夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

『明月記』を読む(13)

2013-09-05 23:10:08 | 『明月記』を読む
正治二年(1200)八月 藤原定家三十九歳。
二十五日 天晴る。又歌を殿(九条兼実)の御前に持参し、撰び定めて之を書き連ぬ。午(うま)の時許(ばか)りに退下す。猶三首許り甘心せざるの由仰せらる。案ずと雖(いへど)も出来せず。又一二首許り之を書き、女房に付け御覧を経(ふ)。宜しき由仰せ有り。又大臣殿(九条良経)に申し合はせ了(おは)りて書き連ぬ。秉燭以後院に持参し、右中弁(藤原長房)に付けて進め入れ了んぬ。隆房卿同じく参入し之を進むと云々。当時進むる人、白河僧正(慈円)・権大納言(忠良)・両三位〔経家、季経〕、隆信朝臣、生蓮〔師光〕、寂蓮、入道左府(実房)、入道殿(俊成)。已上二人は今朝と云々。尚書(長房)御前に参る後退出す。大炊殿(式子内親王御所)に参り、夜半許りに退出す。

記事の内容
定家は前日、慌てて百首を完成させた後、主筋に当たる九条兼実・良経父子に閲覧を乞うていたが、この日改めて二人に見てもらっている。兼実からは三首ほどよくない歌があるというのでそれを直し、お目にかけたところ、よろしかろうと許可をいただいた。最後に良経にも相談してから、おそらく清書し、秉燭(へいしょく=夕方)頃になってようやく後鳥羽院の御所に持参して、提出している。この日、百首を提出した人として、定家は、藤原隆房、慈円など十人の名を挙げている。

感想
定家が、後鳥羽院に百首歌を提出する前に、父の俊成や、定家の庇護者たる兼実・良経の閲覧を繰り返し受けているのは、当時の定家が歌壇的にほぼ孤立していた状況によるものと見られる。
藤平春男氏がいわれるように(『新古今歌風の形成』)、兼実の支配する九条家内で、良経が主催する文芸サークルの中でも、定家は最も前衛的な歌風で、父の俊成でさえ、定家の前衛ぶりにある程度批判的だったとみられるくらいなのである。まして、歌界全般では顕昭・季経・経家らの六条家派歌人の方が優勢だったのであり、定家への風あたりは相当強かったであろうと思われる。「正治初度百首」の際の定家詠が献進前に俊成・兼実・良経の閲覧を経ているのも、藤平氏のいわれるように、「そういう歌界の空気に対する御子左派側の自己防衛」を示すものであり、「御子左派乃至良経サークル以外へのもっと公的な場への定家の出詠は、慎重な構えで行われて」いたことを実感する。

『明月記』を読む(12)

2013-08-26 21:53:00 | 『明月記』を読む
正治二年(1200)八月 藤原定家三十九歳。
二十四日 天晴る。和歌周章して構へ出だし、僅かに之を書き連ぬ。未(ひつじ)の時許(ばか)り法性寺殿(兼実)に参り、歌一巻を御覧ぜしむ。(中略)夜景に及ぶに依り退出す。殿下(良経)の御前に参れば、歌を御覧ず。又讃岐の百首を給はり之を見る。

記事の内容
前日に後鳥羽上皇側近の藤原長房から、「明日までに百首を提出するように」と突然の催促を受けた定家は、この日の午前中に不足していた二十首ほどを慌てて詠み上げ、ようやくのことで百首をいったん完成させている。
未の時(午後二時頃)に主筋に当たる九条兼実を訪ねて、百首をお目にかけ、さらに夜に入ってその子息の良経のもとにも参り、見てもらっている。定家としては、この百首が後鳥羽上皇の好尚に適い、歌人として認められるかどうかに、今後の自分の宮廷社会での浮沈がかかっていることを見定め、推敲に推敲を重ねて提出することにしたものであろう。

感想
記事の中に出てくる讃岐(さぬき)とは、平安末期から鎌倉初期にかけての女流歌人である。『百人一首』では「二条院讃岐」として、
  わが袖は潮干(しほひ)に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし
の歌を採られている(『千載集』恋二・七五九の歌)。


(『百人一首』 (別冊太陽 日本のこころ 1)から転載)
生年は不明だが、永治元年(1141)頃と推定されており、それによれば、当年五十九歳頃ということになる。(讃岐はこの『正治初度百首』の中で、「暮れはつる年のつもりをかぞふればむそぢの春もちかづきにけり」という歌を詠んでいる。実際、六十に間近い年齢だったのであろう。)

讃岐の父は源頼政(よりまさ)で、武人でもあり歌人でもあった父から、その歌才を受け継いだものと思われる。
讃岐は二条天皇の女房として出仕し、歌壇で活躍して、早くから歌人として著名な存在であった。
なお、定家が良経のもとで讃岐の百首を見せられているのは、讃岐が以前、後鳥羽天皇の中宮・任子(兼実女(むすめ)で良経妹)に仕えており、九条家関連の和歌活動にも参加していたことによるのだろう。

讃岐がこの時、『正治初度百首』で詠んだ歌からは、後に六首も『新古今和歌集』に採られた(讃岐の同集入集歌は十六首)。
おおむね平明で優美な歌を詠んでいるが、中には、
  山たかみ峰の嵐に散る花の月にあまぎる明け方の空(春下・一三〇)
のように、当時の新風和歌の流行に棹さした表現の歌もあり、老齢になっても柔軟な感性を持ち、歌作に励んでいたことがうかがわれる。

『明月記』を読む(11)

2013-07-22 21:37:59 | 『明月記』を読む
正治二年(1200)八月 藤原定家三十九歳。

二十日 天陰り晴る。法性寺殿(兼実)に参る。見参し漏を移して退出す。和歌の事等を仰せらる。御気力尋常に異ならず。尤(もっと)も悦びと為す。

二十三日 天晴る。右中弁(長房)奉書して曰はく、百首明日進むべしと。卒爾にして周章す。未(ひつじ)の時許り入道殿(俊成)に参る。愚詠二十首許り足らざるに、詠み出だす所御覧を経たり。仰せて云ふ、皆其の難無し。早く案出して進むべしてへり。又御歌を見、所存を申して退出す。

記事の内容
定家は八月二十日には、主筋に当たる九条兼実のもとに参り、長い時間、相談などをして退出している。「和歌の事等」とあるのは、いうまでもなく『正治初度百首』をさしているのだろう。
二十三日には、後鳥羽上皇側近の藤原長房が上皇の意向を受けて、百首歌を明日までに詠進するようにとの書状を届けてきた。
定家は突然の催促に慌てて、未(午後二時)頃に父・俊成のもとに相談に参上している。この時の定家は、百首歌の完成まで二十首ほど不足しており、とりあえず詠み上げたところだけを俊成に見てもらったらしい。俊成からは、「これといった難点はないから、早く残りを詠み、歌数を揃えて提出するように。」ということであった。定家はまた、俊成の百首歌を見せてもらい、それに対する自分の意見を述べて帰った、とある。

感想

(「九条兼実像」『天子摂関御影(宮内庁三の丸尚蔵館所蔵)』画像はウィキメディア・コモンズから転載)
二十日の記事に出てくる九条兼実は、関白忠通の子として平安時代末期の久安五年(1149)に生まれ、鎌倉時代初めの承元元年(1207)、59歳で没した。『愚管抄』の作者として有名な慈円(じえん)は弟。
摂政、関白となり、一時期朝廷の政権を掌握したが、建久七年(1196)、政敵・源通親によって失脚させられ、政界を追われた。
建久九年、後鳥羽天皇が譲位し上皇となると、兼実の次男・良経が正治元年(1199)に左大臣となるなど、九条家の朝廷での地位回復が進む。しかし、兼実自身は政界に復帰することなく、建仁二年(1202)出家する。
兼実は若年より和歌にも関心が深く、自ら歌作を行うとともに、しばしば歌会・歌合を催した。兼実は初め、六条家の清輔を歌道の師としていたが、その死後は俊成を師に迎える。文治年間(1185~1190)頃から、兼実は次男の良経を後見し、九条家歌壇の活動が活発になり、俊成や定家らの新風歌人の庇護者的存在であった。

この日定家は、兼実から『正治初度百首』のことで励まされるようなことがあったのだろうか。定家は、兼実が体調不良だったのが回復したことを記し、非常に喜んでいる。

『明月記』を読む(10)

2013-06-05 23:13:22 | 『明月記』を読む
正治二年(1200)八月 藤原定家三十九歳。
十三日 天晴る。未(ひつじ)の後雨注ぐがごとし。夜に入り雨止む。未の時北野に参詣す。自らの歌一巻箱に入れ祝部(はふりべ)の僧に預け、奉納すべきの由語り付け了(おは)んぬ。先日参詣し、心中の祈願已(すで)に以て満足す。仍(よつ)て重ねて詠進する所なり。雨を凌いで昇降し退出す。大炊殿に参り、夜に入り廬に帰る。

記事の内容
この日、定家は未の時(午後二時頃)北野社に詣で、自ら詠んだ和歌一巻を、神社の職員にことづけ奉納している。

定家は去る八月一日、北野社に参詣したときに「別して祈請申す事有れば」と、特別に神に誓いを立てて、その加護を祈っていた。
それはやはり、『正治初度百首』の歌人に選ばれ、出詠することを祈っていたことがわかる。心中で祈願していたことが叶い、「満足」と記す定家は得意げである。


(「北野天神縁起絵巻」鎌倉時代 十三世紀 京都・北野天満宮所蔵 「国宝大神社展」図録による)

感想
前回触れていた「正治二年和字奏状」についての補足。
これは定家の父・俊成が後鳥羽院にたてまつった長文の書状で、『正治初度百首』の歌人に定家らを加えるべきことを主張したものである。

俊成はまず、後鳥羽院が我が国の伝統芸能である和歌に心を寄せ、百首歌の詠進を歌人たちに命じたことを、歌道の復興ととらえ、「かぎりなくめでた」いと称賛している。
ただし、今回の百首の人選に年齢制限があり、「老いたる者」(四十歳以上)からしか選ばれないのは不審であると、『堀河百首』や『久安百首』(いずれも三十代の優秀な歌人が参加)といった先例を挙げて、俊成は主張する。
息子の定家は年齢も四十に近い上、歌道においては自分の後継者として、歌合の判者や勅撰集の撰者もつとめうる力量ある歌人であるのに、今回の『初度百首』の人選に漏れたのは、思いがけない「憂へ嘆き」である。
最近の「歌詠み」と称する者たち(六条家の季経・経家などをさすと思われる)はみな中途半端で、見るにたえない歌ばかり詠んでいる。一方で定家は、古歌の模倣にとどまらない、興趣ある新風を開拓しようと努めているのに、彼らはそれを理解できず、かえって定家を誹謗中傷する始末。
そもそも六条家の歌人は、『詞花集』の顕輔(季経の祖父)、『続詞花集』の清輔(季経の父)など撰集に不備が目立ち、当時から悪評も多かった。重代の歌人であるからといって、季経を重用することは、歌道のためには問題である。

俊成はこのように述べ、『初度百首』の作者には定家、家、隆房らを人数に加えるべきだと主張する。特に、
定家はかならず召し入れらるべき事に候(さうら)ふか。彼はよろしき歌、定めてつかまつり出で候ひなん。御百首のため大切のこととなん。これらはさらに子を思ひ候ひても申さず候ふ。世のため君(後鳥羽院)の御ため吉事候ふべきことを申し候ふ。
とあるのは、俊成の強い意志を感じる。「憚り多く」、「恐れ多き事」と言いながら、歌道のため後鳥羽院の御ためになることだから道理を申し述べさせていただいたのだ、と述べる俊成の意見には、誰もが耳を傾けずにはおかない迫力がある。

村尾誠一氏が述べられているように(『中世和歌史論』)、俊成がここまで強い調子で子の定家を推挙しているのは、この『初度百首』の企画が、後に必ずや後鳥羽院による勅撰和歌集の下命に結びつくにちがいない、という事態を見据えているのだろう。この百首にとどまらず、後鳥羽院の和歌活動が今後盛んになると予想されるのであれば、定家がこの百首に参加できるかどうかは、近い将来、定家が自分に代わって歌壇の指導者となり、勅撰集撰者となれるかにも関わってくる。俊成は八十七歳という自分の年齢(当時としては相当の高齢)を考え、歌道家としての浮沈をかけて、後鳥羽院への直訴に及んだのだろう。

「正治二年和字奏状」の最後は、
  和歌の浦の蘆辺(あしべ)をさして鳴く鶴(たづ)もなどか雲井(くもゐ)にかへらざるべき
という歌で結ばれている。この歌は、『万葉集』山部赤人の、
  若の浦に潮満ち来れば潟を無(な)み蘆辺をさして鶴(たづ)鳴き渡る(巻六・九一九)
を踏まえている。俊成は、『初度百首』の人数に漏れた定家を、鳴いて迷っている鶴にたとえ、「雲井」(宮中)での和歌の催しにどうか加えていただけないものか、と愁訴している。

情理を尽くした俊成の書状に後鳥羽院は心を動かされ、『初度百首』の年齢・人数制限を解き、定家らを加えることを決断し、即座に実行した。「正治二年和字奏状」は長文で、原稿用紙に直すと約七枚半にも及ぶ。今回読み直して、老俊成が渾身の力をこめて認めた書状であることを改めて感じ、俊成の誠意・熱意が後鳥羽院を動かし、御子左家の置かれた困難な状況を打開して、後の家運の興隆につながったことを思った。

『明月記』を読む(9)

2013-05-14 22:40:05 | 『明月記』を読む
正治二年(1200)八月 藤原定家三十九歳。

十日 雨猶(なほ)注ぐがごとし。終日蟄居す。夜に入り北方に火有り。塩小路万里小路と云々。即ち滅し了(おは)んぬ。家隆、隆房卿又題を給はると云々。是皆入道(俊成)殿の申さしめ給ふ旨なり。五六度頭中将(通具)に付け内府(通親)に達するも、人数定められ、加へ難きの由之に答ふ。仍て仮名状を進めらる。出御の間に、使ひ書を持ち参入の間、上北面を以て直ちに召し取りて御覧あり。即ち三人を加へらる。親疎を論ぜず道理を申さると云々。

記事の内容

八月は、五日からほぼ毎日雨が降り続いている。
この日定家は終日、家の中にとじこもって外へ出なかった、とある。
前日、定家が『正治初度百首』の作者に加えられたのに続き、藤原家隆(いえたか)と藤原隆房(たかふさ)の二人も、百首の題を賜ったという知らせがもたらされた。定家の父・俊成は、定家だけでなくこの二人も歌人に加えられるよう、後鳥羽院に申し入れていたのである。

初め俊成は、『初度百首』の企画が内大臣・源通親と六条家主導で進んでいたことから、通親の二男で頭中将の通具(みちとも。俊成の孫娘の夫)を通じて、五、六度も働きかけたが、出詠できる人数が決まっているから加えることは難しいとはねつけられていた。

この人数制限については、山崎桂子氏の『正治百首の研究』(勉誠出版)に考察があって、『堀河百首』(長治二、三年(1105、6)頃成立。歌人十四人の百首を堀河天皇に奏覧)の先例に倣って、十四人であったのだろうと推測されている。貴族社会では、先例を楯にとられると事態を動かしにくい。そこで俊成は、長文の仮名書きの書状を執筆し、院側の女房に宛てる形で、後鳥羽院にたてまつったのである。

後鳥羽院が外出なさるときに、使いが書状を持って参ったところ、院は上北面でただちに御覧になり、すぐさま定家ら三人を加える決定をなさったという。


(「冷泉家の至宝展」図録より、俊成図)

感想
山崎桂子氏の推定によると、『初度百首』の当初の十四人の人選は次のようであった。
すなわち、
後鳥羽院(21歳)
御子左家系歌人 6人
藤原俊成(87歳)・寂蓮(62歳位)・藤原隆信(59歳)・慈円(46歳)・二条院讃岐(59歳)・式子内親王(52歳)
六条家系歌人 7人
藤原季経(70歳)・生蓮(70歳位)・静空(54歳)・経家(52歳)・小侍従(79歳位)・源通親(52歳)・守覚法親王(51歳)

もし、この企画のまま『初度百首』が行われていたとしたら、どんなに華やかさに欠ける百首となっていたことだろう。後世の評価もさほどのものでなく、何より、後の『新古今和歌集』が今見るようなまばゆいばかりの素晴らしいアンソロジー(詩華集)になることもなかったに違いない。

歌壇の重鎮の俊成が、長文の書状で「年齢や人数制限に引っかかり、出詠できないでいる優れた歌人がいるのは、歌道のためにも百首の下命者である後鳥羽院のためにも、かえすがえす惜しまれることである。先例を違えてでも、いま二、三人を加えていただけるよう、院にご配慮をたまわりたい」ということを、党派にこだわらず、道理を尽くして熱心に説いたことが後鳥羽院の心を動かし、事態の打開につながったのだ。

その結果、前述したように八月八日に第二次の下命がなされ、
御子左家系歌人 2人
藤原家隆(43歳)・藤原定家(39歳)
六条家系歌人 2人
藤原隆房(53歳)・藤原忠良(37歳)
の四人が、さらに八月十五日頃に第三次の下命があって、
御子左家系歌人 2人
丹後(59歳位)・藤原良経(32歳)
六条家系歌人 2人
藤原範光(47歳)・惟明親王(22歳)

が追加され、『正治初度百首』は合計二十二人による大規模な応制百首となり、後鳥羽院歌壇の記念碑的な催しとなる。(現在の『正治初度百首』には、もう一人「中納言得業信広」なる者の百首も加わっており、作者について諸説があるが、今は取り上げない。)

この百首の人選が、最後まで御子左派と六条派のバランスに配慮してなされたことに改めて気づかされる。と共に、難局を打開した俊成の八十七歳とは思えない行動力と、それに機敏に反応した若き上皇・後鳥羽院の英断が、その後の歌壇の隆盛と撰集の結実をもたらしたことを思うと、彼らを心から称えたくなる。

俊成のこの仮名状は、「正治二年和字奏状」として知られ、後鳥羽院歌壇成立に関する重要な史料であるので、後日改めて紹介したい。