夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

3月の短歌

2014-03-31 22:38:49 | 短歌
これから、月末にその一月で詠んだ短歌をまとめて掲出することとする。
誇ろうとする意図ではなく、己の非才を常に顧み、後の上達につなげるためである。
今までこのブログの記事に載せていなかったものも、あわせて出しておく。

卒業式
今日よりは立ち別るとも三年(みとせ)まで共に学びし縁(えに)は絶えせじ
輪になりて写真撮り合ふ今ばかり惜しむ別れをとどめてしがな
会ふことも今日を限りぞ同じくは笑みて別れむ下に泣くとも(2014/3/1)

試験監督
学年末考査今日より始まりて試験監督つとむる我は
平生は道化役する君なれば真剣な顔見るが可笑しさ
かりかりと無心に解答する子らに桑食(は)む蚕の姿思ほゆ(2014/3/5)

鶯の声を聞く
窓外に来ゐる鶯冬去りて光あふるる春を歌へり
汝(なれ)が名を歌よみ鳥ともいふなればよき詠歌をと心に祈りぬ(2014/3/8)

谷間の梅咲く
待ちし梅は去年(こぞ)にたがはず咲きにけりおのが時とや知れるなるらん
あくがれて日にいくたびも見に行けば梅もさだめて恥ぢらひぬらん(2014/3/10)

鳴門
淡路なる鳴門大橋の遊歩道眼下に潮の渦巻くを見る
名に高き鳴門渦潮眺めをれば瀬戸を流るる潮のはやさよ(2014/3/12)

野島断層
岩をくだき地さへ引き裂く大地震(おほなゐ)のあと生々し野島断層
大地震の体験装置1.17の40秒の揺れにただ怖づ(2014/3/13)

湖西線
肌をさす寒さの春の湖西線京都なまりのやさしく聞こゆ
京都より快速はあれどしのばしき名の駅多き鈍行に乗る
大津京唐崎比叡坂本に雄琴滋賀比良名ぞむつましき(2014/3/16)

日吉大社
坂本や日吉へまゐる道すがら鳴く鶯の声このもしき
山王祭には神輿も通る急坂に昼(ひ)も暗きまで杉立ち並ぶ
奥宮へ参る山道険(さが)しけれど神にひかれてなほ歩まるる
神のます山を春風吹くからに杉の木立もややそぞめきぬ
牛尾山巌の上より見渡せど霞に閉づる鳰(にほ)のみづうみ(2014/3/16)

無動寺谷
いにしへの回峰修行を思ひつつ無動寺の谷ひたすら歩む
深き谷険(さが)しき峰をめぐりてぞまことの智恵に逢はむと思ひし
悟り得ぬ煩悩の根をたづぬればわが心から見る魔なりけり
みな人の苦しといふは苦をいとふ己(おの)が心のまねくなりけり
今ぞ知る苦を一身に引き受けてつとむるときに苦は消え失すと
愚かなり苦し苦しといひながら苦しみをなど放さざるらむ
悟り難き衆生を導くてだてとて忿怒(ふんぬ)の相をとる不動尊(2014/3/16)

比叡山
深き谷切り立つ崖に囲まれし比叡の寺よりひびく鐘の音
3.11震災起こりし時刻にぞ御山をあげて黙祷捧ぐる
如月の半ばなれども風さえて雪なほ残る比叡の山陰
み仏の御前にともせし法(のり)の灯(ひ)を今につたふる根本中堂
常灯は不滅の光といふなれば父母の長寿ぞまづ祈らるる(2014/3/16)
  
梅の花散る
春雨の後の朝(あした)に散る梅を来(こ)む年までの形見とぞ見る
梅は散りて花の名残を惜しめども木(こ)のもと払ひ春風過ぎぬ(2014/3/28)

歌作りを初めて間もないので、定型に収めるだけで四苦八苦しており(かなり字余りも多い)、まだ歌体が定まっていないことを感じる。
先日の短歌講座の折にいただいた、先生の歌集を折に触れ読んでいるのだが、語彙の多さ、観察眼の確かさ、題材の幅広さ、主体の確立の度合い、表現の個性など、すべてにおいて別次元である。
わが目標とする、晩年の正岡子規のような歌までの道は遠い。
しかし、本居宣長が『うひ山ぶみ』で、
「才のともしきや、学ぶことの晩(おそ)きや、暇(いとま)のなきやによりて、思ひくづをれて、止(やむ)ることなかれ。」
と言うように、あきらめずに続けてみようと思う。

陽なたのアオシグレ

2014-03-30 23:30:40 | 映画
『寫眞館』と同時上映で、こちらもわずか18分間の作品。
小学生の淡い初恋と切ない別れの話で、見ていて胸が痛痒くうずいてきた。

内容の紹介
突然だけど、ぼくはシグレちゃんのことが好きだ。
シグレちゃんと話したい。


小学4年生のヒナタは、内向的で繊細な感覚を持つ男子で、いつも同じクラスのシグレという女の子で妄想している。
公園の池を二人でスワンボートに乗って楽しむとか、彼女を大きなドーム型のバードハウスに案内してあげるとか。


実際には、ヒナタはシグレには自分から話しかけることもできず、クラスの人気者の彼女が、友達と楽しそうに話している姿を遠くから見つめるだけ。彼女がヒナタの視線に気づいてこちらを見ると、慌てて逃げ出す始末。
ある日、ヒナタは学校の屋上で、大きな白鳥の背中に二人で乗り空を飛ぶ場面を妄想し、それを絵に描いているところを、シグレに見つかり、慌てて逃げる。
彼女は、「なんで、ヒナタくんは私のことを避けるの?」と尋ねたり、一緒に鳥小屋の世話をしようと言ったり、何かと気遣ってくれる。


その後、ヒナタは一生懸命鳥小屋の世話をしたり、シグレにアピールするようになるが、ドジばかり。それでも、彼女と交流できるようになったことが嬉しく、「ぼくはなんて幸せ者なんだろう。」と思っていた矢先、いつものように屋上に絵を描きに行くと、シグレが一人で泣いていた。
「ごめん、今日は用事があるから先に帰る。」
後でわかったことだが、シグレは突然、転校することになったのだ。
ヒナタは彼女に何もすることができないまま、ついにお別れの日がやってくる。
雨の中、校門の前で、母親とタクシーに乗り込む前に、クラスの皆とお別れのあいさつをするシグレ。しかし、ヒナタは彼女に声をかけることができない。
タクシーが去った後、鳥小屋で泣き崩れていると、
「ヒナタくん。」
とシグレの声が聞こえたような気がして、ヒナタは雨の中を駆けだしていく。
「ぼくは、シグレちゃんに思いを伝えるんだ!」

感想

タクシーの後を追って、雨の中を夢中で走るヒナタの脳内妄想空間は、やはりアニメーションでなければ表現できないもので、その可能性がとことん追及された映像は、迫力とともに、詩情をも感じさせるものだった。
妄想の中で、ヒナタはすでに電車に乗ったシグレに併走して必死に走るが、追いつくはずもなく…と、自分で描いた絵の白鳥が現れ、ヒナタを乗せて羽ばたき、電車を追いかけてくれる。


現実のヒナタは、日野駅でシグレと母親が電車に乗り込もうとする直前に追いつき、完成した絵を彼女に手渡す。
「シグレちゃん。ぼくは…、ぼくはシグレちゃんのことが…元気でね!」
「ありがとう。」


短い上映時間だったが、不思議に充実した18分間だった。
絵も丁寧に描き込まれていてきれいだし、キャラクターデザインもよい。
しかも、このシグレちゃんというのが、男子なら誰でも好きになりそうな可愛い子。
水色のワンピースに青い瞳って、クララ(アルプスの少女ハイジ)かいっ!と思わずツッコミを入れたくもなるが。
主題歌の「不思議」(スピッツ)も、この映画の雰囲気にピッタリ合っていて、とてもさわやかな感じだった。
アニメは子どもの見るものと、抵抗がある人にもぜひオススメしたい映画だ。

寫眞館

2014-03-29 23:41:07 | 映画
わずか18分間のアニメ映画。
丘の上の「日の出写真館」の主人と、そこで人生の節目ごとに写真を撮ってきたある女性との交流を通して、近代日本が経てきた明治・大正・昭和の時代を描く。

内容の紹介

ある日、「日の出写真館」に、軍人とその妻となる女性が写真を撮りに、人力車でやって来る。
主人は彼女の写真を撮ろうとするが、彼女は恥ずかしがって顔も上げられない。
主人がユリの花を持ってきて、初めて笑顔になる。


数年後、この女性は娘を連れてやって来る。
どんなにあやしても一向に笑わない娘に、主人は手を尽くすが、結局娘は笑わないまま写真に収まる。


月日が経ち、娘は女学生になっているが、相変わらずまったく笑わない。父親は戦死している。
関東大震災が起こり、写真館は崩れるが、主人は営業を続ける。


娘は小学校の教師となり、やがて結婚、男の子も生まれる。
しかし、まったく笑わず、不機嫌そうに口をへの字に結んでいる表情は変わらないままである。
首都の空を米軍機の大編隊が襲う。息子は戦死し、彼女はその遺骨を黙って受け取る。


戦争が終わって、町は復興し、東京オリンピックも開催された。
彼女は今は白髪の老女で、久しぶりに写真館を訪れると、主人が病気で寝込んでいた。
彼女が台所を借りておかゆを作ってやるが、そのとき、この家にたくさんの写真が飾られている中に、昔の母の写真があるのを見つける。
大学帽をかぶった息子の写真もあった。
彼女は家に帰ってから物思いにふける。茶の間には父・母・夫・息子の遺影が並んでいる。
彼女が写真館を訪れたとき、主人が、
「一緒に写真を撮りましょう。」
と言う。
傾きかけたまま、「日の出写真館」は今も丘の上に立っている。
そこに飾られた彼女の最後の写真だけは笑って映っている。


感想
この映画にはセリフがなく、映像と音楽(シューベルトのピアノソナタなど)だけが流れる。
人物などはかなりデフォルメして表現されているが、背景や小道具などは細密でリアルに描き込まれている。
その時代ごとの東京の町の様子や人々の生活が、きちんと考証を踏まえた上で制作されており、職人の仕事であることを感じた。
わずか18分間で、明治30年代(おそらく)から60年ほどの時代の移り変わりを体験するとともに、人の一生も、もしかしたらこのように、たくさんのことが起こりながらもはかなく過ぎてしまうものなのかもしれない、ということを思った。

梅は散りて

2014-03-28 23:20:52 | 日記
私が書いた論文の載った雑誌ができたというので、昨日、仕事の前に大学に寄ってきた。
会員への配布はまだ先なのだが、恩師に依頼して、一冊お借りすることになっていたのだ。
論文・著書などを引用させていただいた方々に、後日拙稿のコピーをお送りする。


耐震改修工事中だった中央図書館も、リニューアルオープン(5/9)まであと一月ほど。だいぶきれいになった。
25日の卒業式・修了式が済んで、大学構内は人も少なく、閑散とした雰囲気であった。


前日にほぼ一日中雨が降ったので、この日は梅の花が盛んに散っていた。
風が吹くたびに、枝からこぼれるように花びらが散り、しばし空中で揺らめいて地面に落ちていく様子は、昔の歌人たちが降る雪にたとえたのももっともだと思った。
職場への出勤前に慌ただしく大学に寄ってきたのだが、この時はしばし時を忘れて、散る梅の花の名残を惜しんだ。

  春雨の後の朝(あした)に散る梅を来(こ)む年までの形見とぞ見る
  梅は散りて花の名残を惜しめども木(こ)のもと払ひ春風過ぎぬ

ふたりのアトリエ~ある彫刻家とモデル(その2)

2014-03-27 22:34:44 | 映画
感想
この映画を観ていて、モノクロームの陰翳に富んだ美しい映像とともに、印象に残ったことを3つ。


1つめは、クルスとレアの夫婦愛。
人物を描く画家や彫刻家にとって、インスピレーションの源となるモデルが非常に重要なのは言うまでもないだろうが、レアが創作意欲の枯渇した夫のためにメルセを見出し、その後も何かと気を遣ってやっているのが心に残った。レア自身も昔はモデルをしており、マティスやドランからも気に入られていたという話が出てくる。
レアは夫の芸術家としての才能と純粋さを信頼しており、クルスも母親に息子がそうするように、メルセのヌードを前に、年甲斐もなく硬直してしまったことを打ち明けたり、
「ピラミッドのような胸が彼女の魅力だ。」
と得意げに話したりする。


2つめは、メルセに次第に心を許すようになったクルスが、自己の芸術観や女性崇拝などを話すシーン。
「女性は神が作り出した最も本質的な形態、原初形態なのだ。」
またあるときは、一枚のスケッチ画をメルセに示し、
「これを見てごらん。」
「すてきね。」
「そんなことしか言えないのか? ものを見る見方を学ばねば。レンブラントのスケッチだ。真の傑作だ。もっとよく見てごらん。」
二人はそのスケッチに描かれた、初めて歩こうとする乳児を家族や近所の者が支えたり見守ったりする様子を読み解いていく。その後でクルスが、
「レンブラントは、瞬間を創り出した。人生を作り上げるかのように。これを描くのに、ものの5分とかかっていまい。…描く時間より、着想の方が大事だ。」
と言っていたのが、とても印象に残った。


3つめは、完成した石膏像を見てメルセが、
「私とは別人だわ。」
とショックを受けるシーン。
「芸術家がモデルを使うのは、自然を参照するためだ。肖像画とは違う。セザンヌも言っている。」
とクルスは答えるが、メルセは納得のいかない表情を見せる。
…この場面では、どちらの気持ちもよくわかる気がした。

この映画の主人公・クルスは、有名な彫刻家マイヨールをモデルとしており、クルスが大作の裸婦像を完成させるストーリーは、その代表作「地中海」(岐阜県美術館にそのブロンズ像がある)をモチーフにしているという。
メルセを演じたアイーダ・フォルチは、体つきが「地中海」の裸婦像そのもので、若く生命力に溢れた、まさに“女神”というにふさわしい輝きを放っていた。映画館のスクリーンでこそ観るべき作品だと思う。