先日のことになるが、日頃何かとお世話になっている古文書の会代表の方が、境港で講演会をなさるというので参加してきた。
江戸時代後期に全国を測量し、当時としては極めて精密な日本全図を作成した伊能忠敬と、弓浜半島との関わりについてのお話だった。
とは言っても、測量の際、忠敬自身は米子にとどまっていて、弓浜半島を実際には歩いていない。(測量は彼のスタッフが行った。)
しかし、忠敬の著『山島方位記』を見ると、その測量地点から当時の弓浜半島の海岸線の位置が把握できる。
忠敬の測量隊は弓浜半島を、日本海側も中海側も、現在の海岸線よりずっと内側を歩いている。
日本海側はだいたい、今より200Mほど内側に入った、産業道路(国道431号線)の辺りが海岸線であったらしい。
伊能大図(第155図)で見る弓浜半島は、現在よりずっとほっそりしているので驚いた。
中海側の新田開発や干拓、日本海側の砂浜の移動などがあって、今のような地形になったのだそうだが、話を聞いていてとても勉強になった。
境港からの帰りは、やはり弓ヶ浜沿いに車を走らせたくなった。
昔はこの辺りが海岸線だったのかと思いつつ、431号線を走った。
江戸時代後期に全国を測量し、当時としては極めて精密な日本全図を作成した伊能忠敬と、弓浜半島との関わりについてのお話だった。
とは言っても、測量の際、忠敬自身は米子にとどまっていて、弓浜半島を実際には歩いていない。(測量は彼のスタッフが行った。)
しかし、忠敬の著『山島方位記』を見ると、その測量地点から当時の弓浜半島の海岸線の位置が把握できる。
忠敬の測量隊は弓浜半島を、日本海側も中海側も、現在の海岸線よりずっと内側を歩いている。
日本海側はだいたい、今より200Mほど内側に入った、産業道路(国道431号線)の辺りが海岸線であったらしい。
伊能大図(第155図)で見る弓浜半島は、現在よりずっとほっそりしているので驚いた。
中海側の新田開発や干拓、日本海側の砂浜の移動などがあって、今のような地形になったのだそうだが、話を聞いていてとても勉強になった。
境港からの帰りは、やはり弓ヶ浜沿いに車を走らせたくなった。
昔はこの辺りが海岸線だったのかと思いつつ、431号線を走った。