夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

緋房の籠の美しき鳥

2014-05-31 23:17:19 | 日記
今日のNHK連続テレビ小説『花子とアン』を見ていると、蓮子が嘉納家で福岡の名士たちと集うサロンで、「東西日報」記者の黒沢に、自らの歌を見せる場面が出てきた。

  誰(たれ)か似る鳴けよ歌へとあやさるる緋房(ひぶさ)の籠の美しき鳥

感想を求めた黒沢から、
「あなたはご自分のことしか愛せない人だということがよくわかりました。」
と言われ、蓮子は、
「ええ、私、かわいそうな自分が大好きなの。」
と答える。

金で買われた結婚生活を送る自分を籠の鳥にたとえるのはまだ分かるとして、「美しき鳥」と言い切ってしまうのはよほどの自負と自己愛の表れのように感じ、黒沢ほどではないが、やや鼻白む思いになってしまった。

ドラマの中では、夫の伝助から、
「短歌など腹の足しにも銭にもなるまいが。」
ということを言われ、蓮子が、
「では私の歌集を出版して、それが売れに売れたらどうなさいます?」
と言い返す場面もあった。

伝助は、
「嘉納家の嫁が出す本だ、金に糸目をつけず、うんと豪勢なものを作れ。」
と景気のいいことを言うが、実際、結婚から4年後に出版された柳原白蓮の第一歌集『踏絵』は贅沢な装幀の豪華本だったそうである。

それにしても、仲間由紀恵はこういう、美人だが生真面目で融通の利かない役柄がよく似合う。
吉高由里子演じる花子が明るく素直な人柄で、その周囲に起こる出来事も「いい話」ばかりであるだけに、蓮子に関わるエピソードのドロドロっぷりが余計に下世話な関心をそそって面白い。

薔薇競艶

2014-05-29 23:39:31 | 日記

岡山市撫川にあるRSKバラ園では、現在「春のバラまつり」が開催中。
昨年も同じ時期に行って記事も書いたので(2013/5/24)、詳しくはそちらに譲る。


この日は団体の観光客がバス2台で訪れており、園内は非常に賑やかであった。
時折聞こえてくる彼らの会話が関西弁だったので、このバラ園が県外の方にも人気があることを知る。
さすがに、バラが400品種・15,000株と、日本有数のスケールを誇るだけあるなあと感じた。


私のお気に入りはこのラバグルートで、ドイツ語で〈溶岩の燃えるような色〉という意味なのだそうだ。
バラはやはり真紅のものがきれいだと思うし、小ぶりで円みを帯びた花の形が愛らしく、とても好ましく感じられる。

  とりどりに薔薇は艶なれ溶岩の赤色に咲くこの花ぞよき


「春のバラまつり」は、6月22日(日)まで。
これからの季節は、花菖蒲、紫陽花、蓮なども見頃になってくるので、ぜひまた行って見たい。

寂しさのありのすさびに

2014-05-28 23:30:22 | 日記
現在放送中のNHK連続テレビ小説『花子とアン』。
『赤毛のアン』の翻訳者・村岡花子の生涯を扱っていると聞き、気にはなりつつ、なかなか見ることはできずにいた。
しかし、先週号の『週刊現代』に、このドラマの陰の主役とされる、仲間由紀恵演じる蓮子のモデル、柳原白蓮(やなぎわらびゃくれん)の生涯が特集記事として掲載されているのを読み、俄然興味が湧き、見始めるようになってしまった。

白蓮が情熱的な歌風で知られる女流歌人であり、叔母は大正天皇の生母・柳原愛子(なるこ)であること、伯爵家の出でありながら年下の恋人と不倫の恋に落ち、華族除籍となったことなどは、おぼろげながら知っていたが、最近、短歌を習い始めたせいか、以前とはまた違った目で、白蓮を見るようになった。

花子(吉高由里子)と蓮子は、東洋英和女学校で知り合い、「腹心の友」となるが、卒業後、蓮子は親子ほど年の違う大富豪に、「金で買われて」結婚することになる。

~東洋英和女学校を卒業した白蓮を待っていたのが、福岡の炭鉱王・伊藤伝右衛門との結婚話だった。
伝右衛門は、新妻に金を注ぎ込んだが、何人もの妾をもつ伝右衛門と白蓮の仲は冷え、白蓮はますます歌に打ち込む。(週刊現代5/31発売号)

今日放送の話では、生まれ育ちや文化教養が余りに違いすぎるところから夫と衝突し、壊れていく夫婦仲に苦悩する蓮子の様子が描かれていた。
蓮子が嘉納家の「教育改革」のために、音楽家を招いて演奏会を開いたところ、マナーを知らない夫は煎餅を食べ出し、連れ子の冬子にもすすめ、果てはあくびをしたり、酒を持ってこさせたり…。
その後、蓮子になじられた夫は、機嫌を損ねて芸者遊びに行ってしまい、使用人までが蓮子のいる前で陰口をたたく。
家の中で孤立し、やりきれぬ思いの蓮子は、一首の歌を短冊に書き付ける。

  寂しさのありのすさびに唯ひとり狂乱を舞ふ冷たき部屋に

ドラマを見ていて、なんという冷え冷えとした歌だろうと、心が寒くなった。特に「狂乱を舞ふ」の句が、短歌にそぐわない、狂気をはらんだ表現に聞こえ、このあと蓮子はどうなってしまうのかと気がかりになる。

柳原白蓮は、大正三美人の一人と言われるそうだが、白蓮の写真と、仲間由紀恵の蓮子はよく似ているように思われ、役柄にもぴったりはまっているように見受けられる。
当分は、主役そっちのけで、蓮子目当てにこのドラマを見続けることになりそうだ。

歌会 その二

2014-05-24 23:51:14 | 短歌
感想
上田三四二(みよじ)著『短歌一生』の「作歌の指標」に、歌会についてこのようなことが書かれていた。
私の今日あるのは、初心にして歌会に鍛えられてきたおかげだと思っている。
自分のことは自分がいちばんよく知っているというのは一面の真理にすぎない。ネクタイの柄の好みはわが心だが、ゆがみを直すには鏡が必要だ。歌会は出席者の数だけの鏡だと思えばいい。いい鏡もあり、感心しない鏡もあるだろう。が、それだけたくさんの鏡に直接わが歌を写して見られる機会などというものは、ほかにめったにあるものではない。歌会はわが歌のかたちを正すだけではなく、柄の好みについても学ぶところがあるはずである。
すぐれた指導者、信頼できる先達(せんだつ)、競合する親しい友人に恵まれた歌会ほど幸せなものはないが、そういう理想にはとおくとも、まだどのような構成の歌会であれ、歌会は歌の勉強に有効だと私は信じている。一人で勉強するというのはよほどの強者でなければかなうことではない。歌会をやりなさい、そう私は歌を勉強したいという人にすすめている。地域の数人、それが最小の条件であり単位である。あるいは最良の単位かもしれない。気軽に集まりうることが必要だ。また、気心の知れていることが必要である。よき指導者が得られれば言うことはないが、仲間同士の批評でも、他人の批評というものには作者の気づかない部分への目があって啓発されるものである。

今回、歌会に初めて参加して、ここに書かれていることの意味がよくわかった。
詠歌についての、作者と読者とのやりとりを通して、〈歌に対する見方〉という型を学び、あるいは共有する体験を持つことの意味は極めて大きい。
その歌を詠んだ人は、読者の観点からは自分の詠歌がどう見えるかを知り、読者は、その歌を詠んだ人の詠歌当時の心理や創作過程を追体験し、お互いに批評し合う中で、作者と読者の観点を往還することになる。
また、実作と理論の双方での精神的支柱ともいうべき指導者の存在があるのも、歌作の指針を示していただくことができ、非常に励みになる。

上田氏の言う、「率直にして私心なき、信頼の上に立つ切磋琢磨」という機会が得られた幸運を思う。

歌会 その一

2014-05-23 23:41:48 | 短歌
先月の「初心者短歌講座」に出席した折に、先生から地域の歌会への参加を勧められた。そこで先日の「初夏の短歌講座」の際に、その代表の方にご挨拶し、今回の歌会を見学させていただくことになった。

この歌会は、駅前にある結社の本部事務所で月1回、金曜日の夜7時から行われており、仕事を持つ者でも参加しやすい。この日は助言者に先生をお迎えし、出席者は9名、詠草のみ提出の方が2名であった。

参加されている方々にご挨拶し、この会について説明を受けた後、まず先生による『百人一首』の講読が始まった。今回は、大弐三位(だいにのさんみ)の、
  ありま山ゐなの篠原(ささはら)かぜ吹けばいでそよ人を忘れやはする
について。

先生は、大弐三位の歌才は母である紫式部をはるかにしのぐと言われ、この歌は『百人一首』でも指折りの名歌だと評価されていた。そして、篠原に風が吹く情景は、歌の世界では、あやしく人の心を騒がせるものであることを指摘し、萩原朔太郎の詩(「旅よりある女に贈る」のことか)や、柿本人麻呂の、
  ささの葉はみ山もさやにさやげども我は妹思ふ別れ来ぬれば
を挙げておられた。

その後は、出席者の詠歌の披露と、先生による歌の添削。出席者は前日までに担当者に詠歌二首を送る決まりになっており、机の上には全員分の歌がパソコンで清書され、置かれていた。この会では、作者が自分の歌を詠み上げた後、次の順番の歌の作者がその歌について感想を述べ、先生が添削している間に、出席者同士で意見や感想を言い合うようになっている。
作者の名を伏せての批評でなく、誰の歌かが分かっている中で、作者の人柄との関わりや、その歌がどんな状況から生まれてきたかを理解し共感することを大切にしているように思った。一方で、歌の内容や表現に関する疑問や批評は率直になされ、出席者の方々の意欲と見識の高さを感じた。

私の歌についても、いろいろと質問や意見をいただいた。
(提出歌)
  さらさらと小雨降る朝通勤の車窓を叩く雨音を聞く
(添削後)
  さらさらと雨は降りつつ通勤電車の窓を叩くをしばらく見てゐる
 【解説】
この歌は先日の記事(5/15)に書いた、朝の通勤途中で降っていた雨を詠んだもの。出席者の方からは、情感の伝わるソフトな印象の歌で、通勤の途中に気づいたささやかなことを歌にできているのがよい、ということを言っていただいた。一方で、「通勤の車窓」が何の車(バス、電車、マイカー?)か分からず、「さらさらと」と「叩く」の語感が齟齬を来す点への指摘もあった。先生の添削は、そのあたりをうまく直してくださっているように思う。

(提出歌)
  初夏にそほふる雨はやはらかに山々の木々包みいとしむ
(添削後)
  初夏の雨やはらかに山々を包むがごとく音もなく降る
 【解説】
出席者の方からはまず、「そほふる」か「そぼふる」かで質問が集中した。古くは清音なのだが、現代の歌人の感覚からは後者が普通だろう。古典に出てくる言葉で、現代でも形や意味を変えて残っている場合は、使用にあたって配慮が必要なことを感じた。
また、第五句の「いとしむ」について、「言わなくても良かったかも…」と、若干の違和感を指摘された。「慈雨」(いつくしむ雨)のイメージで詠みたかったことを説明したが、確かにこの言葉を使わずに、降る雨の描写だけでそうと分からせるように詠むのが腕の見せ所であろう。先生の添削は、相変わらず見事である。