夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

月次の会・十一月 (その1)

2014-11-30 21:55:24 | 短歌
今回の『百人一首』講座は、権中納言定頼(ごんちゅうなごんさだより)の、

  朝ぼらけ宇治の川霧たえだえにあらはれわたる瀬瀬(せぜ)のあじろ木

の歌について。

この歌は、『千載和歌集』冬では、「宇治にまかりて侍りけるときよめる」という詞書で採られている。
夜明け方、空がほのかに明るくなるにつれて、宇治川のほとりにたちこめた霧が次第に晴れていき、霧の間から途切れ途切れに、川瀬にかけられた網代(氷魚(ひお=鮎の稚魚)を捕る仕掛け)が姿を見せはじめた…。

先生は、この歌はあっさりしてなかなかよい歌だと評価しておられた。「非常に有名な歌だが、単なる叙景歌と見ても、また、そこにこめられた意味があると見てもよい。」
この歌は、『百人一首』の諸注で、定家が『源氏物語』の宇治十帖の世界と重ねて享受していることが指摘されているが、先生は、作者の定頼にそこまでの意図があったかはわからないにせよ、やはり宇治十帖との関わりも考えてみたくなると言われていた。

先生は、『源氏物語』の登場人物では、特に浮舟に興味があるようで、
「浮舟という女性はすごい。紫式部の創作ではあるけれど、〈性の地獄〉のような愛欲の世界が描かれている。そうしたテーマは、近代小説になればいくらでもあるが、この時代には他にない。」
と言われていた。

「朝ぼらけ」の歌の本歌といわれる、柿本人麻呂の、
  もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波のゆくへしらずも(万葉集・巻三)
についても、これも名歌だと絶賛していた。
先生は、宇治という土地が『源氏物語』の悲恋の舞台となったことや、藤原頼通によって極楽浄土を模して創建された平等院のこと、また源三位頼政が以仁王の令旨を得て平氏討滅のため挙兵しようとしたが、事が漏れて宇治平等院の戦いで敗死したことなどを語り、ご自身が平等院を訪れたときの思い出なども話しておられた。「今は修復でごちゃごちゃした感じになったが、昔はシンプルでよかった」そうだ。

歌会の話題については、また次回に。

近水園

2014-11-29 21:12:32 | 日記
先日の「短歌初心者講座」のとき、先生から木下利玄や足守についてお話をうかがったことで興味を惹かれ、足守(あしもり)の町を訪れた。
足守は江戸時代には、足守藩2万5千石として木下氏が治めた(豊臣秀吉室・高台院の兄の木下家定が立藩)ところで、木下利玄は藩主の子孫。足守には、陣屋(城のない大名の居館)遺構や侍屋敷、藩主庭園の近水園(おみずえん)などが残る。


近水園は、岡山三大庭園の一つであるが、後楽園・衆楽園に比べると、規模はずっと小さい。
この日は穏やかな天気で、紅葉がとてもきれいだった。
池に浮かぶ小さな島に、利玄の歌碑があり、

  花びらをひろげ疲れしおとろへに牡丹重たく萼をはなるる

の歌が刻まれていた。


近水園の隣にある利玄生家や、木下家の菩提寺・大光寺にも訪れたが、私の印象に強く残ったのは、侍屋敷の庭で見たこの黄葉。
折からの夕日を浴びて、金、また赤銅色に輝いていた。
今年は十月に入るとすぐに冷え込み始め、そのまま十一月にかけて寒くなっていったためか、例年にも増して紅葉が美しいように思われる。本格的な冬の到来の前に木々が見せる、最後の生命の輝きに、このところずっと魅了されている。

近代短歌を教える

2014-11-28 23:51:15 | 教育
私が教えている高校1年生の現代文の授業で、最近4時間ほど、近代短歌を取り上げた。
読者で高校教員の方はお分かりになると思うが、現代文はどうしても評論と小説の読解授業が中心になり、詩・短歌・俳句にはさほど時間が割けないのが実情である。しかし、厳選・凝縮された表現に成るこれらの文学は、生徒を言葉そのものに密着させ、表現された状況や心情を深く読み取らせ、理解させるのに最適な教材でもあるのだ。

教科書の短歌の単元から、与謝野晶子・石川啄木・若山牧水・斎藤茂吉の4人を選び、その作品と人となりが伝わるよう留意して授業を行ったが、予想外に生徒の食いつきはよかった。特に生徒の関心が高かったのは石川啄木で、3行書き・口語風短歌で生活上の実感を率直に詠むスタイルの歌が、彼らには新鮮に感じられたようだった。
写真で見る顔に似合わず、素行不良で中学校を退学していることや、貧しい生活の中で職を転々とし、結核によって若くして亡くなったことなど、波瀾に満ちた人生を送った点にも、興味をひかれるらしい。

限られた時間で、しかも歌人ひとり当たり2首ずつという制約があったため、それぞれの歌人の伝記的事実や文学史的評価については、極めて不十分な紹介で終わってしまったのだが、やはり、短歌や歌人について授業をし、生徒たちと一緒に考えたり、言葉の美しさや表現の工夫を味わうのは楽しい機会で、わくわくするような時間だった。

来週から行われる定期考査では、知識の定着度や内容の理解度を測る問題も当然出すが、作品・作者についての感想や、自分で作った短歌なども書いてもらおうと思っている。特に、創作短歌は、よいものがあったら校誌に載せるといっているので、生徒たちからどんな作品が出てくるか、今から楽しみにしている。

古典離れについて (その3)

2014-11-26 22:23:25 | 教育
雑誌『文学』の特集「文学を教えるということ」で、私がもっとも感銘を受けたのは、次の論稿である。

③渡辺憲司氏「大学入学以前における文学教育―大震災後の「羅生門」

芥川龍之介の短編小説「羅生門」は、高校国語教科書の定番テクストである。
渡辺氏の論稿で初めて知ったのだが、「羅生門」が高校国語の教科書に初めて登場したのは昭和32年(1957)であり、同57年(1982)以降は、高校1年生のための芥川の教材はすべて「羅生門」となり、この状態が現在まで続いているそうだ。
しかし、これは「羅生門」の不易の価値が認められているからではなく、文学作品が教育現場でいかにあるべきかという問題提起より、教科書の定番化が先行している事態は極めて憂慮すべきことだと渡辺氏は述べる。

また、氏が触れているように、バブル崩壊後の平成不況の状況下、文学研究も国語教育も混迷の極みにある中で、我々は情報革命の時代に突入している。近年、国語・国文関係の雑誌の休刊・刊行中止が相次ぎ、研究と教育の存立が揺らいでいるだけでなく、国語教科書から古典の割合が減少し、入試問題として古文・漢文を出題する大学が減っている。全国の大学・短大には、日本文学の看板を下ろすところも増えている。

一方で渡辺氏は、
二〇一一年の東日本大震災以降、文学教育とりわけ国語教育が震災をどう受け止めていくべきかという課題が、どうしても頭を離れません。
震災以降の〈今〉にどう向き合うのか。
と問い、「羅生門」の〈震災後〉を描く文学としての側面に着目する。

荒削りに『今昔物語集』を素材とした芥川は、『方丈記』を見据えながら、京の町の、〈羅生門〉の荒廃を描写しているのです。『方丈記』と「羅生門」は、自然への脅威を述べながら〈盗み〉という行為や、宗教心の喪失といった〈人災〉をも共有します。「羅生門」にあるのは、震災後に生み出される悲惨な状況に対する人間の有り様です。有り様の多様性を語りかけているのです。

ここで白状すると、私は今まで、「羅生門」を授業で取り上げるときは、心理小説の側面を重視し、場面ごとに下人の心情がどう推移しているかを生徒に追跡させる読解に傾いていたと思う。『今昔物語集』に題材を取りながらも、主人公の内面を理知的に、近代的な〈自己〉という観点から新しく解釈した作品として、作者の文学史的評価と結びつけて教えてきた。
だが、渡辺氏の論稿を読み、今までの自分の教え方がいかに硬直化した、〈今〉を生きる私たちがこの作品をどう読むかという足場を失ったものだったかを思い知った。氏が言われるように、この作品に解答はなく、主題について一言で述べることも無理である。

可能なのは、生徒の真摯な姿勢を導きだし、その姿勢を評価することです。
〈何かをつかみとろうとする〉意識を生徒に持たせることです。

氏の論稿から、「羅生門」に限らず、また現代文・古典を問わず、生徒のために、このことを実現できるような授業を構想し、準備し、実践していくことが教師の役割なのではないかと諭されたように思った。古典離れや国語の敬遠を生徒のせいにせず、真の教養や学問が、我々がかけがえのない自らの生を生きることとどう関わるのかを、説得力をもって生徒に示し、深く考えさせる授業づくりを心がける。

古典離れについて (その2)

2014-11-25 22:11:47 | 教育
前回触れた、『文学』隔月刊第15巻第5号(9,10月号)は、「文学を教えるということ」を特集する。
その中で、私にとって特に参考になったのは、次の3つの論稿。

①高田祐彦氏「和歌をどう読むか―中古文学を教える」
高田氏は、高校の教科書にもよく採られている、
  ほととぎす鳴くや五月のあやめ草あやめも知らぬ恋もするかな
             (古今集・恋一・469・よみ人知らず)
の一首を取り上げ、大学の特講で和歌をどのように教えているか、実例に即しつつ紹介しているのだが、これが有益だった。
高校の古文の授業では、上句が同音反復により「あやめ」を導く序詞で、歌の趣旨は下句にあるといった説明で終わってしまうだろうが、高田氏は序詞がそもそもどのような表現か、また上句と下句の表現がどのように対応するのかなどを丹念に検討され、〈和歌の表現のしくみ〉の魅惑的な世界へと我々を誘う。解釈にとどまらず、真の意味で〈和歌を読む〉とはどういうことか、それを全く知らずに、ただ教えなければならないものとして授業で扱っているのだとしたら、教師も生徒も不幸だと思わざるをえない。

②鈴木登美氏「翻訳と日本文学―コロンビア大学で森鴎外「舞姫」を読む―」
ニューヨークのコロンビア大学で、日本近代文学を担当する鈴木氏が、学生・院生たちと日本語と英語のテクストで「舞姫」を読み討論した事例の紹介と考察。「舞姫」は高校3年次の「現代文」教科書の定番的作品であり、テクストをどう読むかで教材研究に活かせるだけでなく、高校の授業で生徒たちに意見を言わせたり発表させたりする場合に、どんな視点から行えばよいかの参考になる。

期末考査が近くその準備もあるため、3つめの論稿については次回に。