前著『テレビの大罪』(新潮新書)を読んで、教えられること、共感することが多かったので、この本も手に取ってみた。
特に印象に残った項目について、簡単に紹介してみる。
知識人のためのチャンネルがない(第2章)
日本で放映されている番組のほとんどは、どれも決まりきっている。知的関心の高い層に向けた専門のテレビ局がない。たとえば、ニュース番組が朝、昼、夕方、夜の特定の時間帯に固まっているために、それ以外の時間で、政治についての最新ニュースについて知りたいと思っても、該当する番組がない。
欧米や中国、また他の国でも、ニュースや討論番組、歴史、科学、美術など、さまざまな知識欲に応えてくれる専門チャンネルがあり、観たいときにいつでも番組を楽しめる。このような違いが、国民の知的レベルにもたらす影響を憂慮すべきだ。
子どもの学力低下を促す「バカ礼賛」(第2章)
特番を含め、クイズ番組を目にしない日はない。それ自体が悪いわけではないが、考えたり分析したりする「知力」でなく、いかに物知りかという記憶力だけが評価の物差しになっている。雑学やうんちくをひけらかす一流大学出身の芸能人やアナウンサーがもてはやされる一方で、B級アイドルや芸人が、わざとトンチンカンな答えをしたり、「おバカ」度を競うような風潮は問題だ。
認知的成熟度が退行する怖さ(第3章)
人間の認知は成熟してくるにつれて、物事には白か黒かだけでなく、中間に位置するグレーが存在し、それにも様々段階があることが理解できるようになる。本来一般的な大人は、教育を受け、社会的な経験も積んで、思考様式も発達・成熟しているのが当然である。大人同士であれば、お互いにグレーの存在を認め合って、軋轢や衝突もうまく回避したり、多少の違いには目をつぶって協力し合ったりができる。
しかし、テレビは単純に白黒で分ける傾向が顕著なので、幼い頃からテレビ漬けになると、認知的成熟度が発達しないまま成長するリスクが高まる。大人でも、長時間テレビばかり見ているうちに、認知度が退行し単純化して、善悪二元論の思考パターンしかできなくなる恐れがある。
私自身はテレビをたまにしか見ないが、和田さんが指摘されるような問題があることはよくわかる。
就職してから、長時間労働に加えて、家に帰ってからも仕事のための勉強、自分の勉強、趣味の時間をとりたいので、テレビは自然と見ないようになった。その後故障しても直さないまま地デジ化が進行し、テレビを見るとしたら、外食や散髪の時に店でつけている番組を見る程度だ。しかし、ニュース・スポーツ、本格的な音楽番組、教養系の番組の他は、見るに値しないものが多いように感じる。
特にバラエティは、「ひな壇」形式のクイズ・トーク番組ばかりで、芸人やタレントの笑えない話がだらだら続く。ちゃんと聞こえているし、面白くもないのに、彼らの会話の一部がテロップででかでかと表示される。ニュースやスポーツ中継でも、音声だけでなく、文字による説明が過剰に画面に表示される。今のテレビ番組の制作者たちは、視聴者の識字レベルをどのくらいと想定しているのだろう。
もちろん、私が見ない時間帯・局で、多数の良心的な番組が作られているだろうことも承知している。賢い、「選択的な視聴者」になればいいではないか、とも言われそうだ。しかし、テレビがあることで見なくてもいい番組まで見てしまう損失と、テレビがないために見ておくべき番組を知らず見ることもない損失とを比べたら、後者の方が軽微だと私は思うのだ。(ただ、数年前に漫画『あんどーなつ』がドラマ化されたときだけは、毎週見た。何度かは、勤務先のテレビで見させてもらった)。
自分自身は、中学・高校の頃にテレビでアニメ・歌謡・ドラマばかり見ていた癖に、偉そうなことを言うけれども、今の生徒たちには、あまりテレビ番組を見てほしくない。映像や放送の技術は大幅に進歩したが、内容も進歩しているとはお世辞にも言えない。私たちが見ていたころより、テレビでやるのはいずれも陳腐で低俗なものが増えているように感じる。特にアニメは、映画であれだけ質が高く良心的な作品が出ているのに、昔と比べて、テレビと映画のアニメの質がかけはなれ過ぎているように思う。
本の内容は、前著の方が充実していた感はあるが、現代日本の重要な問題点を指摘してくれていることは変わらない。とりわけ、子どもと深く関わる、親や教師たちが、一人でも多くこの本を読んでいただきたいと思う。
特に印象に残った項目について、簡単に紹介してみる。
知識人のためのチャンネルがない(第2章)
日本で放映されている番組のほとんどは、どれも決まりきっている。知的関心の高い層に向けた専門のテレビ局がない。たとえば、ニュース番組が朝、昼、夕方、夜の特定の時間帯に固まっているために、それ以外の時間で、政治についての最新ニュースについて知りたいと思っても、該当する番組がない。
欧米や中国、また他の国でも、ニュースや討論番組、歴史、科学、美術など、さまざまな知識欲に応えてくれる専門チャンネルがあり、観たいときにいつでも番組を楽しめる。このような違いが、国民の知的レベルにもたらす影響を憂慮すべきだ。
子どもの学力低下を促す「バカ礼賛」(第2章)
特番を含め、クイズ番組を目にしない日はない。それ自体が悪いわけではないが、考えたり分析したりする「知力」でなく、いかに物知りかという記憶力だけが評価の物差しになっている。雑学やうんちくをひけらかす一流大学出身の芸能人やアナウンサーがもてはやされる一方で、B級アイドルや芸人が、わざとトンチンカンな答えをしたり、「おバカ」度を競うような風潮は問題だ。
認知的成熟度が退行する怖さ(第3章)
人間の認知は成熟してくるにつれて、物事には白か黒かだけでなく、中間に位置するグレーが存在し、それにも様々段階があることが理解できるようになる。本来一般的な大人は、教育を受け、社会的な経験も積んで、思考様式も発達・成熟しているのが当然である。大人同士であれば、お互いにグレーの存在を認め合って、軋轢や衝突もうまく回避したり、多少の違いには目をつぶって協力し合ったりができる。
しかし、テレビは単純に白黒で分ける傾向が顕著なので、幼い頃からテレビ漬けになると、認知的成熟度が発達しないまま成長するリスクが高まる。大人でも、長時間テレビばかり見ているうちに、認知度が退行し単純化して、善悪二元論の思考パターンしかできなくなる恐れがある。
私自身はテレビをたまにしか見ないが、和田さんが指摘されるような問題があることはよくわかる。
就職してから、長時間労働に加えて、家に帰ってからも仕事のための勉強、自分の勉強、趣味の時間をとりたいので、テレビは自然と見ないようになった。その後故障しても直さないまま地デジ化が進行し、テレビを見るとしたら、外食や散髪の時に店でつけている番組を見る程度だ。しかし、ニュース・スポーツ、本格的な音楽番組、教養系の番組の他は、見るに値しないものが多いように感じる。
特にバラエティは、「ひな壇」形式のクイズ・トーク番組ばかりで、芸人やタレントの笑えない話がだらだら続く。ちゃんと聞こえているし、面白くもないのに、彼らの会話の一部がテロップででかでかと表示される。ニュースやスポーツ中継でも、音声だけでなく、文字による説明が過剰に画面に表示される。今のテレビ番組の制作者たちは、視聴者の識字レベルをどのくらいと想定しているのだろう。
もちろん、私が見ない時間帯・局で、多数の良心的な番組が作られているだろうことも承知している。賢い、「選択的な視聴者」になればいいではないか、とも言われそうだ。しかし、テレビがあることで見なくてもいい番組まで見てしまう損失と、テレビがないために見ておくべき番組を知らず見ることもない損失とを比べたら、後者の方が軽微だと私は思うのだ。(ただ、数年前に漫画『あんどーなつ』がドラマ化されたときだけは、毎週見た。何度かは、勤務先のテレビで見させてもらった)。
自分自身は、中学・高校の頃にテレビでアニメ・歌謡・ドラマばかり見ていた癖に、偉そうなことを言うけれども、今の生徒たちには、あまりテレビ番組を見てほしくない。映像や放送の技術は大幅に進歩したが、内容も進歩しているとはお世辞にも言えない。私たちが見ていたころより、テレビでやるのはいずれも陳腐で低俗なものが増えているように感じる。特にアニメは、映画であれだけ質が高く良心的な作品が出ているのに、昔と比べて、テレビと映画のアニメの質がかけはなれ過ぎているように思う。
本の内容は、前著の方が充実していた感はあるが、現代日本の重要な問題点を指摘してくれていることは変わらない。とりわけ、子どもと深く関わる、親や教師たちが、一人でも多くこの本を読んでいただきたいと思う。