夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

短歌の効用

2012-08-31 08:22:35 | 日記
尼ヶ崎彬さんの「簡潔と詠嘆」を読んでいて、最近、自分が和歌(短歌)や詩について感じることと通じ合うことが書いてあって、我が意を得たり、と思った。

尼ヶ崎さんは、「短歌は自分の生きている状況をひとつの型に凝固させるための呪文である」と言い、また次のような内容のことを述べている。

人が一摑(つか)みにできる観念の量は、おそらく八から十くらいで、短歌は、現実の複雑な事情の全体でなく、その一瞬の切断面を捉えるのに、ちょうどよい量なのだ。我々は短歌によって、季節を生きていく喜びや他者への思い(恋や哀悼)や自分の人生への呻(うめ)きなどに形を与え、自分が今生きている意味を図式として他者と共有し、確認することができる。

「日本人が自分の生きている姿を型として捉え、その意味を繰り返し実感したいと思う限り、短歌は滅びない」というのは、きっと名言だと思う。

思えば、和歌というのは、日本の無文字時代からおそらく口承の歌謡があり、古代に定型が定まって、以後綿々と詠み継がれ、近代短歌を経て現在に至る、民族の歴史と共に長い生命力を持つ不思議な文芸である。

私も大学生の頃からその魅力にとりつかれ、平安・鎌倉期の和歌の一部を細々と研究したりしているが、それは、一首一首の和歌を通して、その時代の日本人がどのように生き、何を感じていたのかを知りたいからだと思う。

また、短歌に限らず、文学や芸術が盛んで平和な世の中が私の理想なので、わが国の文芸の象徴としての短歌は、絶えることなく続いてほしいと思う。


  神代(かみよ)より伝へ来(き)ぬればすゑのちも久しくあらなむ敷島(しきしま)の道


朝顔の花

2012-08-30 12:21:57 | 日記
昨日は、夏風邪でダウンして、1日寝込んでしまった。外にも出られなかったのだが、玄米を炊いて(小豆入り)冷凍しておいたのがあったので、お粥にして、あとは生野菜と豆腐という簡単な食事でしのぐことができた。備えあれば憂いなし。

朝になったら回復していたので、いつも通り出勤したら、校内の庭にアサガオが咲いていた。今年初めて目にするので、しばらくじっと眺めてしまった。

昨夜、未明過ぎから雷を伴って強い雨が断続的に降っていたので、花も心なしかしおれ、露を含んで何か訴えたげな風情に見えた。

  朝顔は夜(よ)の間(ま)の雨にうつろひてかこちがほなる花の上の露

飲み会招集!

2012-08-28 18:13:48 | 日記
(この記事は、8月30日に書きました)

朝、いつものように出勤して仕事をしていたら、K先生が私のところにやってきて、
「今夜の話、聞いてる?」
飲み会の話かなあ、とは思ったが、誰からも誘われた記憶がなかったので、
「たぶん、僕は、人数に入ってないと思うよ」
と答えたのだが、
「いや、入ってるから。しかも、オレも聞いたのは昨日の夜の11時だから」
「へ?」
「メールが来て、○○先生(→ちかさだ)にも連絡してください、って書いてあった」
「はあ…」
「お店ももう予約してあるって」
「決定かい…」

という訳で、駅前の「燦々亭」に行ってきた。2千円のコース料理+飲み放題を選んだが、煮物がおいしく(刺身はもう少し…)、値段なりには楽しめたと思う。招集をかけた先生は、今は他校で勤務しているのだが、近況報告やら共通の友人の消息などで盛り上がり、愉快なひとときとなった。

しかし、2次会で行った「岡山の酒ばあ さかばやし」で飲んだお酒がさっぱりおいしく感じられず、「武蔵の里 山廃純米」(田中酒造)なのになぜ?と違和感を感じていたのだが……。翌朝起きて、ひどい熱が出ていることがわかり、夏風邪にかかっていたことがわかったのだった。(8月30日の記事に続く)


「ワン・デイ~23年のラブストーリー」その3

2012-08-27 00:37:58 | 映画
2007年7月15日。デクスターは、エマを失った悲しみからなかなか立ち直れずにいる。自堕落な生活を送っているデクスターに、父親が忠告する。
「エマが生きていると思って生きてみたらどうだ?」
「できないよ」
「できるさ。わしは10年やってきた」

2009年7月15日。デクスターは自分の店(カフェっぽい)を開いているが、そこにイアンが訪ねてくる。イアンは、現在はコメディアンの道はあきらめて保険業に就いており、妻と子供もいる。イアンはデクスターに、自分の今の気持ちを打ち明ける。「エマは君が一緒だと輝いていた。僕じゃダメだった。だから君を憎んでた。でも、彼女が君をまともにした。そのお返しに君が彼女を幸せにした。君には永遠に感謝するよ」。2人はしっかりと抱き合う。

2011年7月15日。デクスターは、ジャスミンを連れてエジンバラに行き、エマと初めて散歩した思い出の丘(アーサーズシートというそうだ)に連れて行く。「誰か親友はいるのか?」「お母さんかな。……お父さんは?」「ジャスミンかな」「お父さんはお父さんだよ」
このあたりの会話は見ていて微笑ましくてよかった。


この映画を見ながら何度も、人の心はわからないと思った。なぜ人は、時として愚かな、自分を不幸にさせる選択をしてしまうのか。

エマが最初にイアンとデートする場面。イアンの選んだ映画は『死霊のはらわた3』。そのあとレストランに行って、メニューを眺めながら、イアンが「上限は14ポンドかな。……いや、何でも好きなものを頼んでくれ」。イアンにコメディアンとしての才能も、生活能力がないことも明白だし、そもそも価値観が根本的に違うのに、求められるままに交際して、同棲して、住んでいる家のローンをエマが払うようになって、それでも少しも愛せない。そんな風になるずっと前に、なぜ「部屋においでよ」という誘いを断らなかったのか。

デクスターも、シルヴィの家族に会う前に、「シルヴィ、愛してる」と何度も口で唱えて練習している。シルヴィの家族とは初対面なのに、以前デクスターが司会をしていたテレビ番組のことで、シルヴィの弟たちからバカにされる。その後、家族水入らずで楽しんでいるゲームが、目隠しをして棒で殴り合うというもの。デクスターのような生い立ちの人間からすれば、家風が違いすぎて合わないということが、どうして自分でわからないのか。

もちろん、答えはなんとなくわかる。エマは、一番愛しているデクスターに、彼の何人も入れ替わる恋人のように扱われ、冷たく捨てられることが恐くて、自分をずっと好きでいてくれそうな無難な男を選ぼうとしたのだと思う。また、彼女は男性からの(男性への)愛情だけで満足できるような女性ではなく、作家になるという自分の夢を実現するまでは、自分に自信が持てなかったのだと思う。

また、デクスターは、生まれ、容姿、能力など、いろいろなことに恵まれすぎていて、全てを失い、誰からも相手にされなくなるまで、本当に大切なものは何かが分からなかったのだと思う。

だから、結局この2人は、40歳にもなったこのタイミングでしか結ばれることはなかったんだな、ということが、この映画を振り返っていくうちに分かってきた。

この映画は23年間の「7月15日」に視点を置いて、2人の男女のすれ違いと成長を描いていく点は目新しいけれど、基本的には年次順に話が進行していくので、どうしても途中から単調な印象を受けるし、派手で華やかな展開や演出というのもない。しかし、細部までしっかり話が作り込まれていて、一つ一つの場面やセリフにも無駄がなく、描かれた「7月15日」以外も自然に想像させるような描き方がされており、大人の鑑賞に堪える作品だと感じた。主演の2人をはじめ、俳優の演技もよく(特にデクスターの両親)、背景に流れている音楽もアラフォー世代には、その時代を代表する曲ばかりで、懐かしさを誘う。結局、この映画を一番楽しめるのは、この世代なのかもしれない。

ファッション、音楽、インテリア、情報通信機器…などの20年間の変化に目を向けてみるだけでも面白い。特に、40代前後の人にとっては、自分の生きてきた軌跡をなぞり返すような感覚を味わう経験になると思う。






「ワン・デイ~23年のラブストーリー」その2

2012-08-26 11:07:55 | 映画
1996年7月15日。エマはイアンと同棲中だが、今夜久しぶりにデクスターと再会し、夕食を共にすることになっている。イアンも誘うが、今夜はお笑いライブに出演する(ギャラはゼロ)のでダメだと断られる。
久しぶりのデートなのに、デクスターは酒ばかり飲み、すぐに席を立ったりして落ち着かない。また、「恋愛は順調?」「仕事は?」「小説はどうなってる?」と質問するだけで、真剣に話を聞く気もない。その上に、教師としての忙しさにかまけて、作家になる夢を実現できていないことを、「できる者はやる。できない者は教師になる」と説教されて、エマは逆上する。エマは、本当は、愛せない男と暮らしているつらさを聞いてもらいたがっていた。「別れましょう、昔のあなたじゃないわ。心から愛してる、でも、もう好きじゃないの」。2人はケンカ別れしてしまう。

1997年7月15日。この年は、プールで泳ぐエマの姿のみ。

1998年7月15日。デクスターは32歳という年齢が番組の方向性と合わなくなっていることを理由に、テレビ番組をクビになり、プロデューサーに「夢は終わったんだ」と言われてしまう。

1999年7月15日。デクスターは、元モデルのシルヴィと交際しており、相手の家族と会うところまで話が進んでいる。一方、エマの方は、同棲相手のイアンが、酒浸りになっている。そして、エマが大学生の頃からデクスターへの想いを綴った詩や物語のノートを盗み見し、まだ「親友」のことが忘れられないのかとエマを責める。

2000年7月15日。大学時代の友人・ティリーの結婚式にエマが出席すると、デクスターもシルヴィを連れて来ていた。デクスターは、大学時代の親友・カラムから、「テレビで見かけなくなったな。再出発しろ」と、自分の経営するレストランで働くことを勧められる。
式の2次会で座が乱れたころ、デクスターがエマを連れ出し、2人で話をする。エマが、「初めて本の原稿料がもらえたの」と喜びの報告をすると、デクスターは、「僕も打ち明けたいことが…。」と言って、結婚式の招待状を渡す。シルヴィとはデキ婚で、デクスターはやがて父親になるという。エマは、「おめでとう。いい父親になるわ」と祝福するが、寂しさも同時に感じている。

2001年7月15日。エマは、また新しい本を書いた。デクスターは今、大学の友人だったカラムの経営するレストランで働いている。ある日、妻のシルヴィが、娘のジャスミンをデクスターに預け、友人の結婚式の前夜祭と言ってお泊まりで出かける。しかし、シルヴィは実はカラムと浮気していた。

2003年7月15日。エマは人気作家になっており、パリで活動している。シルヴィと離婚したデクスターが、ロンドンからエマに会いに来る。実は、2人は、デクスターが離婚したばかりで荒れていたころ、1度だけ関係を持ったことがここでの2人の会話からわかる。
しかし、エマのアパートに行く前に、デクスターはエマから、「今は新しい恋人がいる」とクギをさされる。今彼はジャン・ピエールというジャズピアニストで、エマは彼のいる店にデクスターを連れて行き、紹介しようとする。
しかし、デクスターは彼を遠目で一目見るなり、「もっとマシな男をつかまえろよ」と言い、「会わないでおく。明日の朝イチでロンドンに帰るよ」と、その場を立ち去ってしまう。

しかし、セーヌ川のほとりをデクスターが歩いていると、後からエマが「待って!」と追いかけてくる。そして、「あなたのことが吹っ切れない。冷たくしないで。裏切って悲しませたら殺すわよ」と、初めて心からデクスターを求める。デクスターは、「誓うよ」と答える。

2004年7月15日。デクスターは、結婚式のスピーチの練習をしている。エマの机の上には、長年愛用のタイプライターの脇に、新しくノートパソコンが置いてある。

2005年7月15日。エマとデクスターが部屋でイチャイチャしているところに、シルヴィがジャスミンを連れてくる。離婚後はシルヴィがジャスミンを引き取り、時々父親のデクスターに会わせている様子。シルヴィはこれから実家に、今のパートナーのカラムと行くところだという。彼らが行った後で、エマはデクスターにお願いする。「デックス、考えてたの。私、子供が欲しいわ。愛する人の子供が」。

2006年7月15日。エマにはなかなか子供が授からず、そのことでデクスターに当たってしまうこともあるが、それ以外は幸福な生活を送っていた。
デクスターの仕事が終わってから、映画と夕食に行く約束をしたその日、エマが執筆の後で水泳のエクササイズに行き、そのまま自転車で町まで行こうとしていた途中、エマはトラックに轢かれて亡くなってしまう。デクスターの携帯電話に、「遅れるけどすぐ行くわ。朝は当たり散らしてごめんね。」などとメッセージを残したのが最後の言葉になった。