夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

なぜ、あなたの仕事は終わらないのか

2016-09-28 23:07:02 | 
先日、コンビニの本棚で見つけて何気なく手に取り、パラパラとめくっていたら、これは一読の価値ありと直感し、買って帰った。

この本に書いてあるのは、100人に1人しか当てはまらない仕事術なので、正直、私には使いこなせる自信はない。
しかし、今までの自分の仕事の何が悪くて、なぜ今までに結果を出せない取り組みが山ほどあったのかがよく分かった。

この本を読んで、一番その通りだと思ったのは、ある企画、計画を成功させたいと思ったら、まずそのプロトタイプを最速で作ってしまえということ。
これを論文にあてはめて言えば、自分の書きたい論文のプロトタイプを、全体の2割の時間で全速力で(筆者はこれを「ロケットスタート」と呼んでいる)まず作ってしまい、残りの8割の時間を仕上げに当てる、ということだ。

確かに、論文というのは、実際に書き始めてみて初めて、証明困難な難所がいくつもあることが分かってくる。全体の進行の2割くらいの段階で、その難所がどこにいくつあるかが予め分かってしまえば、残りの時間で締切まで余裕をもって執筆が進められる。
たいていの場合、論文がうまくいかなくなるのは、難所の存在に気づかないまま、締切前に追い込みをかければ間に合うと楽観視して臨んだ挙句、締切前になって難所でつまずき、焦りで自滅してしまうからである。


この著者(中島聡氏は、マイクロソフト社でWindows95を開発した伝説のプログラマー)は1日18時間半、週1日も休まず働いている人なので、普通の勤め人から見れば実行不可能に見えることも多い。
しかし、「あなたの仕事は、仕事を終わらせること」、そして、「あなたの人生の仕事は、あなたの仕事を終わらせることではなく、人生を思いっきり楽しむこと」という言葉には大いに共感できるし、自分の本当にやりたいことをするために行動しなければ幸せになれない、というのはその通りだと思う。

今、必死に働きながら出口の見えない思いでいる人、成果が思うように出ず自己不全感を覚えている人には、必ず何かの啓示を得られる本ではないかと思う。

デール・カーネギー『話し方入門』

2013-12-20 22:34:21 | 
昔、私が大学院時代に専門学校の非常勤講師をしていた頃、スピーチの授業のテキストとして使っていたD・カーネギー著『話し方入門』。

昨日、久しぶりに読み返していたら、本の中に、その時分に書いた感想文が出てきたので、そのまま紹介する。

第12章「言葉づかいを改善する」の中で、カーネギーが、
言葉には話す人の品性が現れる……聞く人が聞けば、どういう人とつき合っているかということまでわかります。言葉は教育と教養のあかしなのです。
また、
私たちは、……私たちの行動、外観、話す内容、話し方によって評価され、類別されます。
と言っていた箇所が印象に残った。

私たちの話す言葉は、知らず知らずのうちに、私たち自身をも語っている。私たちはともすれば、話す内容さえよければと考え、話す時には相手が自分の言うことを論理的に理解してくれることを望んでいる。しかし、聞き手はむしろ、話の内容は二の次で、話している本人が信頼できる人間かどうかを、話の内容ではなく、話し手の容姿、雰囲気、態度、しぐさ、話し方、音声などを通して値踏みしているのである。それは聞き手の主観的な判断かもしれないが、聞き手は話し手からの一方的な情報伝達を望んでいるのではなく、話を通して彼とコミュニケートすることを望んでいるのである。したがって、聞き手は正常なコミュニケーションを疎外するような話し手には本能的に嫌悪感を抱く。

カーネギーは、『話し方入門』全体を通して、話し手が聞き手と意思疎通することの大切さを繰り返し強調していたように思う。そして、自然な話し方というのも重視していた。スピーチの自然さを生み出すのは話し手の練習の賜物であり、自身のたゆみない努力が大切なのだということも。カーネギーは、上手なスピーチは決して才能によるのではなく、自然なスピーチをしようと努めた結果、その人の人柄が自然に表れるのがよいスピーチだと考えていた。カーネギーは、スピーチを通して、話し手が自分の言語表現を磨き、そのことによって話し手自身の人格までが磨かれること、スピーチの成功を通して話し手が自信をつけ、教養のある人間になることを願っていたように思う。

…今読むと、若書きの生硬な文章で、いささか気恥ずかしい。しかし、D・カーネギーの著書は、いつ、何度読んでも改めて教えられることが多いことを実感する。

カモメになったペンギン

2013-11-07 23:24:46 | 

昨年、本校の経営者から課題図書として指示され、読んだことを思い出した。

『カモメになったペンギン』は、それまで暮らしていた氷山が溶けて崩れる危機に直面したペンギンたちが、新しい安全なコロニーを求めて氷山を移動するという困難な目標を達成する顛末を描いた寓話である。

一羽のペンギンが危機を発見するところから始まり、リーダーとなるペンギンたちも危機を悟り、全体集会を開いて、「変化」に慣れていないコロニーの仲間たちに現状への甘えを手放させ、危機意識を高めさせていく。そして、変革を指揮するために、チームを形成し、メンバーが新しい未来、ふさわしいビジョンを創り出し、仲間たちに新しいビジョンを伝え、実践していく。もちろん、その過程では抵抗勢力が現れたり、人々(ペンギンたちだが)の無知や偏見が障害となったりするが、仲間たちを窮地から救い出したいと願うリーダーやチームのメンバーたちの真摯な言動が変革のうねりを生み出し、素晴らしい未来のためにみんなで協力して挑戦し、成功をたぐり寄せていく。

翻って、人間社会を思うとき、どんな組織も固有の問題点を多く抱えている。それらは一見、複雑で解決に時間がかかるように見え、あるいはどこから着手してよいかがつかみにくいために、出口が見えないように思ってしまう。また、危機意識を持っている者も、それぞれの立場から意見を表明するため、同じ意識が全体に共有されないどころか、かえって反感と対立の種になってしまったりする。

しかし、だからこそ、自分たちが置かれている危機の本質を正確に理解し、異なる価値観を摺り合わせ、どのような解決案がもっとも適切であるか、また、組織にとって望ましい将来像は何かを考え、示し、全体が協調して挑戦し、努力することの大切さを、この本は教えてくれたように思う。

勉強の結果は…

2013-10-06 23:49:40 | 

学級文庫に入れて生徒に読ませようか、と思って買ったら、自分の方が夢中になって読んでしまった。

結果を出したかったら、勉強法以前に、勉強に対するマインドセットを大きく変えるべきだ、という至極まっとうな主張の本で、勉強しているのになかなか成果が出ないという人は、ぜひ手にとってみることをおすすめする。

私が読んでいて特に印象に残ったのは、
自分が何をやりたいかとか、情熱を注げるかとか、どういう毎日を過ごしたいか、という「中身」ではなく、ひたすら形にこだわる。
しかし、そうやって形だけにこだわる人生に、一体何が残るのでしょうか。
という問題提起。

有名かどうかではなく、自分が好きかどうか、自分がやりがいを感じられるかどうかで進学や就職を選択する人は、人生を間違えないと筆者は言う。日々充実感を得ながら、「形式」ではなく、自分がどう感じるか、自分が幸せであるかという「実質」を大事にした人生を送ることができるはずだと。

逆に、形式だけを大事にする人生は、どこか満たされない、充実感のない人生になっていくのではないでしょうか。
なぜなら、そこに自分の「好き」や「やりたい」という気持ちがないからです。そこに、情熱はないのです。自分の感情はないのです。
大学に入るときも、就職するときも、資格を取るときも、考えるべきなのは、「自分はそれを手に入れ、何をしたいのだろうか?」ということ。
ただ闇雲に、形だけを求めるのではなく、その先に待っている実際の世界、実際の毎日を思い描くこと。
そこで自分が情熱を持って取り組めるのか。やりがいを感じる毎日を送ることができるのか。
そちらのほうが大事なことなのではないでしょうか。

「形式」ではなく「実質」を重視する生き方、というのは、大人でも実際には難しい。
特に若者は、自分が考えてみたこともないこと、自分の興味のないことはしたくない、という傾向が強い。

しかし、動機が〈他人からよく見られたい、他人よりいい思いがしたい〉という虚栄心や利己心に発するものであり、それにとらわれていると、成功できないばかりか、人間関係を損ない、自分の心身を苦しめることにもなる。
自他を幸福にするための大きな夢を持ち、その実現のために自分をコントロールし、意欲に満ちて、あらゆることから学ぼうという姿勢になったときに、初めて勉強は大きな成果をあげるものになる。私は過去、そうした生徒を何人も見てきた。

この世の中は、『7つの習慣』の著者・故S・コヴィー博士の言う「農場の法則」によって支配されている。ショートカットはない。
短期的でなく、長期的成功に価値を置き、その目標を実現するための行動を取ろうとする人に、ぜひ読んでいただきたい。

文科の時代

2013-09-03 22:18:00 | 


渡部昇一さん(英語学者・批評家)のエッセイは昔から好きで、よく読んでいた。
今回、久しぶりに『文科の時代』(1974年)を読み返していて、改めてこれはと感心するところが多々あった。

和歌にしろ漢詩にしろ、あるいは連歌にしろ俳句にしろ、人を美に対して敏感にする。しかも拡大を断念したかわりに精緻の美が求められる。~この見地から見ると、一般に評判の悪い本歌取りの和歌の面白さが俄然輝きを増してくる。最初から本歌を知っている人に、巧妙な本歌取りの歌を示すというのは文学的教養の極致といってよい。しかしそれが成立するためには、作者にも読者にも途方もない文学的教養がなければならないのである。近代の忙しい学者はそこの遊びがわからず、本歌取りは独創性なしとして低く見ることになりやすい。しかし一々独創的な歌を作るというのは生産の原理であって、文学を生きる原理ではないのだ。(「文科の時代」)

後に残らないものに精神的エネルギーを集中することを仮りに文科的原理と呼びたい。それはそのあとに生産物を残す理工的原理と反対のものである。そしてあらゆる科学的分野に限界が見え、地球も危ないものになった時、そこに生きる原理は文科的原理であるが、そのいくつかを日本人の先祖たちが実践して見せてくれたことに対して誇りを持ちたいと思う。(同)

前の方の引用は、私がなぜ和歌、それも新古今時代の和歌にとりわけ心を惹かれるのかを一言で言い表してくれているし、なぜ近現代の短歌や俳句にさほどの魅力を感じないのかの説明にもなっているような気がする。後者は、拡大と生産の原理では立ちゆかなくなり、理工分野でも〈持続可能な成長〉ということを標榜せざるをえなくなった現在の状況を、40年も前に予見していたような文章だ。

~その言語とその民族の関係は恣意的決定によるものでもなければ、約束によるものでもない。こうなると「国語が人間によって形成されるというよりも、むしろ人間が国語によって形成される」ということになって、その民族と国語の結びつきは必然的になる。(「日本語について」)

これなどは、私のような国語教師には、レゾンデートル(存在理由)を示していただいたようで、嬉しく感じられる。と同時に、クイズ番組(漢字や語彙など)や日本語本ブームの一方で、母国語の価値や自国の文化的教養が軽んじられるお寒い世相を悲しく思う。

ベネデクトの規定した労働は、畑を耕したり、牛の世話をするといった純然たる肉体労働のみならず、古い本の筆写なども含まれていた。つまり人間は、自分の好む観想や読書などのほかに、労働だと感じられるものを意識的に、意志的にやり続けないとそのうちに救い難い精神の頽廃を招くというのである。労働とは「人間らしさ」の中に本質的に組み込まれているのであって、たえず労働だと自分に感じられるものを機能させ続けて行かねばならないという人間洞察である。(「労働について」)

これは私自身、学生・院生時代に「自分の好む観想や読書」ばかりに耽り、しばしば精神的に惰弱になった経験があるのでよくわかる。生徒にも、スポーツばかり、趣味ばかりになりすぎるのはよくない、必ず勉強という知的「労働」を自分の生活の中に組み込みなさい、ということを言っている。

古今東西の書物に通じた豊かな学識の持ち主が、明晰な文章で学問や教養、文化、人間などの本質を語る本書は、刊行から40年近く経っても、未だにその価値を失わない。これからも時々は読み返していきたい。