が、後になって悲しく響く。


この映画は、失敗の許されない生のテレビ放送であったため、事前に3週間にもわたって綿密なリハーサルが行われ、限られたCM時間内に大勢の俳優や大がかりなセットを移動してのシーン替えは、キャストもスタッフも総動員で行われたそうだ。
ストーリーは単純で、映像の粒子も荒く、同じ全編白黒の映画とはいっても、『ローマの休日』や『麗しのサブリナ』のような完成度の作品ではない。
しかし、テレビ映画としては当時破格の50万ドルを費やして製作され、ただ一度きりの機会に俳優たちが迫真の演技で臨んでいたこと、劇場上映は不可能であると思われるほど画質が悪かったオリジナル・マスターから、関係者が改善に改善を重ねて復元版を制作したことを知ると、また見方も変わってくるはず。何よりも、銀幕の妖精と呼ばれたオードリーの魅力は永遠だと改めて感じさせてくれるこの作品を見に行くことができてよかったと思う。