夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

荷作り

2013-07-31 23:55:27 | 日記

明後日から教員対象の研修(しかも宿泊)がある。
明日、午前中仕事をしてから岡山を出発するので、先ほどから荷作りをしている。
もう遅いので、きりのよいところまでやったら寝よう。


岡山には、しばらく帰って来れない。
研修の前に、もう少し仕事を片付けておけばよかったかな。
いちおう、私がいない間のことは、何人かの先生に頼んでおいたから大丈夫とは思うが。


上の写真は、豊島に行ったとき撮ったもの。
早咲きのコスモスや、王子が浜に咲いていたサボテンはきれいだった。
やはり、花を見ていると心がなごむ。

豊島(3)

2013-07-30 22:50:54 | 旅行

甲生地区から再び唐櫃の岡に戻り、豊島美術館へ行く。
標高100mほどの高い岡から海までの斜面に棚田が広がる。
この島は小雨地域だが、湧き水が豊富なので、昔は稲作が盛んだったそうだ。
今の棚田は、地元の方の尽力で再生されたものだという。


豊島美術館はこの美しい岡にあり、中央の白い、穴の開いた建物がアートスペース、左の白い小さな建物がギャラリー&カフェ。
ただし、美術館とはいっても、絵画や彫刻作品を展示した通常の美術館ではない。
写真左の、樹木の茂った天神山の周囲の遊歩道を進み、視界の左手に広がる唐櫃港や海の景色を眺めつつ、アートスペース入口に辿りつくと、スタッフから「靴を脱いで中に入ってください」云々という説明を受ける。


(エキサイト・イズム・コンシェルジュ2010年10月16日「豊島美術館 環境、アート、建築の融合:瀬戸内国際芸術祭」の記事から転載)

狭い入口から中に入ると、ハマグリの貝殻のような構造になっており、天井に二ヶ所、大きな穴が穿たれ、空が覗いている。
床は、どういう仕組みになっているのか、あちこちから水が沁み出し、随所に水たまり(美術館のパンフレットでは「泉」と称しているが)ができている。
床のコンクリートが撥水加工されており、また適度な傾斜があって、外から風も入り込んでくるので、水たまりから水が流れ出したり、水たまり同士がくっつきあったり、「泉」は絶えず表情を変えている。
真夏なのに、このアートスペースの中は爽やかな風が吹き、涼しい快適空間である。
人々は、水の動きに見入ったり、天井穴から空を眺めたり、横になってやすんだり、思い思いに過ごしている。
私も、腰を下ろして「泉」を眺めつつ、極楽浄土の蓮の葉の上にいたら、こんな気分だろうか、と思ったりした。


名画や彫刻などが置いてあるわけでもないが、極楽体験ができたのは楽しかった。
美術館を出た後、岡の上から、自転車で一気に坂を駆け抜け、唐櫃港へ。


漁船の群れを眺めながら、さらに自転車で進んでいき、その日最後の鑑賞となった作品が、クリスチャン・ボルタンスキー「心臓音のアーカイブ」。


王子が浜というきれいな砂浜にこの美術館がある。
ただし、収蔵されている作品は、世界中の人々から集めた心臓音。


(エキサイト・イズム・コンシェルジュ2010年10月10日「世界中の人から心臓音を集めたアーカイブ:瀬戸内国際芸術祭」の記事から転載)

「ハートルーム」というメイン展示室に入ると、この写真のようなインスタレーション空間。
真っ暗な部屋に、大きく、ドクン、ドクン、という心臓音が響き、それに合わせて電球が明滅する。
初めは気味が悪かったが、少し慣れてくると、母親のお腹の中にいた間は、ずっとこんな音を聞いていたのだと思った。
胎内回帰、ということを感じさせる体験だった。


PCルームでは、ボルタンスキーが世界中から採集したという心臓音を聞くことができる。
また、録音室で、自分の心臓音を記録し、この美術館に収蔵してもらうこともできる(有料)。
窓から見える景色は、ボルタンスキーが「世界で一番美しい島」と言っただけのことはあると思う。
気の早いトンボが、砂浜にたくさん飛んでいた。

わずか一日の滞在だったが、豊島の魅力を満喫して帰って来た。

豊島(2)

2013-07-29 23:16:22 | 旅行

唐櫃(からと)の清水から豊島美術館まではすぐ近くだったが、ここで、島で一番高い壇山(だんやま=317m)を迂回して、島の反対側にある甲生(こう)地区へ向かうことにする。
壇山の外周を、緩い弧を描いて走る、信号一つ無い道路。
島の特産のみかんやオリーブの畑を眺めつつ、自転車を漕いで行く。
アップダウンにもやや疲れてきたころ、海辺の集落・甲生が見えてきた。


クレイグ・ウォルシュ&ヒロミ・タンゴ「かがみ―青への思い」。
甲生の漁港に浮かぶ、鏡張りの廃船。空や海を映しながら波に揺れる浮き舟を見ていると、いつの間にか舟が輪郭を失い、海に溶けて消えてしまいそうな錯覚を覚える。


この作品の名前を確認しておくのを忘れた。
まるで古代の民がつくった祭祀の場のようで、もともと芸術の発生は、原始的な宗教にあったことを思う。
青染めの長い布が掛け渡された柱の間を通り、小さなお社のような建物に近づいていくときには、不思議な高揚感を覚えた。


ここに来るときと同じ道路を戻り、唐櫃の岡に向かう。
初めは、鑑賞する作品が島の離れた場所に散在していることに、やや不満めいたものを感じていたが、こうした景色を眺めながら風を切って自転車で走っていくうちにわかってきた。
アート作品を巡りながら、私たちが、名前の通り、豊かで美しいこの島の自然や風土を発見し、体験することが目的だったのだ。
豊島だけでなく、瀬戸内の島々を使ったインスタレーション、というこの芸術祭の基本性格がわかったような気がした。


私自身は現代アートに暗く、インスタレーションという言葉も、最近見た『百年の時計』という映画で初めて知ったほどである。
この映画のもう一つのテーマは、現代アートとは何かということであったが、老芸術家が走ることでん(琴平電鉄)の車両を使ったインスタレーションを発想したときに、
「できるだけ多くの人を巻き込みたい。」
と言っていたのを思い出した。
この瀬戸内国際芸術祭も、たくさんの人々を巻き込んで、アートと島の自然が交響する祝祭的な場となってほしいと思った。

…この小さな気づきが嬉しかったので、『百年の時計』の主題歌「めぐり逢い」を歌いながら自転車を走らせていたら、いつのまにか大声で歌っており、偶然向こう側から来た人に聞かれてしまって恥ずかしかった。

豊島の話題はあともう一度、取りあげる。

豊島(1)

2013-07-28 23:10:23 | 旅行
「瀬戸内国際芸術祭」の会場の一つである豊島(てしま)へ。
豊島は、瀬戸内海で二番目に大きな小豆島の西約5㎞のところにあり、周囲約18㎞の自然豊かな島。
ここには、十点余りの作品や美術館がある。


宇野港の旅客船乗り場から、高速船「マーレてしま」で出発。(船着き場の左側奥に泊まっている船。手前は岡山県警の警備艇「はやなみ」)。「マーレてしま」は、豊島の家浦港・唐櫃(からと)港を経由して、小豆島の土庄(とのしょう)港と宇野港を結んでいる。


家浦港へは約40分後に到着。
島内の移動は、レンタサイクル(電動アシスト付)を利用した。バスもあるが本数が少なく、作品や美術館が島内に散在しているため、効率よく回るためには自転車の方が便利。私が借りたところでは、5時間1,200円、1日1,500円だった。
なお、島内で平坦な地区は家浦港周辺くらい(地元の方の話)であり、道路は狭く坂道が多いので、アート鑑賞目的で島を訪れる方は、電動アシスト付の自転車を使うことをお勧めする。


家浦港の近くにある「豊島横尾館」は、アーティスト・横尾忠則による美術施設で、この夏にオープンしたばかり。
民家を改修した三つのスペースに、独自の死生観を描いた大作の絵画を中心に展示している。
真ん中の煙突のような構造物は、中に入るとまるで古井戸に落ちたようなスリルを味わえる。


自転車を漕いで(アシスト付なので、すごく楽)しばらく行くと、道路の脇に「竹の散歩道」という作品が。
竹林の中に、竹で編んだ謎の球形オブジェがいくつも浮かんでいる。
屋外の空間全体を作品として体験させ、現象させる試み(こういうのをインスタレーションと称するという理解でよいのだろうか?)は面白い。


さらに進んで行くと、次々に島が新たな風景を見せてくれる。
どんな天才の作品よりも、この島の自然と風土、そしてそれに適応して生きてきた人々の暮らしの方が、ずっと芸術的だと思う。
…のどの渇きを覚えたころ、「唐櫃(からと)の清水」の看板があり、「さぬきの名水」にも選ばれた湧き水とある。
早速、自転車を停めて手を洗い、水をすくって飲んだが、真夏なのにびっくりするくらい冷たく、美味しい水だった。
昔、弘法大師がここに来たとき、のどが渇き自ら地面を掘ったところ、水が湧き出したのだという。

豊島の自然とアートめぐりの話題は、次回に続ける。

デヴィッド・シルヴィアン「abandon hope」(2)

2013-07-27 23:36:32 | JAPANの思い出・洋楽
この記事では、デヴィッドのサウンド・プロジェクトを紹介。


宇野港でいただいた小さなパンフレットには、
“to live without hope is to live in the present.”
I like the state of hopelessness.
Hope really does tend to get in the way.
It takes you out of the present towards an ideal.
To live without hope but without a loss of love for life…
that's a great starting place
It seemes to me.
「生は希望の中にはなく現在の中にある。」
私はこの希望のない言葉が好きだ。実際、希望とはこのようなものだ。
観念に向かえば現在を見失ってしまう。
愛が姿を現すためには、希望が沈黙しなければならない…
それこそが善き始まりではないかと私には思われるのだ。
というデヴィッドの言葉とその訳が書かれていた。
「abandon hope(望みを捨てる)」のタイトルの意味は、ここにあるのだろう。


今会期中は、この「Kiosk」という車両が宇野港周辺を巡り(主にフェリー乗り場と、アートスペース「Una」の間を往復)、車のスピーカーでサウンドスケープ(音の風景)を繰り広げる。チャイムの後、女性が様々な格言を読み上げるサウンド作品で、ハイデガーやバタイユ、ラッセルの詩が港に流れ出す。
この車両は、アラーキーの写真でラッピングされており、物珍しさに写真を撮る人は多いが、スピーカーから、
真の独創性は、言葉が終わった地点から始まる。(ケストラー)
人は、いつか必ず死ぬということを思い知らなければ、生きているということを実感することもできない。(ハイデガー)
などという朗読が聞こえてくるので、何か怪しいもののように引いていたのが残念だった。


この車両ではまた、町を歩きながら聞くためのサウンドを収録したピンバッチ型携帯プレーヤーも貸し出してくれる。(デポジット料金として2,000円を払い、プレイヤー返却時に全額返してもらえるシステムだが、金額設定が高いと利用者があまりいないのではないか。)ちなみにこのサウンドは、パンフレットを見ると、
Written and produced by Taylor Deupree
curation:david sylvian
となっていた。NYのサウンドアーティスト・デザイナー・写真家のテイラー・デュプリーが作曲・プロデュースしたものを、デヴィッドが編集したということのようだ。
これもデヴィッドによる、「町に共鳴するサウンド作品」の一環らしく、イヤホンから流れる音楽を聴きながら、音と町が一体となった風景を体験することをねらいとしているのだろう。


波止場のボラード(繋船柱)に腰を下ろし、音楽を聴いてみた。
デヴィッドが全部作ったと言われても、きっとわからないだろう。
『錬金術』(1985)や『ゴーン・トゥ・アース』インストゥルメンタル編(1986)以来聞き慣れている感じの環境系音楽で、何か懐かしい感じさえする。
浮遊感漂うシンセサイザー、金属音、人の声(たぶんデヴィッドの声も)、ノイズ、鳥の鳴き声など、たくさんの音が入っている。
それらが、港の波の音、風の声、船のエンジン音、人の足音、話し声といった自然の音、生活の音と混じり合い、いつしか「私」だけのサウンドスケープが形成されていく…。

デヴィッド・シルヴィアンやサウンドアートに関心のない人でも、携帯プレーヤーから流れる音楽を聞き流しながら宇野の町を歩いたり、フェリーに乗って島めぐりをしているうちに、きっと風景の見え方が変わってくることを実感するだろう。
会期中にぜひ多くの人が、サウンドでも現代アートを体験してほしいと思う。