夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

人海戦術

2015-09-30 23:35:08 | 日記

長かった夏休みも今日で終わり、明日からいよいよ後期の授業が始まる。
そのため、今日の午前中は「クリーンアップデイ」ということで、学校を挙げての清掃活動が展開された。
本当に、全校の学生と教職員が漏れなく参加するのである。

私の校務分掌は寮務なので、学生たちと寮周辺の広場や空き地の雑草などを処理したが、大量の人員を投入すれば、たかが草むしり程度でもこれだけきれいになるということを実地に経験した。
写真でお見せできないのが残念だが、本当に見違えるようになった。
「人海戦術」という言葉があるが、マンパワーはばかにできない。昔の巨大な建造物や、都市づくりもすべて人間の力で(牛馬も使用したにしても)行われていたことを思った。

続 月次の会・九月

2015-09-28 23:11:19 | 短歌
今月も、月次の会の当番の方に、手紙を添え、当日の参加者の詠草を送っていただいた。
(当番の方、ありがとうございます。)
みなさんの詠歌も先生の添削も、それぞれにその意図をいろいろと考えながら読んでいくのが面白い。

今回の私の歌は、先月、上野の東京国立博物館に行った帰り、不忍池に寄った時に詠んだもの。

(提出歌)
  不忍の池を埋むる大賀蓮の葉に天よりの雨降りそそぐ
(添削後)
 不忍の池を埋むる大賀蓮の葉に秋雨の降りそそぎをり

(提出歌)
  風吹けば蓮の大葉も雨水を受けとめかねて露のこぼるる
(添削後)
  風吹けば蓮の大葉より雨水のこぼれこぼるる遊びのごとく


先生の添削を見て、今更のように、歌の内容と表現を調和させ、一首の方向性を徹底させることの重要性を感じる。
一首目は叙景に徹して、「天よりの」などとと余計な言葉を入れるべきではなかったし、逆に二首目は、「受けとめかねて」と説明的に捉えるのではなく、蓮の葉から水がダイナミックにこぼれ落ちる躍動感を、誇張するぐらいに詠んでもよかった。
たとえ連作でも、同じような感じで詠んでしまうのでなく、一首一首それぞれの内容に応じて力点を変え、自立した歌になるよう、もっと工夫を凝らさなければよい歌は生み出せないと思った。

今宵ただ

2015-09-27 22:32:21 | 日記
今日も研究室で一日過ごしているうちに、夕空に月の出る頃になってしまった。
長かった夏休みも間もなく終わり、月が変わると同時に後期の授業が始まる。
そろそろ、授業の予習を始めなければ。


旧暦八月十五夜の月は明るく、米子の町を皎々と照らしている。
今夜はきっと、多くの人たちがこの見事な月を眺め、さまざまに物思う時間を過ごしていることだろう。
私もまた、

  今宵ただ思ひをかけてながめやる秋の最中(もなか)のこの月ゆゑに

明日は十五夜

2015-09-26 22:50:09 | 日記
昨日は、同僚の先生から譲られたチケットがあったので、米子駅前の市民ホールに、弦楽四重奏のコンサートを聴きに行った。
クラシック音楽を生で聴くなど、もう何年ぶりのことだろう。
ドヴォルザークの「アメリカ」など3曲、演奏者の息づかいまで感じられそうな距離で、じっくりその音世界に浸ることができた。
アンコールの「赤とんぼ」と、あとドヴォルザークの「ユモレスク」は、これはクラシックに暗い私でも分かった。


昨日一昨日と、ぐずつきがちの天気だったが、今日は朝からよく晴れた。
夕方、研究室の窓から、大山の上空に十四日の月が見えた。
明日は十五夜、天気は晴れの予想なので、米子で初めての仲秋の名月も、無事に見ることができそうだ。

萩の花

2015-09-24 21:22:11 | 日記
今日は朝から空がぐずつき、午後から本格的に降り出すあいにくの天気だったが、夕方、傘をさして校内を歩いていたら、庭の一角に萩の花がきれいに咲いているのが見えた。


思わず、山上憶良の秋の七草の歌を思い出してしまった。
『万葉集』巻八に、「山上臣憶良の秋野の花を詠む歌二首」として、

  秋の野に咲きたる花を指(および)折りかき数ふれば七種(ななくさ)の花
  
  萩の花 尾花葛花 なでしこが花 をみなへし また藤袴(ふぢばかま) 朝顔が花

という歌がある。

ちょうど秋分の頃に、赤紫の可憐な花を咲かせるが、この雨で早くも散り始めているのが惜しく思われる。

  秋の雨さはにな降りそ萩の花見飽かぬままに散るが憂ければ