正治二年(1200)八月 藤原定家三十九歳。
記事の内容
定家は前日、慌てて百首を完成させた後、主筋に当たる九条兼実・良経父子に閲覧を乞うていたが、この日改めて二人に見てもらっている。兼実からは三首ほどよくない歌があるというのでそれを直し、お目にかけたところ、よろしかろうと許可をいただいた。最後に良経にも相談してから、おそらく清書し、秉燭(へいしょく=夕方)頃になってようやく後鳥羽院の御所に持参して、提出している。この日、百首を提出した人として、定家は、藤原隆房、慈円など十人の名を挙げている。
感想
定家が、後鳥羽院に百首歌を提出する前に、父の俊成や、定家の庇護者たる兼実・良経の閲覧を繰り返し受けているのは、当時の定家が歌壇的にほぼ孤立していた状況によるものと見られる。
藤平春男氏がいわれるように(『新古今歌風の形成』)、兼実の支配する九条家内で、良経が主催する文芸サークルの中でも、定家は最も前衛的な歌風で、父の俊成でさえ、定家の前衛ぶりにある程度批判的だったとみられるくらいなのである。まして、歌界全般では顕昭・季経・経家らの六条家派歌人の方が優勢だったのであり、定家への風あたりは相当強かったであろうと思われる。「正治初度百首」の際の定家詠が献進前に俊成・兼実・良経の閲覧を経ているのも、藤平氏のいわれるように、「そういう歌界の空気に対する御子左派側の自己防衛」を示すものであり、「御子左派乃至良経サークル以外へのもっと公的な場への定家の出詠は、慎重な構えで行われて」いたことを実感する。
二十五日 天晴る。又歌を殿(九条兼実)の御前に持参し、撰び定めて之を書き連ぬ。午(うま)の時許(ばか)りに退下す。猶三首許り甘心せざるの由仰せらる。案ずと雖(いへど)も出来せず。又一二首許り之を書き、女房に付け御覧を経(ふ)。宜しき由仰せ有り。又大臣殿(九条良経)に申し合はせ了(おは)りて書き連ぬ。秉燭以後院に持参し、右中弁(藤原長房)に付けて進め入れ了んぬ。隆房卿同じく参入し之を進むと云々。当時進むる人、白河僧正(慈円)・権大納言(忠良)・両三位〔経家、季経〕、隆信朝臣、生蓮〔師光〕、寂蓮、入道左府(実房)、入道殿(俊成)。已上二人は今朝と云々。尚書(長房)御前に参る後退出す。大炊殿(式子内親王御所)に参り、夜半許りに退出す。
記事の内容
定家は前日、慌てて百首を完成させた後、主筋に当たる九条兼実・良経父子に閲覧を乞うていたが、この日改めて二人に見てもらっている。兼実からは三首ほどよくない歌があるというのでそれを直し、お目にかけたところ、よろしかろうと許可をいただいた。最後に良経にも相談してから、おそらく清書し、秉燭(へいしょく=夕方)頃になってようやく後鳥羽院の御所に持参して、提出している。この日、百首を提出した人として、定家は、藤原隆房、慈円など十人の名を挙げている。
感想
定家が、後鳥羽院に百首歌を提出する前に、父の俊成や、定家の庇護者たる兼実・良経の閲覧を繰り返し受けているのは、当時の定家が歌壇的にほぼ孤立していた状況によるものと見られる。
藤平春男氏がいわれるように(『新古今歌風の形成』)、兼実の支配する九条家内で、良経が主催する文芸サークルの中でも、定家は最も前衛的な歌風で、父の俊成でさえ、定家の前衛ぶりにある程度批判的だったとみられるくらいなのである。まして、歌界全般では顕昭・季経・経家らの六条家派歌人の方が優勢だったのであり、定家への風あたりは相当強かったであろうと思われる。「正治初度百首」の際の定家詠が献進前に俊成・兼実・良経の閲覧を経ているのも、藤平氏のいわれるように、「そういう歌界の空気に対する御子左派側の自己防衛」を示すものであり、「御子左派乃至良経サークル以外へのもっと公的な場への定家の出詠は、慎重な構えで行われて」いたことを実感する。