夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

上賀茂神社 その2

2014-05-09 23:33:31 | 旅行

重要文化財の楼門(写真)の内側に入ると、国宝の本殿・権殿(ごんでん)がある。
普段は見ることができないが、「国宝・本殿の特別参拝とご神宝の拝観」を申し込めば(有料500円)、参拝ができ、神職から神社の由来などについて説明をしてもらえる。
他の参拝客と共に、神職から御祈祷を受け、来年の式年遷宮や建物について色々と教えていただいた。このとき、メモをとっておけばよかったのだが、うっかり忘れて、後から思い出すこともできず、困っていたところ、雑誌『一個人』6月号が「京都の世界遺産」を特集しており、上賀茂神社について、神職の解説とほぼ同じことを言っているところがあったので、そこを引用する。

今の本殿は江戸時代末期、孝明天皇の時代に造り替えられたものだが、平安前期の様式を伝える三間社流造の典型例として、国宝に指定されている。その隣にある権殿も国宝だ。構造も内部の調度もすべて本殿と同じに造られており、非常時などに神様をお遷しするための建物である。(中略)
この神社では、境内の背後にある神山がご神体山としてたいへん重要であるため、この山に向かって祭祀を行うように配置されている。参拝者も、楼門や中門から、神山に向かって拝むことができる。

神職が説明している間、私の隣に座っていた、恋人連れの女の子のほうが、ずっと熱心に耳を傾け、うんうんと(実際に声に出して)うなずきながら聞いていた。歴史好きの女性のことを「歴女(レキジョ)」というそうだが、その資格じゅうぶんにありだなあと、なんだかおかしかった。


細殿に近い授与所のそばに、しだれ桜が咲いていた。
あれから半月以上が過ぎ、賀茂両社ではまもなく葵祭(5月15日)が行われる。
王朝絵巻さながらと言われる華やかで優雅な祭だが、平安・鎌倉時代には宮中から勅使も派遣される国家的な祭祀であり、『枕草子』『源氏物語』『狭衣物語』などの文学作品の題材にもなっている。
先日(5/4)、上賀茂神社で斎王代御禊(さいおうだいみそぎ)の儀が行われたことが報じられていた。斎王代は、現代の葵祭のヒロインであり、葵祭に先立って身を清め、祭の無事を願う。『一個人』6月号には、
葵祭を知る上で欠かせないのは、まず斎王代の存在である。斎王とは、伊勢の神宮及び賀茂両社に巫女として奉仕した未婚の内親王または女王(親王の娘)のことで、現在は皇族の女性ではなく、一般の京都市民の中から選ばれるため、斎王ではなく斎王代と呼ぶ。
と説明があった。

今回、賀茂両社を参詣して、知識としては知っていたが、改めて神社としての格式の高さを感じた。後鳥羽院にとってはおそらく、皇祖神を祀る伊勢神宮、石清水八幡宮に次ぐ社格の王城鎮守神であり、その祭祀と信仰と和歌の結びつきの強さへの理解が深まったと思う。

上賀茂神社 その1

2014-05-08 23:52:38 | 旅行
やや前のことになるが、4/20に京都に行った話題の続き。
午前中いっぱいかけて下鴨神社を参拝し、午後は市バスに乗って上賀茂神社へ。
上賀茂神社は、賀茂別雷(わけいかずち)神社ともいい、下鴨神社より5㎞ほど北西に行ったところにある。
神社の由緒書によると、神代の昔、賀茂別雷神が現在の社殿の背後にある神山(こうやま)に降臨し、天武天皇の白鳳六年(678)に賀茂神宮が造営され、現在の社殿の礎が築かれたのだという。
平安京遷都以後は、王城鎮護の神として歴代天皇が行幸したのをはじめ皇族、貴族、武家から格別の崇敬を集め、特に方除けの神として信仰されてきた。


『後鳥羽院御集』には、元久元年十二月に賀茂上社に奉納した三十首和歌が収められているが、それを読む限り、同時に賀茂下社に奉納した三十首よりも思い入れの度合いが強いように以前から感じていた。
  賀茂山のふもとのしばの春風に御手洗(みたらし)川のこほりとくらし(春・1229)
  夏と秋と行きかふ夜半の波の音のかたへすずしき賀茂の川風(夏・1240)
  心すむためしなりけりちはやぶる賀茂の川原の秋の夕暮(秋・1241)
  賀茂山や山吹く風はのどかにて神の誓ひも頼もしの世や(雑・1253)
  御手洗や神の誓ひを聞く折ぞなほ頼みあるこの世なりける(雑・1258)
最後の二首に「神の誓ひ」という言葉が詠み込まれているが、後鳥羽院はこの神に何を祈ったのかずっと気になっていた。


上賀茂神社の神域を流れる御物忌川(おものいのがわ)、御手洗川(みたらしがわ)は橋殿という建物の所で合流し、ならの小川となる。『百人一首』で有名な藤原家の、
  風そよぐならの小川の夕暮はみそぎぞ夏のしるしなりける
は、この神社で毎年六月末に行われる夏越祓(なごしのはらえ)式の情景を詠んだものだそうだ。


細殿と呼ばれる建物の前に二つ並んだこの立砂(たてすな)は、上賀茂神社の象徴としてよく知られている。
もとは、神山に降臨された御祭神を里にお迎えする際に、山をかたどって作られた依代(よりしろ)なのだという。


よく見ると、立砂の頂には松の葉が立てられている。
これは昔、神山から引いてきた松の木を立てて神迎えをしていた名残といわれているそうだ。

この日、細殿では、私がいる間だけでも、何組もの方々が神前で挙式されていた。
重要文化財の社殿での結婚式はとても厳かで、見ているこちらも気持ちが引き締まるようだった。
上賀茂神社の話題は、もう一度取り上げる。

大炊殿

2014-04-25 23:19:19 | 旅行
下鴨神社は、上賀茂神社とともに、来年式年遷宮(しきねんせんぐう)を迎える。
これは、二十一年ごとに御本宮以下の社殿を造り替えることだが、社殿の多くは国宝・重要文化財であるため、現在では大修理をもって式年遷宮に替えている。
「下鴨神社の年中行事と式年遷宮」は、その記念として行われる特別展であり、第1回「みあれのまつり-御蔭祭と賀茂祭(葵祭)」が現在開催中である。(6月下旬まで)
毎年行われる、5月12日の御蔭(みかげ)祭と、5月15日の賀茂祭(葵祭)に関する当社所蔵の資料が展示され、『賀茂葵祭絵巻』(江戸時代中期)が初めて公開されるというので、楽しみにしていた。


会場は、神社境内の西端にある御車舎資料館で、そのすぐ隣にある重要文化財の大炊殿(おおいどの。写真)も、普段は入れないが特別公開(共通券が必要)となっている。
大炊殿は、毎朝神前に捧げる供え物や、すべての年中行事の際の食材を調理する「神様の台所」である。
大きな竈や、大釜、水桶、臼などがあり、ここで神に献じられる御飯、餅、長芋、昆布などを煮炊きしていたのかなと思う。
庭に出ると、桂の木の新緑がまぶしい。


この辺りにはもともと、葵祭などの年中行事の際に斎院(賀茂社に奉仕する未婚の皇女)が滞在する御所があったが、応仁・文明の乱の兵火で消失し、大炊殿や葵の自生する「葵の庭」だけが再現されたのだという。
この葵(フタバアオイ)は、賀茂神社の祭事に用いられ、同社の社紋でもある。
「葵の庭」の由来を説明する立て札に、賀茂斎院であった式子(しょくし)内親王が詠んだ、
  忘れめや葵を草に引き結び仮寝の野辺の露のあけぼの(新古今集・夏・182)
の歌が紹介されていた。これは、葵祭のために式子内親王が賀茂社の神館(かんだち=神事や潔斎のためにこもる建物)に泊まった際の作とみられる。


「葵の庭」に咲いていたイカリソウの花。
船の錨にたとえられる変わった形の花だが、淡い紫の色でとてもかわいい。

下鴨神社

2014-04-24 23:35:15 | 旅行

下鴨神社は、正しくは賀茂御祖(かもみおや)神社といい、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)と玉依媛命(たまよりひめのみこと)の二神を祀る。
洛北の鴨川と高野川の合流点に位置し、平安遷都後は王城鎮護の神として崇敬されるようになった。後鳥羽院は特に信仰が篤く、度々参詣もしており、『新古今和歌集』の撰集が完成に近づいた元久元年(1204)十二月には、三十首和歌を奉納もしている。(このときは他に、石清水八幡宮、賀茂上社、住吉社、日吉社にも三十首和歌を奉納している。)


下鴨神社の神域には、多数の樹木が鬱蒼と生い茂り、糺(ただす)の森と呼ばれている。その中を参道に沿って歩いていくと、左手に瀬見(せみ)の小川、右手に泉川、大鳥居の前に奈良の小川など、清冽な水の流れに、心身共に癒されるような気がする。

  下鴨の糺の森に響(とよ)むなり瀬見の小川の水のせせらぎ


国宝の東御本宮・西御本宮にお詣りしたが、この日は日曜日と大安が重なっていたため、境内では神前式の花嫁行列と何度もすれ違った。
朝から、いつ雨が降り出してもおかしくない空模様であったが、結局夕方まで天気が保ったのは、神様の思し召しか。
写真は、境内の外れにある井上社で、人々の罪穢れを清めてくださる神様という。この池は御手洗(みたらし)池といい、葵祭(賀茂祭)に先立つ、斎王代御禊(ごけい)はここで行われる。(ただし、一年交替のため、今年の斎王代御禊は上賀茂神社。)


井上社は、御手洗川の源流が湧き出している井戸の上にお社があるため、そう呼ばれるのだそうだ。また、みたらし団子は、御手洗池の水泡の形を模したもので、ここが発祥の地なのだという。
御手洗川にかかる太鼓橋のたもとに、八重山吹が盛りに咲いていた。
晩春を彩るその花を見ていると、過ぎて行く春が別れの時期を告げるかのように思えてくる。

河合神社

2014-04-23 23:17:06 | 旅行
この日は、後鳥羽院の和歌と信仰との関わりの深い神社巡りで、下鴨(しもがも)神社へ。
京阪電車に乗って出町柳駅で降り、徒歩十分ほど、まず摂社の河合神社へ参る。


河合神社は下鴨神社内にあり、神武天皇の母神・玉依姫命(たまよりひめのみこと)を祀る。
女性の守護神・美麗の神として近年ことに崇敬を集めているそうで、多くのご婦人方が参詣されている。
美人になる御利益があるというが、女性の美への欲求は、かほどに強いものであることを感じる。


河合神社の境内には、方丈の草庵が再現されていた。
『方丈記』の作者・鴨長明は、下鴨神社の禰宜(ねぎ)の家に生まれたが、早くに父親を亡くした。和歌や琵琶に優れ、一時期、後鳥羽院歌壇でも活躍するが、その後、河合社禰宜への道が閉ざされ出家。大原山に隠棲し、やがて日野に移り、方丈の庵を結んだ。


『方丈記』にあるように、「広さはわづかに方丈(四畳半ほどの大きさ)、高さは七尺がうちなり」という草庵の中には、阿弥陀画像が掛けられ、「和歌・管弦・往生要集ごときの抄物(抜き書き)」と思しき物も置いてあった。
究極の簡素な住まいで、
「ただ仮の庵のみ、のどけくして恐れなし。程せばしといへども、夜臥す床有り、昼をる座あり、一身の宿すに不足なし。」
とか、
「ただ静かなるを望みとし、愁ひなきを楽しみとなす。」
と『方丈記』には書かれている。しかし、私はどうしてもこのような寂しい住まいを、「自らこれを愛す」と言える境地にはなれそうにないと思った。山里での孤独な生活を風流に楽しめるほど、私は心を強く保つことができない。

境内には、鴨長明の資料展示もあり(有料。共通券を購入)、複製品が多いものの、長明と『方丈記』の勉強になり、気づいたらここだけでかなりの時間を過ごしていた。