元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「レジェンド 光と闇の伝説」

2017-12-15 06:37:01 | 映画の感想(ら行)

 (原題:Legend)85年作品(日本公開は87年)。映画の内容よりも、作品を取り巻く裏の状況の方が面白い。日本での封切りが遅れたのも、それと無関係ではないのかも。とにかく“珍作”であることは確かだろう。

 大古の世界。王女リリーは美しい2頭のユニコーンに魅せられ、思わずその角に触ってしまう。だが、それはタブーとされている行為だった。たちまち1頭のユニコーンが倒れ、世界は呪いをかけられてしまう。そこに闇の魔王が出現し、リリーを掠う。彼女と懇意にしていた野性の青年ジャックは、妖精仲間と共にリリーの救出に乗り出す。

 はっきり言って、私はファンタジーものが嫌いである。どこの世界とも知れない舞台背景で、文字通り浮き世離れしたキャラクターが動き回るという、全然ピンと来ない御膳立て。しかも、話が絵空事であることを“免罪符”にするかのごとく、脚本がいい加減なケースも珍しくはない。本作も、やたら(見た目は)賑やかな面子が出てくるが、ストーリーは単調で盛り上がりに欠ける。終盤の処理など、御都合主義もいいところだ。当時脂がのっていたはずのリドリー・スコットの演出とも思えない。

 主演は何とトム・クルーズで、その頃は売り出し中であったのは確かだが、全然似合わない役柄だ。ただし、リリー役のミア・サラは魅力的。魔王に扮するティム・カリーも怪演だ。ロブ・ボーティンによる特殊メイクの見事さは言うまでもない。

 さて、この映画には2つのヴァージョンがある。日本でも公開された“国際版”と、本国仕様の“アメリカ公開版”である。何が違うかといえば、前者の音楽担当がジェリー・ゴールドスミス、後者がなぜか(ゴールドスミスに内緒で)タンジェリン・ドリームのサウンドが付けられていたというのだ。以後、スコットとゴールドスミスの仲は険悪となり、泥仕合が続いたらしい。スコットは映像面では突出した才能を持っていたが、音楽に関しては無頓着であったことが窺える。なお、日本公開版は1時間半程度だったが、現在は2時間弱の完全版がDVD化されている(私は見ていないが ^^;)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「KUBO/クボ 二本の弦の秘密」

2017-12-11 07:05:00 | 映画の感想(英数)
 (原題:KUBO AND THE TWO STRINGS)題材の面白さと精緻な映像、そして深い物語性により、大きな存在感を獲得している。間違いなく近年の米国製アニメーションにおける収穫の一つだ。アカデミー賞の候補になるも受賞を逃したが、製作会社ライカのディズニーやドリームワークスとは違うテイストを印象付けた点でも評価すべきであろう。

 遠い昔の日本(おそらく、戦国時代)。隻眼の少年クボは、折り紙を三味線の音で自由に操るという不思議な力を持ち、その大道芸で生計を立てていた。彼の母親はクボが赤ん坊の頃にどこからか逃げてきたのだが、実は邪悪な月の帝ライデンの娘で、武士であるハンゾウと恋に落ちてクボが生まれたのであった。すでに父は亡く、母もやがて祖父が放った刺客(母の妹達)によって命を落としてしまう。クボは人間の言葉を話すニホンザルとクワガタムシを仲間に、祖父と叔母達に立ち向かう。



 ハリウッド名物の“えせ日本”は最小限度に抑えられている。おかしな点は散見されるのだが、それ以上に日本的な描写と、昔話やおとぎ話の趣向を上手く前面に出し、独自の美意識に彩られた物語世界を展開している。

 戦いの連続であるクボの旅は、実は家族再発見の行程である。面倒見の良いニホンザルに母性を、ひょうきんだが腕の立つクワガタムシに父性を投影し、さらに悪役であるはずの祖父との関係性も模索する。決して勧善懲悪の単純な図式ではないのだ。もちろん、少年の成長物語という鉄板の設定もカバーしている。



 これがデビューとなる監督のラヴィス・ナイトは、よほど日本文化に興味があるのだろう。水墨画や折り紙などの美術アイテム、そしてクボが住む村の情景と風習、特に精霊流しのシーンは心に染みた。バトルシーンの段取りもよく練られており、飽きさせない。本作はCGメインのアニメではなく、ストップモーション・アニメーションである。恐ろしく手間の掛かる方法だが、その苦労は報われている。各キャラクターが絵巻物のようなセットをバックに、滑らかに動き回る様子は感心するしかない。

 クボ役の十代の新鋭アート・パーキンソンの周りには、シャーリーズ・セロンにレイフ・ファインズ、ルーニー・マーラ、マシュー・マコノヒーといった豪華な声の出演陣が控えている。ダリオ・マリアネッリによる音楽は素晴らしいが、ラストに流れるレジーナ・スペクターによるビートルズの“ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス”のカバーには泣けてきた。

 エンド・クレジットのバックには劇中に登場するドクロの大型クリーチャーを操作するスタッフの姿が映し出されるが、これだけでも観る価値がある。ライカ・スタジオの次回作も期待したい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「愛に関する短いフィルム」

2017-12-10 06:33:33 | 映画の感想(あ行)
 (英題:A Short Film about Love )名匠クシシュトフ・キェシロフスキ監督が88年に母国ポーランドで撮った作品。孤独な少年が、向かいのアパートに住む年上の女流画家の行動を覗き見てるうちに、勝手な恋心を抱くようになるという、どう考えてもポルノ映画かサイコ・サスペンスにしかならないようなネタを、ここまで深いラヴ・ストーリーにしてしまうキェシロフスキの才能には改めて舌を巻く。

 19歳の郵便局員トメクは、毎晩8時半に、どこからか盗んできた望遠鏡で通りの向かいのアパートに住む女流画家マグダの部屋を覗き見ていた。次々と違う男を部屋に連れこむマグダに、トメクは興味と嫌悪感の混じった複雑な感情を抱き、執拗に無言電話をかける。さらに彼は、彼女に近付くため牛乳配達のアルバイトまで始める。そしてある晩、恋人と別れて一人で泣くマグダを見たトメクは、翌朝、実際に彼女に会うためニセの為替通知を彼女のポストに届ける。



 確かに主人公のやってることは悪質なストーカーそのもので、イタズラ電話をかけたりやニセの郵便物を放り込んだりと、けっこう手口は陰湿だ。ところが、恋人と別れて一人で泣く彼女を見た彼が、翌朝彼女に直接会い“昨日、君は泣いていた”と声を掛けるあたりから映画は急展開。彼の考える“純粋だが手前勝手な愛”と彼女が経験してきた“世間でいう愛の正体”との比較を通して、人間性の深いところに切り込むキェシロフスキ演出が冴えてくる。

 もちろん本当は両方とも“本当の愛”ではなく“単なるエゴイズム”であって、愛とは相手を思いやる無私の精神であることが映画の中でも示されるのだが、それをスクリーン上に結実させたラストシーンは素晴らしい。たぶん私が今まで観た中で最も見事なラストシーンのひとつだろう。この“もうひとりの自分によって生かされている”という作者独自のモチーフは、後年撮られる傑作「ふたりのベロニカ」(91年)の中で全面展開されることになる。

 トメク役のオラフ・ルバシェンク、マグダに扮するラジーナ・ジャポロフスカ、いずれも好演だ。そしてキェシロフスキ監督とよくコンビを組むズビグニエフ・プレイスネルの音楽も申し分ない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「光」

2017-12-09 06:33:40 | 映画の感想(は行)

 河瀬直美監督による同名映画も今年封切られたが、こちらは大森立嗣監督作品。映画の出来としては、いまいちピンと来ない。作者の自己満足に終わっている部分が目立ち、少しも観る側に迫ってくるものがない。三浦しをんによる原作は未読だが、果たして小説版のテイストを上手く受け継いでいるのか疑問である。

 東京の離島である美浜島に暮らす中学生の信之は、鬱屈した感情を抱きながらも、ガールフレンドの美花と付き合うことによってそんな気分を抑え込んでいた。一方、信之を兄のように慕う小学生の輔は、父親から激しい虐待を受けている。しかし、誰もが無視を決め込んでいた。ある晩、信之は美花と待ち合わせをした場所で、彼女が中年男に乱暴されている姿を目撃する。怒った彼は男を殺害。だが、その様子を輔が目撃していた。

 次の日、島を大地震が襲い、押し寄せた津波によってほとんどの住民が犠牲になる。生き残ったのは信之と美花、輔、そしてごく一部の大人達だけだった。25年後、島は誰も住まなくなり、信之は妻子と共に川崎市で暮らしていた。そんな彼の前に輔が現れ、過去をほじくり出そうとする。やがて輔の父も息子の部屋に転がり込み、傍若無人に振る舞う。美花は経歴を隠して女優として活躍していたが、輔は彼女にもアプローチしようとする。

 感情移入出来る登場人物は皆無。全員、実にイヤな奴だ。そして、ヘンに不快な描写が目立つ。原生林が生い茂った鬱蒼として暗い島の風景をはじめ、信之の煮え切らない態度、病的な輔の振る舞いと小汚いその父親、美花の自分勝手な言動、バックに流れるジェフ・ミルズによるけたたましいテクノ・サウンド等々、いずれも観る者の神経を逆撫でする。

 もちろん、不快なモチーフを持ち出してはいけないというキマリは無く、それらがドラマとして有効に機能していれば文句は出ないのだが、本作においては“不快のための不快”というレベルに留まっている。

 輔は信之に接触するために信之の妻と懇ろになるのだが、どう考えても彼女が得体の知れない男にのめり込む理由が分からない。信之と輔には同性愛的な匂いも感じるのだが、それが明示されて筋書きに影響を与えることもない。すべてがグタグタと流れ、やがて意味不明なラストにたどり着くのみだ。

 大森立嗣の演出も、一般人とは大幅に異なるメンタリティの持ち主ばかりを扱っているせいか、精彩を欠く。それでも、信之に扮する井浦新と輔役の瑛太の演技はヴォルテージは高いと感じる。信之の妻を演じる橋本マナミも“意外な”好演だ。しかし、美花に扮する長谷川京子は、はっきり言ってヒドい。彼女はデビューしてからかなりの時間が経つのに、いまだ大根のままだ。鑑賞後は徒労感だけが残り、個人的には、観なくてもいい映画だと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「NARC/ナーク」

2017-12-08 06:40:38 | 映画の感想(英数)
 (原題:NARC)2002年作品。潜入捜査官射殺事件を捜査する“ワケあり”の刑事二人を描くジョー・カーナハン監督作品。カーナハンはこの作品がトム・クルーズに認められ、「ミッション:インポッシブル」シリーズ第三作の監督候補になったという(実際には別の監督が担当)。内容自体も骨太で見応えがある。

 デトロイトの麻薬捜査官ニック・テリスは、犯人追跡中に誤って一般市民に向かって発砲してしまう。悔恨の念から18か月休職するが、その期間も終わり近くになって警察を辞めることを考え始めた矢先、同僚刑事が殺害されるという事件が発生。その捜査の為に上司から復職を命じられる。被害者とタッグを組んでいたヘンリー・オーク警部補と共に犯人を追うことになるが、オークは荒くれ者で知られ、コンビネーションは上手くいかない。それでも捜査を進めるうちに互いに信頼で結ばれていくが、思わぬ出来事が起きる。



 何より主人公二人の造形が見事。犯人追跡中に民間人を巻き込んでしまったことから長期間職場を離れていたニックと、熱血漢だが権限逸脱や犯人への暴力行為も珍しくないヘンリーの、苦悩しながらも命を削る犯罪捜査にのめり込んでゆく警官としてのプライドが痛いほど活写されている。彼らの恵まれない家庭環境などを描くパートも容赦のないリアリズムだ。そして二転三転するプロットの果てに行き着いた意外な結末は“警察官の矜持とは何か”を厳しく問いかける。

 ニック役のジェイソン・パトリックとヘンリーに扮したレイ・リオッタの演技は素晴らしく、特にリオッタはこの映画のために体重を15キロも増やし、まさに迫真の気合をもって役柄に臨んでいる。アラン・ヴァン・スプラングやアン・オープンショーといった脇の面子の仕事ぶりも良い。撮影監督アレックス・ネポムニアスキーによるドキュメンタリー・タッチのカメラワークと、寒々としたデトロイトの冬の風景は効果的。クリフ・マルティネスの音楽も的確だ。

 観賞後は横山秀夫の警察小説を読んだ時のような余韻を残す。その後カーナハンはクライム・アクション映画を中心にキャリアを積むことになるが、いつか大作を手掛けて欲しいものだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ブレードランナー2049」

2017-12-04 06:33:53 | 映画の感想(は行)

 (原題:BLADE RUNNER 2049 )一体、誰に見せるために作られたのか、よく分からない映画だ。前作のファンの観客ならばすでに中年以上になっており、しかも絶対数がそれほど大きいとは思えず、興行的には期待できない。かといって若年層を呼び込めるほど娯楽的要素は多くはない(何しろ活劇場面はわずかである)。加えて2時間43分という長丁場で、本国で興行面では振るわなかったのも納得出来るような内容である。

 前作から約30年経った西暦2049年のカルフォルニア。かつてレプリカントを製造していたタイレル社は破綻し、実業家ウォレスによってその資産と経営は受け継がれていた。だが、不正な初期モデルは依然世の中に存在しており、当局側はそれらの捕獲作業に追われていた。ロス市警に勤務するKはその任務に就いているが、彼自身もレプリカントである。

 ある日Kは、事件現場から妊娠・出産後に死亡した女性レプリカントの遺骨を見つける。本来生殖能力が無いはずのレプリカントが子供をもうけたことが公になれば社会的影響が大きいため、Kの上司は事実の隠滅を命じる。一方、ウォレスはいまだ達成出来ないレプリカントの生殖能力の秘密を独占するため、彼の秘書のレプリカントのラヴを使って証拠品を警察から盗み出そうとする。独自に捜査を続けるKは、昔レプリカントの女と逃亡して姿をくらましたデッカードの存在に行き着く。

 私は前作を、封切当時にガラガラの映画館で観ている。正直、煌びやかな映像効果以外にはほとんど印象に残っていない。そのことを勘案しても、この続編にはまるでピンとこない。主人公のKはレプリカントだが、いくら自身のアイデンティティを突き詰めようという“哲学的”な方向性に持っていこうとしても、しょせんは“人にあらざる物”だ。興味は湧かない。しかも、演じるライアン・ゴズリングの仏頂面が、感情移入を遠ざける。

 いっそのことハリソン・フォード扮する元ブレードランナーのデッカードを主人公にした方が良かったと思うが、困ったことに彼が出てくるのは中盤以降だ。ドゥニ・ヴィルヌーヴの演出は粘っこいが、大した内容は語っていない(まあ、いつも通りだが ^^;)。

 尻切れトンボのようなラストには面食らったが、ウォレス社長の“その後”とか、終盤にチラッと出てきた“レジスタンス組織”みたいな連中の動向などの気になるモチーフは放り出したままだ。ベンジャミン・ウォルフィッシュとハンス・ジマーによる音楽はハッタリを効かせるばかりで、あまり感心しない。

 唯一興味深かったのが、Kと“同居”するAIフォログラムの女の子ジョイ。絵に描いたような“萌えキャラ”で、男の願望を表現しているようで苦笑するが、演じるアナ・デ・アルマスが凄く可愛い。将来、こういうのが一家に一体配備されるようになれば、少子化が昂進して困ったことになるだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

披露宴の料理に関するあれこれ(^^;)。

2017-12-03 06:32:20 | その他

 先日、親戚の結婚式に行ってきた。福岡県内では名の知れたホテルでの挙式だったが、幸せ一杯の2人の様子はもとより、何より感心したのが料理が美味しかったこと。披露宴における一番の楽しみが料理であることは論を待たず、美味しければ身内では少なくとも向こう10年間は評判になる。反対に美味しくなければ、向こう10年間どころか数十年に渡って陰口を叩かれるのだ(爆)。

 私が今まで出席した結婚披露宴の中で、一番料理が不味かったのが若い頃に足を運んだ同僚の結婚式だ。とにかく、どうしようもなく酷かった。メインディッシュはファミレスの日替わりランチにも劣り、前菜とデザートに至っては口に運ぶのにも難儀した。余った料理は折り詰めにして持たせてくれたが、帰宅後はその“処分”にも困る有様。職場の連中も似たような状況だったらしく、一様に冴えない表情をしていた。

 あと、これも若い時分に出席した先輩の結婚式の料理も(失礼ながら)褒められたものではなかった。式場こそオシャレでトレンディな(笑)リゾートホテルだったが、明らかに料理は経費節減のしわ寄せが来たと思われるレベル。大衆食堂の定食とあまり変わらない。なお、あれから20年以上経った今でも、その先輩の親戚筋では“披露宴の料理”が時折話題になるそうな。

 ちなみに私の場合は、式場は一流ホテルでも何でもなかったが、料理は精一杯予算を投入した。おかげで、幸いにも今まで悪評は耳にしない(少なくとも、私の周りでは ^^;)。

 で、アップした写真は先日のくだんの披露宴に出てきたデザートだ。メニューによると“薔薇とラズベリーのムース ピスタチオクリームとキルシュのクリーム”とある。もう、とろけるような美味さだった。甘党の私にとっては、大満足だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「愛してる、愛してない...」

2017-12-02 06:31:32 | 映画の感想(あ行)

 (原題:A la folie... pas du tout )2002年作品。オドレイ・トトゥ主演の可愛いラヴストーリー・・・・と思ったら大間違い。これは近来まれに見るホラー映画の快作だ。大ヒットした「アメリ」(2001年)のイメージを覆す役柄をチョイスしたトトゥの“覚悟”というか“計算”というか、そんなしたたかさが垣間見えるシャシンである。

 ボルドーの美大に通うアンジェリクには、外科医であるロイックという恋人がいる。交際は順調であると思われたが、実はロイックには弁護士で妊娠中の妻ラシェルがいて、現在離婚訴訟中だ。アンジェリクはロイック邸の家に住み込むことになり、たまに彼がデートに来られなかった時も、ロイックを信じている。しかし、彼が妻と仲むつまじくしている様子を目撃してから、アンジェリクの言動がおかしくなってくる。

 何より物語を三部構成にしているのがポイント高い。妻帯者であるハンサムなロイックと主人公との“失恋話”を、まずはヒロイン側から描き、次に同一時制を相手側から描く。思い込みの強い女の子の恋愛話が実はグロテスクなサイコ・サスペンスだったことを、同じエピソードを異なるアングルから捉えることによって鮮やかに観客に提示してみせる脚本の巧みさ。その複眼の視点は実に新鮮だ。

 第三部は客観的な描写に移行するが、テンションの高さはいささも衰えず、直接的なショッカー場面こそないものの、シチュエーションの設定や小道具の使い方に絶妙の冴えを見せる。そして主人公の“正体”が明らかになり、何とか物語は収束されたかと思わせて、最後の最後にショッキングな場面を持ってくる仕掛けには感心した。

 シナリオも担当した女流監督レティシア・コロンバニはこれがデビュー作だが、何と当時は26歳の若さだった。凄い才能が現れたものだと思ったが(しかも美人 ^^;)、彼女はこれ以降映画を撮っていないのは残念だ。

 オドレイ・トトゥは「アメリ」のキャラクターと似て異なるエキセントリックなヒロイン像を好演。特に印象的なのは、冒頭近くで好きな男のためにバラの花を注文する場面で、配達に出る店員に一瞥もくれずに去ってゆく場面で、“目的以外のことには我関せず”と言わんばかりの表情は本当にコワい。サミュエル・ル・ビアンやイザベル・カレー、クレマン・シボニーといった脇のキャストも万全だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「全員死刑」

2017-12-01 06:30:07 | 映画の感想(さ行)

 実際に起こった連続殺人事件を下敷きにした映画といえば、園子温監督の快作「冷たい熱帯魚」(2011年)を思い出す向きは多いだろうが、本作はその足元にも及ばない。キャラクターの造形が雑であるばかりではなく、肝心の“描くべきポイント”が見い出せず、単に事実をそのままトレースしているだけである。観終わって認識できるのは、作者の力量不足だ。

 兄のサトシと共に裏稼業に身をやつすタカノリの父親は、弱小ヤクザの組長だ。シノギは上手くいかず、上部組織への上納金の支払いもままならない状況で、ついには多額の借金を背負い込むことになる。両親が近所に住む資産家の高利貸しを襲って金を強奪しようと相談しているのを聞きつけた兄弟は、先手を打って一家の息子を殺害する。

 それを知った父親とヒステリックな母親は、一人殺すなら全員殺すも同じこととばかりに、家族総出で人間狩りを断行することを決める。2004年に福岡県大牟田市で発生した、被告である家族4人全員に死刑判決が下った凄惨な事件を描く。服役中の次男の手記を元にした鈴木智彦によるルポルタージュの映画化だ。

 観ていて困ったのは、登場人物の描写が薄っぺらであることだ。主人公のタカノリをはじめ、どいつもこいつもキャラクターに血が通っていない。それは被害者に関しても同様で、どうでもいい連中が勝手に退場してゆく様子が漫然と綴られるのみ。だから、事件の異常性やセンセーショナリズムがまるで表現されていない。

 ここで“キャラクターに対する感情移入なんか関係ない。乾いた無機質性こそが犯罪の核心だ”とか何とかいう意見も出てくるのかもしれないが、本作はその無機質性、つまり“マイナスの感情移入(?)”さえ喚起されない、描写の弱体ぶりだけが目立ってしまうのだ。

 さらには第一の被害者の寒々しい“嗜好”とか、取って付けたようにタカノリが被害者の“幻影”らしきものに悩まされるくだりとか、そういう思いつき程度のモチーフが並べられるに及び、観ているこちらはタメ息しか出ない。

 小林勇貴の演出は未熟で、ドラマ運びにメリハリが付けられておらず、平板な展開に終始。六平直政や絵加奈子、落合モトキ、毎熊克哉、鳥居みゆきといったキャストも精彩が無い。ただ、主演の間宮祥太朗の面構えだけは良い。「帝一の國」での好演も併せて、本年度の新人賞の有力候補だろう。

 なお、実際の事件では次男は元力士である。昨今の角界を賑わす不祥事を考えると、何となくこの世界の“特殊性”が連想されるようで、複雑な気分になる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする