夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

間もなく卒業

2015-02-28 12:13:07 | 日記
私の勤務校では、間もなく卒業式。
昨日は、学校近くのレストランで、私が教えに行っているクラスのお別れ会があり、呼ばれてピザパーティーに参加した。
食べ放題のピザやパスタが次々に運ばれてくるのだが、どれもおいしい。
かまどで焼きたての、熱々のピザをほおばりながら、他の先生方や生徒たちと楽しい時間を過ごした。

この日は、月次の歌会に参加するため、途中で退席し、デザートのスイーツが食べられなかったのが残念。

今日は午前中、職場で、来週から行われる定期考査の問題を作っていたら、昨春の卒業生が(現在は松江におり、昨年の9月にも来訪)、山陰銘菓「大風呂敷」をお土産に遊びに来た。
何でも、特急「やくも」で先ほど岡山に着いたばかりで、そのまま学校に寄ってくれたのだという。
私が担任した去年の3年生たちが卒業してもう1年。
彼らはラインで現在もつながり、連絡を取り合うだけでなく、帰省したときには一緒に食事に行ったり、カラオケに行ったりしている。
同じ大学に行った級友とは、学部は別なのにしばしば会い、先日は下宿で鍋パーティーをしたそうだ。

こういう話を聞くと、担任として、これだけ仲のいいクラスの生徒たちと関わることができてよかったという気になる。

月次の会・二月 (その1)

2015-02-27 23:55:14 | 短歌
今回は、先生の他に9名が参加。
『百人一首』講座は、周防内侍(すおうのないし)の、

  春の夜の夢ばかりなる手枕(たまくら)にかひなく立たむ名こそ惜しけれ

の歌について。
この歌は、出典である『千載和歌集』(雑上・964)では、やや長い詞書が付されている。

二月ばかり、月あかき夜、二条院にて人々あまた居明かして、物語などし侍りけるに、内侍周防寄り臥して、枕もがなと忍びやかにいふを聞きて、大納言忠家(ただいへ)、これを枕にとて腕(かひな)を御簾(みす)の下よりさし入れて侍りければ、詠み侍りける

二条院は、後冷泉天皇中宮章子内親王。
二条院の御前に、お仕えする女房や殿上人などが集まって宿直していた夜、雑談をしながら起きていた周防内侍が眠くなり、物に寄り臥して「枕がほしいわ。」と言ったのを、大納言の藤原忠家が耳ざとく聞きつけて、御簾の下から腕を差し入れて、「どうぞこれを枕にお使いください。」と言ったので、詠んだ歌、ということになる。

周防内侍の歌は、〈もしあなたのこの腕を枕として借りたなら、春の夜の夢のようにはかない、かりそめの逢瀬を交わしたと、つまらない噂が立って、私の名が汚されることになろうかと思うと口惜しいのです〉と、忠家の戯れをはねつけたものである。

「手枕」は、男女が共寝をするときに、相手の腕を枕に眠ることをいう。
周防内侍の歌に、「かひなく」とあるのは、「甲斐無く」に手枕の縁で「腕(かひな)」を掛けたもの。

先生は、「この歌は非常に調べのよい名歌で、詞続きに全くよどみがない。」と賞賛しておられた。
ただ、それだけに、「当意即妙に作った歌とも思えないところがある。歌が立派すぎて、『千載集』の詞書にある詠歌事情も虚構ではないか?にわかに信じがたい。周防内侍は才人だが、この歌以外にはさほどよい歌がない。」
とも言っておられた。

余談だが、この歌を読んで私がふと思い出してしまったのは、「たまくら」というホテルである。これは玉島と倉敷のちょうど中間にある。
昔、近くを通りかかったとき(誓ってもいいが中には入っていない)、なるほど連れ込み宿だから「玉・倉」に「手枕」を掛けてこう名づけたにちがいない、と妙に感心したものだ。

今回の詠歌については、また次回に紹介する。

石川啄木展 (その1)

2015-02-25 23:05:10 | 短歌
先日、岡山吉兆庵美術館で開催中の「石川啄木展―心に響く歌―」を観に行った(3月15日まで)。


この企画展で特に印象に残ったのは、二葉の橘智恵子宛絵葉書である。

そのうちの一つは明治42年6月2日のもの。橘智恵子は、啄木が北海道時代、函館の弥生小学校で教員をしていた頃、同僚であった教師である。
二人が出会ったのは明治40年6月であり(啄木22歳)、木股知史氏によれば、

啄木が弥生小学校の代用教員として勤務したのは、明治四十年六月十一日から九月十二日までの短期間であったが、橘智恵子は深い印象を啄木に残した。(和歌文学大系77『一握の砂・黄昏に・収穫』明治書院、補注)

とあり、啄木の歌集『一握の砂』に収められた「忘れがたき人人」の「二」の二十二首は、智恵子への思いを詠んだ歌である。

明治43年12月24日付の橘智恵子宛葉書には、

心ならぬ御無沙汰のうちにこの年も暮れむといたし候 雪なくてさびしき都の冬は夢北に飛ぶ夜頃多く候、数日前歌の集一部お送りいたせし筈に候ひしが御落手下され候や否や、そのうちの或るところに収めし二十幾首、君もそれとは心付き給ひつらむ(下略)

とある。『一握の砂』を送られた智恵子は、啄木が自分を思う歌をどんな気持ちで読んだのだろうか。

  君に似し姿を街に見る時の
  こころ躍りを
  あはれと思へ

  時として
  君を思へば
  安かりし心にはかに騒ぐかなしさ

  わかれ来て年を重ねて
  年ごとに恋しくなれる
  君にしあるかな

妻子がありながらこんな歌を詠むのはどうかと思わないでもないが、生活苦に追われ職も住み処も転々とした啄木にとって、現実には結ばれるあてがないゆえに、智恵子の存在がますます痛切に慕わしいものになっていったことは十分に考えられる。木股知史氏も、

直接告白することはないが、お互いに心の交流は自覚しているという、現実化を断念した恋のかたちであるからこそ、個人的なメモリアルを超えて、普遍的な感情の表現となっているのである。(同補注)

と書いている。
学ぶことの多い企画展だったので、啄木展の話題はまた取り上げる。

春のおとずれ

2015-02-24 22:24:26 | 日記
昨日に続き、岡山市内では黄砂の飛散により、街全体に靄がかかったように霞み、遠くが見えない。
今年もそういう時期がやってきたかと思いながら、濁ってよどんだ空を眺める。
ここのところ空気がぬるみ、春の訪れを実感する毎日だが、洗車してもすぐ車体に白く塵が積もるのをやや憂鬱に思いながら出勤する。

校庭の梅は開花が進んだが、私の愛する校舎の谷間の梅(参照 その①その②)は、まだ蕾が固いままだ。
今年もやはり、3月の上旬まで待たないといけないだろうか。

勤務校は今日は入試日だったのだが、昼休みにひょっこり、昨春の卒業生が訪ねて来てくれた。
しかも、段ボール1箱分のジュースと、ビニール袋いっぱいのお茶を携えて。
卒業生には、
「来てくれるだけで嬉しいから、お土産まで気を遣わないでくれたまえ。」
と言っているのだが、自分たちの後輩にぜひ、ということらしい。
せっかくなので、ありがたくいただくことにした。

今日来訪した2人は、広島と兵庫の私大にそれぞれ進学したのだが、現在春休みで帰省中らしい。
そうだ、大学は夏休みも長いが、春休みも2ヵ月近く休めるのだ。

同じクラスの仲間たちが、今どうしているかという話題でひとしきり盛り上がった。
また、現在浪人中で、明日から国公立大学の前期試験を受験する者たちが頑張っているという話も聞き(彼らはラインなどで今でも連絡を取り合っているそうだ)、その成功を祈らずにはいられなかった。
卒業した生徒たちが、母校を忘れず、しばしばやって来てくれるのは、私たちの教育が決して教えっぱなしではなかったことを知らせてくれ、ほっとした気持ちにさせてくれる。

服部忠志「体温」

2015-02-22 22:28:23 | 短歌
服部忠志は、昭和27年10月、合同歌集『候鳥』(扇畑忠雄、岡部文夫、二宮冬鳥との四人歌集)を刊行した。「候鳥」は、渡り鳥の意味。
「体温」はその中の忠志の歌集で、昭和25年3月から10月に至る期間に詠んだ歌から150首を自選したもの。
私が詠んで特に印象に残った数首を以下に挙げる。

  をとめごのひたひのうぶ毛汗うきて言(こと)はやりかに寄りてこそ言へ

昭和14年に生まれた十歳余りの長女・由美子のことと思われるが、わが娘を見つめる愛情に溢れた父親のまなざしが目に浮かぶ。
何かよほど伝えたいことがあったのか、額に汗を浮かべながら、父親のそばに寄って来て、ぺらぺらとしゃべる様子がいかにも少女らしく、可愛らしい。

  教育基本法を一通り読みてどうしてもわからぬところとわかるところとあり
  教育はときのはやりにあらねども直訳の語を読みあぐねたり

教育基本法(旧)は、昭和22年制定。「人格の完成」を教育の目的に据えるこの法が、戦前の教育への否定的立場から、わが国の国柄や伝統に対する顧慮に乏しいこと、欧文直訳のような文体で、どの国の法律かと疑われることは、私も感じていた。(平成18年改正)
現在は削除されたが、旧法では「男女共学」の項目があり、「 男女は、互に敬重し、協力し合わなければならないものであつて、教育上男女の共学は、認められなければならない。」とされていた。私は、男女別学にも相応の意義があると確信しているので、男女平等の精神と共学とは別の問題だろうと考えていた。

    (秋の蒜山にて)
  高原に秋のけはひのはやくして鱒のそだたむみづ冷えまさる

岡山県北の蒜山(ひるぜん)高原では、県南の岡山市内よりも秋の訪れが早く、鱒の養殖池の水が冷たく冴えていることを詠んだ歌と思われる。

この歌集の後記には、

作歌は、作者の人間表白に凡てがつながりをもち、そこに面白さがある。作者の人間性から遊離した作の空転に何程の意義があらう。作歌は勿論一作一作の勝負だが、同時に、一群一群の、更に一集一集の勝負である。更に言へば、生涯を貫く連作の高さと深さと拡(ひろが)りと大きさに於て勝負は決せられねばならない。魯鈍(ろどん。愚かの意)僕と雖も、いや、それであれば尚更自重しなければなるまいといふことになる。

とあった。

服部忠志がこのような歌観、一生を貫く覚悟で作歌していたことを知り、改めて歌の道の厳しさを思った。