元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「誰かに見られてる」

2017-06-11 06:32:31 | 映画の感想(た行)

 (原題:Someone to Watch over Me)87年作品。リドリー・スコット監督の唯一のラブ・サスペンスだが、彼がよく手掛けるSFや歴史物の大作とは勝手が違うせいか、あまり良い出来ではない。この手の映画に必要なキメ細かい描写や緻密なプロットが不在のまま、いつもの大味なタッチで臨んでしまったようだ。

 父の遺産で優雅な一人暮らしをしている若い女クレアは、男友達が殺されるのを目撃する。犯人のベンザは彼女に現場を見られたことを知って追いかけてくるが、何とか逃げ延びて警察に駆け込む。彼女の護衛を担当するのは、ニューヨーク市警の新米刑事のマイクと彼の先輩のT・Jだった。マイクはクレアのセレブな生活を知って驚くが、飾らない人柄の彼女に次第に惹かれていく。

 だが、マイクの妻はそれを知ってしまい、夫婦仲は険悪になる。やがてベンザは逮捕されるが、証拠不十分で釈放。彼は殺し屋をさし向けてマイクとT・Jを襲うと共に、マイクの妻子を人質にとってクレアの引き渡しを要求する。マイクは警察隊と共に現場に急行するのだった。

 目撃者が犯人に狙われるという話は、過去に数多く取り上げられてきたわけだが、本作に突出した見所があるわけではない。ストーリーは平板で山場が無く、濃いキャラクターが出てくるわけでもない。ラブストーリーとしても、クレアやマイクの妻の内面がほとんど描かれていないので、ほとんど盛り上がらない。そもそも、どちらも主人公にとって都合の良い存在でしかなく、もちろん恋のさや当てなんかには無縁である。

 ただし、全然観る価値は無いのかといえば、そうでもない。まず、キャストが良い。主演のトム・ベレンジャーは後年のオッサン然とした出で立ちとは大違いの、シャキッとした二枚目ぶりで、実に絵になる。クレアに扮するミミ・ロジャースは、往年のハリウッド黄金時代のスターを思わせるゴージャスさと気品がある。そして、この監督らしい人工的な映像美が光る。特にニューヨークの夜景はタメ息が出るほどだ。

 音楽はマイケル・ケイメンが担当して流麗なスコアを提供しているが、それよりも印象的なのはタイトルにもあるジャズのスタンダード・ナンバーだ。オープニングはスティング、エンディングはロバータ・フラックによって歌われているが、どちらも絶品である。内容に関しては深く突っ込まず、映画の“外観”だけをムーディーに楽しむには、もってこいの映画だと言える。
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「光」

2017-06-10 06:35:17 | 映画の感想(は行)

 河瀬直美監督は、新たな“鉱脈”を見つけたのかもしれない。前作「あん」(2015年)は観ていないが、概要をチェックすると、一頃の同監督の作品群のような浮き世離れしたモチーフを多用して自己満足の世界に逃げ込むような作りではないことは分かる。この映画も同様で、内容は現実世界にしっかりと結び付いていながら、取り上げる題材はニッチで、かつ訴求力が高い。つまりは、まず素材の面白さで“掴み”を万全にして、あとは普遍的な感銘度を自分のスタイルで練り上げようという作戦だ。これは映画の作り手としての“成長”と言って良いのかもしれない。

 美佐子は視覚障害者向けの“映画の音声ガイド”を作成する仕事をしている。今取り組んでいるのはベテラン監督・北林の新作だが、美佐子による第一稿は上司や関係者から容赦なく批判される。特に厳しい言葉を浴びせるのは、弱視のカメラマン・雅哉だ。いくら雅哉の言っていることが正論でも、美佐子は腹の虫が治まらない。

 ところが雅哉が過去に撮影した夕日の写真に見た彼女は、その美しさに魅了される。そして、いつかその場所に連れ行ってほしいと頼むのだった。だが、その間にも確実に雅哉の視力は失われていく。そんな彼と接するうちに、美佐子は仕事に対するスタンスと自らの生き方を、改めて深く考えるようになる。

 映画の音声ガイドのライターという、おそらくは映画関係者でもあまり知らないような職業に携わる者を主人公に据えた時点で、本作の成功は半ば約束されたようなものだ。これが単に弱視のフォトグラファーやベテラン監督の内面の屈託だけを描くのならば、この監督の独り善がりの映像センスばかりが先走りして、鼻持ちならないシャシンに終わっていたところだ。しかし、珍しい仕事に就いてはいるが、あくまで一般人の領域に属しているヒロインの目を通していることにより、平易なドラマツルギーの構築が達成されている。

 ストーリーはこの監督らしい変化球が目立つ。タイトルの“光”とは、雅哉が失うものであることはもちろん、登場人物達の人生における転機や希望を示している。そしてもちろん、失意の底にある劇中劇の主人公が最後に見出す拠り所でもある。それらが一直線に進むのではなく、絶妙に絡み合ってラストに収斂されていく仕掛けは、感心するしかなかった。

 雅哉に扮する永瀬正敏は好演で、捨て鉢になりそうな境遇から必死になって自分を取り戻そうとする葛藤を、見事に表現している。神野三鈴や小市慢太郎、大塚千弘、白川和子、藤竜也といった脇のキャストも上手い。ただ、美佐子役の水崎綾女はかなり頑張っていることは分かるのだが、表情や声、仕草がアイドル臭く(笑)、諸手を挙げての高評価は差し控えたい。これからの精進に期待したいところだ。

 いくら行き先が真っ暗でも、希望の光を見つけることは不可能ではないことを示してくれる、なかなか求心力の高い作品だと思う。観る価値はある。
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下関方面に行ってきた。

2017-06-09 06:28:48 | その他
 先日、山口県下関市にある赤間神宮に足を運んでみた。下関に行った本当の目的は名物のフグ刺しを食するためなのだが(笑)、ついでなのでこの名所にも寄った次第だ。最初に建てられたのは1191年とかなり古いが、現在の社殿は1965に建立されている。



 文字通り赤く塗られた社殿が印象的だったが、それよりも関門海峡を臨む前段の風景が素晴らしい。この神社は壇ノ浦で入水した安徳天皇を祀っており、ロケーションはそれに由来している。近くには観光スポットとして有名な唐戸市場があるが、残念ながら立ち寄ったときには各店舗の営業時間がほとんど終わっていた(苦笑)。

 本来ならば細江町の散策や海響館などが定番のコースなのだろうが、山口県内でもう一カ所行きたい場所があったので早々に下関を後にした。向かったのは、宇部市の常盤公園である。丁度“しょうぶまつり”が開かれていたのだ。この公園に行ったのは初めてだ。もちろん菖蒲の花々もキレイだったのだが、公園自体のあまりの広さに驚いた。



 博物館や遊園地も併設されているが、常盤池の周りでジョギングや散歩を楽しむ人たちが多かったのが印象的だった。そのあたりは福岡市の大濠公園と似ていないこともないが、公園の規模はもとより、大きくない都市にあるせいか全体的に伸び伸びとした雰囲気だったのが面白かった。
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「メッセージ」

2017-06-05 06:27:05 | 映画の感想(ま行)

 (原題:ARRIVAL )タコ型宇宙人が出てきた時点で、早々に観る気が失せた。そもそも、どうしてタコ型なのか。どんなにスゴい科学力を持っていようと、しょせんタコはタコじゃないか。大昔のモンスター映画に出てきそうなクリーチャーでしかなく、こんなのに高踏的な線を狙った(ように思われる)本作のキーパーソン(?)を担わせようとする、その姿勢からして噴飯物である。

 湖畔の家に独りで住む言語学者のルイーズ・バンクスは、若くして世を去った娘ハンナのことを思い出さない日はない。ある日、巨大な宇宙船のような物体が世界12か所に同時に出現する。軍当局は、その物体の“乗組員”とのコミュニケーションを図るためルイーズに協力を要請。米陸軍のウェバー大佐が率いるチームに編入された彼女は、物理学者のイアンと共にエイリアンとの接触を試み、ついに相手の言語体系のアウトラインを掴むことに成功する。ところが、しびれを切らした中国当局は核攻撃を決定。エイリアン達に侵略などの意図が無いことを知ったルイーズらは、中国の武力行使を阻止するために奔走する。

 タコ星人が地球にやってきた目的が、分かったようでよく分からない。彼らの“時間”の概念は地球人のそれとは大きく違うらしく、過去も未来も同じレベルで見通せるのだという。3千年後に、タコ星人が人類にお世話になる時がやってくるとのことで、その日のために“知恵”あるいは“武器”を授けに来たらしい。

 だが、過去も未来も自在に見渡せるような力がありながら、どうして現時点で地球に来たのかイマイチ理解できない。未来に起きるトラブルぐらい自前で何とかなりそうだと思うのだが、肝心の“3千年後の出来事”の概要も示されていないのだから、閉口するしかない。

 さらに、この時間軸のランダムアクセスというのはルイーズ自身にもコミットする話で、終盤には意外な展開を見せるのだが、タイムパラドックスに対する配慮が全く成されていない。それどころか、ルイーズが事態を好転させるために取った行動の数々も、随分と無理筋である。斯様な非合理的モチーフを積み上げて、揺れ動くヒロインの心情を描き出しているから感動しなさいと言われても、そうはいかないのだ。

 ドゥニ・ヴィルヌーヴの演出は粘着質だが、大局が見えていない感じだ。主演のエイミー・アダムスをはじめジェレミー・レナー、フォレスト・ウィテカーといった面々も、予想通りのパフォーマンスを披露するのみで意外性が無い。ただし、ヨハン・ヨハンソンの音楽は良かったし、それを盛り上げる音響効果は素晴らしかった(アカデミー賞受賞)。おそらくは今後、高級AVシステムのデモ用のソフトとして多用されることだろう。
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「エンジェル 僕の歌は君の歌」

2017-06-04 06:39:33 | 映画の感想(あ行)
 92年作品。自分の愛する女性の命があと一週間しかないと知ってしまった男が取る行動とは? 主人公に織田裕二、相手役に和久井映見、ドラマのキーワードを握る“天使”に大地真央、監督は「君は僕をスキになる」(89年)の渡邉孝好。

 結論から先に言わせてもらえば、失敗作である。この映画は意図がミエミエだ。つまり、「ゴースト ニューヨークの幻」(90年)のオカルト的ロマンティックさに「ベルリン・天使の詩」(87年)のエッセンスをふりかけ、エルトン・ジョンの歌うテーマ曲に乗せて観客の涙を絞り出そうという魂胆である。ま、それがうまくいけば文句はないのだが、こう作りが下手クソだとシラけてしまう。

 冒頭5分間でテーマ曲に乗せて主役2人の恋の顛末が語られるが、それだけ観ればあとはどうでもいい気がする。序盤ですでに完結している話であり、映画自体が作る必要があまりないラブストーリーの後日談となっているため、以降は映画は物語を成立させるための辻褄合わせに終始すると言ってもいい。

 そして何といっても大地真央の“天使”が一番の敗因であろう。彼女は全然“天使”らしくないのだ。遊び好きのOLみたいなキャラクターにしてしまったため、“天使”であることを無理矢理観客に納得させるのに相当な時間と手間がかかり、ドラマ全体がゆがんでしまった。ド下手なSFXは予算の関係で仕方がないとしても、ガッカリしたのは、苦しい設定をなんとかしようと、登場人物に説明的セリフを洪水のようにさせていることだ。言いたいことを映像で見せられなければ、映画を作る意味がない。

 かつて天使だった老人を登場させるあたりは「ベルリン・天使の詩」のものまねだが、“本家”ほどの威厳はまったくなし。ラスト近くのニュージーランド・ロケなんて取って付けたようだが、大地真央の“抱いて”のセリフ(映画を観ないと意味がわかんないと思うけど)にひっくり返った観客は私だけではないはずだ。伏線も暗示もへったくれもなく、途中で製作者たちが映画を放り投げてしまったような印象を受けた。

 ラストの処理も予定調和で、“ああそうですか”とアクビしながら言いたくなった。結構キャスティングはいいのに、脚本のツメが大甘なもんだから、コケてしまった典型的な例だ。この頃はこういうシャシンも少なくなかったようだ。
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「夜空はいつでも最高密度の青色だ」

2017-06-03 06:32:53 | 映画の感想(や行)

 この映画の“外観”は、かなり危なっかしい。主人公の若い男女は自己陶酔型のモノローグと意味ありげな仕草を延々と垂れ流す。その芝居がかったワザとらしさに拒否反応を起こす観客も少なくないだろう。映像的なケレンも満載で、まさに独り善がりの駄作に繋がりそうな雰囲気だ。ところが、本作はギリギリのところで踏み止まる。これはひとえに、作者が描きたいテーマをハッキリと捉えていることに尽きる。奇態なエクステリアはあくまでその“小道具”として機能させているに過ぎない。

 看護婦の美香は昼間は病院に勤務する傍ら、夜はガールズバーで働く。言葉にできない不安や孤独を抱えているが、周囲の誰とも打ち解けられず、悶々とした日々を送っている。工事現場で日雇いの仕事をしている慎二は、学生時代は成績優秀であったにも関わらず、左目が不自由というハンデを負っていることから能動的な生き方を放棄したように見える。そんな2人が、偶然が重なり何度も会うことになる。

 美香は患者の最期に何度も立ち会い、また母親も早く亡くしている。慎二の同僚達は明日が見えない境遇に身を置いており、さらには仲の良かった智之が突然に命を落とすのを目の当たりにする。つまりは2人とも死や絶望と隣り合わせに生きており、何とかそれらに巻き込まれないように心の中に高い壁を作っている。

 ところが、そんな似たもの同士の彼らがめぐり逢うと、互いの立ち位置を客観的に見据えることになり、思わぬ“化学反応”を見せる。それは、相手の視点から“外部”を睥睨することであり、初めて自分の存在とこの世界との距離感を認識することである。努力が報われず先の見えない社会において、彼らはどう世の中と折り合いを付けるのか。その過程をポジティヴに描くことにより、尽きせぬ映画的興趣を呼び込む。

 本作にはラブシーンは存在せず、それどころか2人は手も握らないのだ。それでいて、この重くたれ込めた世界に立ち向かう“同士”としての熱いパッションが溢れている。原作は最果タヒの同名の詩集で、監督の石井裕也はそこからインスピレーションを得て物語を構築したという。かなりの難事業であったと思われるが、そのチャレンジは意欲的で頼もしい。

 慎二に扮する池松壮亮は、今まで一番と思われるパフォーマンスを披露している。美香を演じる石橋静河はぶっきらぼうな演技しかできず、容貌も母親の原田美枝子の若い頃には及ばないが、存在感はある。智之役の松田龍平も同じ二世俳優ながら、最初は大根だったことを考え合わせると、この石橋も期待できるかもしれない。他のキャストでは慎二の先輩に扮した田中哲司が最高だ。食えない中年男を実に楽しそうに演じている。希望を持たせた幕切れも含めて、鑑賞後の印象は良い。
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「シュウシュウの季節」

2017-06-02 06:31:55 | 映画の感想(さ行)
 (原題:Xiu Xiu )98年作品。第35回金馬奨(台湾アカデミー賞)で作品賞をはじめ主要7部門の受賞を果たした話題作だったが、個人的には大して面白いシャシンとは思えなかった。一番の敗因は題材を“お客様的傍観者視点”で捉えていることだ。本作は舞台が中国で主なキャスト・スタッフも中国人だが、実はアメリカ資本で撮られている。違和感を覚えたのは、そのあたりに原因があるのかもしれない。

 文化大革命も末期に差し掛かった1975年。四川省・成都に住む仕立て屋の娘シュウシュウは、都市の少年少女に労働を学ばせるという“下放政策”によって、チベットに近い軍経営の牧場に送られる。現地の男ラオジンから仕事の手順を教わりながら、半年間の滞在期間が終わるのを待ちわびていた。ところが期限が過ぎても軍から迎えは来ない。実は文化大革命は終わっており、その膨大な残務処理に追われていた軍当局は、辺境の地に移送した若者たちのことなど構う余裕は無かったのだ。



 望郷の念が募るばかりの彼女は“帰れるように手配してやる”と言う行きずりの怪しげな男に身体を与えるが、男は翌日にはどこかに消えてしまった。それをきっかけに、同じようなセリフで彼女に言い寄る男たちがシュウシュウのテントに押し寄せるようになる。見かねたラオジンは彼女を支えようとするが、事態は悪化するばかりであった。

 女優ジョアン・チェンの監督デビュー作だが、彼女の世代では文化大革命時には子供だったはずて、加えて彼女はほとんどアメリカで生活している。これでたとえば謝晋監督の「芙蓉鎮」(86年)みたいな当事者意識バリバリの切迫した作品が撮れるわけがない。映画では“下放政策”の理不尽さやそれに翻弄されるヒロイン、中国政府の弾圧の対象になったチベット人など、いかにもそれらしい素材を配しているものの、悲劇の本当の原因が何であるのか描き切れていない(文革が悪いというのは誰でも言える)。

 チベット男の行動についても釈然としない部分が多い。その代わりに大々的に描かれるのはエゲツないセックスシーンであり、言うなれば単なる“残酷ショー”である。一昔前の、エキセントリックさを強調した女流監督特有の悪い癖が出ているようで、正直言って不快だった。まあ、ヒロイン役のリー・シャオルーはなかなかの熱演だったけどね。
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