元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「禁じられた歌声」

2016-01-15 06:53:50 | 映画の感想(か行)
 (原題:TIMBUKTU)少しも面白くない。1時間40分ほどの上映時間だが、とてつもなく長く感じられ、眠気さえ催してしまう。世評は高く、2015年のセザール賞でも作品賞をはじめ7部門を獲得したらしいが、そんなことが信じられないほど低調な展開に終始。正直、観たことを後悔するようなシャシンだった。

 西アフリカ・マリ共和国の地方の村で暮らすキダーンの一家は、妻サティマと12歳の娘トーヤ、そしてトーヤと同世代の羊飼いの少年イッサンである。金銭的には恵まれてはいないが、それなりに幸せな生活を送っていた。しかし、いつしか街はイスラム過激派に占拠され、村人達は彼らが勝手に作り上げた戒律を押し付けられる。そんなある日、漁師のアマドゥがキダーンの飼っていた牛を殺し、怒ったキダーンが直談判に出向いたが、誤ってアマドゥを死なせてしまう。キダーンは逮捕され、一家は窮地に追い込まれるのであった。



 とにかく、映像派を気取ったような思わせぶりな画面が延々と続くのには閉口した。冒頭の、野生の鹿を過激派のトラックが意味も無く追い回すシーンをはじめ、奇態な格好をした女がスクリーンを何度も横切ったり、多数の牛が現れるイッサンの幻想シーン(?)など、何のために挿入したのか分からない場面ばかりが並ぶ。

 その一方で、イスラム過激派の横暴ぶりは拍子抜けになるほど手ぬるい。彼らは音楽や笑い声、たばこ、そしてサッカーさえも禁じるが、そのことで村人達が辛酸を嘗めているかというと、そうでもないのだ。もちろん違反した者は罰を受けるが、そもそも音楽やスポーツが村人達のアイデンティティに関わるほど重大なものである設定が成されていない。禁止されても“ああ、そうですか”といった感じだ。それ以前に、過激派連中も凶暴な雰囲気が希薄なので、どうでも良いような印象しか受けない。



 ならばキダーンの裁判劇はどうなのかというと、これもまた要領を得ない様相でウヤムヤのままに終わる。あとはまた心象風景的なイメージ画面が羅列されるばかりだ。

 過激派と住民は民族が違えば言語も異なるのだが、複数の“通訳”を介して成される会話のシーンは面倒臭くてイライラするだけ。ひょっとしたら、それによって情勢の不条理を訴えたかったのかもしれないが、何の効果も上がっていない。監督はアブデラマン・シサコなる人物だが、才気のカケラも感じられない。

 各キャストの演技もどうでもよく、せいぜいトーヤを演じる子役が可愛いことぐらいしか興味を惹かれる箇所は無い。ただし、ソフィアーヌ・エル・ファニのカメラによる映像自体はとても美しい。特に陽光に映える沙漠の風景は、悩ましいほどだ。
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「四万十川」

2016-01-11 06:54:17 | 映画の感想(さ行)
 91年作品。笹山久三原作の自伝的小説「四万十川」の映画化である。監督は久しぶりの恩地日出夫で、時は高度成長を目前にした昭和30年代前半、四国・四万十川のほとりに住む主人公の篤義少年を中心に、家族の絆、愛する人たちとの別れを綴っている。

 舞台設定がたいへん丁寧に作られている映画だとは思う。たとえば“日本最後の清流”と呼ばれる四万十川も最近水位が下がって河原がほとんど痩せてしまったらしいが、映画では昔のままのような風景を見せる。これは、主人公の家を原作より田舎に持って行き、舗装道路に土をかぶせ、ガードレールをはずしたりしたらしい。それから映画に登場する小道具のひとつひとつが綿密な時代考証に則って描かれている。



 圧巻は、伊勢湾台風のシーンで“本物の”台風襲来の現場でロケしている点で、住民が避難した後もロケ隊だけ残って撮影したらしく、結果として、ヘタなSFXなど及びもつかない迫力ある映像に仕上がっている。加えて、樋口可南子や小林薫らをはじめとする出演者たちが自然な演技をしていることも特筆できる。日本映画にしては珍しく子役もいい。

 しかし、どうにも観た後の印象が薄いのだ。観て2,3日もたつとストーリーさえ思い出せない。映画よりも、公開当時のキネマ旬報誌に載った原作者と監督の対談の方が面白い。

 対談では、この映画にまつわる裏話、および現在の四万十川をとりまく環境などがくわしく語られており、早急な自然保護の必要性を説いていて、読んでいてなるほどと思う部分がたくさんある。ところが映画自体は作者のノスタルジアばかりが前面に出て、現在とつながる部分を見つけることが難しい。

 つまり、ウェルメイドなドラマではあるが、いま一つ突き抜けたものがないので、たとえば神山征二郎監督の「ふるさと」(83年)のように、過去を描きながら強烈に現代を意識したような今日性に欠け、そのため感動も薄いのである。もっと話を広げて、ラスト近くに舞台を現代に持って行くとか、最終稿にあったという魔物と時代劇の侍をSFX仕立てで登場させるとか、芸を見せてほしかった。これではすぐに忘れられてしまう。
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「完全なるチェックメイト」

2016-01-10 06:40:43 | 映画の感想(か行)

 (原題:Pawn Sacrifice)愛嬌のない映画だ。突出した才能を持った主人公が奇行に走る様子を、何の工夫もなく漫然と追っただけ。しかも、題材がチェスという日本人にはあまり馴染みのないものであり、その点でも採点を割り引かざるを得ない。

 72年。わずか15歳でチェスのグランドマスターになった経歴を持つシカゴ出身のボビー・フィッシャーは、アイスランドで開催される世界チャンピオン決定戦に出場することになる。相手はチェス最強国のソ連が誇る王者ボリス・スパスキー。まるで米ソの代理戦争みたいな雰囲気で世界中が注目した勝負だったが、フィッシャーは一局目で完敗してしまう。ショックで二局目をキャンセルした彼は崖っぷちに追い込まれるが、そこから必死の巻き返しをはかる。

 まず、この主人公に感情移入出来ないことが大きな欠点として挙げられる。演じるトビー・マグワイアは熱演だが、表情も言動も“凡人が考えた天才像”の範囲から一歩も抜け出せない。適当にエキセントリックで、適当にワガママで、適当に自暴自棄に陥る。そこには何の驚きも無い。もっと天才らしいギラリと輝く異能ぶりを見せつけて然るべきだが、最後までそれは表現されない。やはり、天才を描くには、作り手も天才あるいはそれに近い位置にいる者でないとサマにならないことを実感する。

 スパスキーとの対局はチェス史上に残る名勝負らしいが、しかるべき描写は一切出てこない。スパスキーの拍手で全てを代行させようという魂胆らしいが、その程度で納得出来るはずもないのだ。

 フィッシャーはこの大会以降すべてを放り出して隠遁生活に入るが、新興宗教にかぶれたり、日本人と結婚していたこともあったらしく、そっちの方が映画の題材としては扱いやすかったのではないだろうか。92年にはスパスキーとの再戦もあり、こちらを映画の真ん中に持ってきても良かった。

 エドワード・ズウィックの演出は可もなく不可もなし。ピーター・サースガードやリーブ・シュレイバーら脇の面子も印象が薄い。ジェームズ・ニュートン・ハワードの音楽とブラッドフォード・ヤングのカメラによる寒色系の映像は万全だが、それだけで映画自体を評価するわけにはいかない。

 ただ、本作で唯一興味深かったのは、冷戦時代の“空気”の醸成である。米ソ対立はなるほど深刻な事態ではあったが、世の中全体は実に分かりやすかった。物事を単純に右と左に分類し、二項対立の構図で考えていれば良かったのだ。別にあの時代に対してノスタルジーを感じているわけではないが、現在の“全体像を掴みにくい世界情勢”を前にすると、何やら複雑な気分になる。
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「誘拐報道」

2016-01-09 06:25:53 | 映画の感想(や行)
 82年作品。一本の映画の中で“とても優れている部分”と“つまらない部分”が等間隔で並んでいるという、興味深い光景が見られる。ただしその“優れている部分”があまりにも上質なので、全体的な点数は悪くない。いずれにしろ、製作主体の意向と作家性との齟齬が生じるとこのような映画が出来上がるという好例であろう。

 豊中市に住む古屋数男は喫茶店経営に失敗して二進も三進も行かなくなり、ついには子供を誘拐することを思い付く。ターゲットは羽振りの良い小児科医の三田村昇の息子である英之だ。名門の私立小学校に通う英之の下校途中を狙った誘拐劇は成功し、父親の昇に三千万円の身代金を要求する。



 県警本部の発表でこの事件が新聞記者達に伝えられるが、各新聞社に“報道協定”の要請があり、子供の生命がかかっているため、各社は受けざるを得なかった。数男は英之を連れ回し、挙げ句に殺害しようとするが、タイミングを逸しているうちに殺意が後退してゆく。一方で警察は数男を追い詰めるべく、着実に捜査を進めていた。

 前述の“優れている部分”というのは、犯人の数男およびその家族の描写である。彼は気が小さいくせに見栄っ張りで、収入が多くないのに娘の香織を英之と同じ私立の学校に通わせていた。家計を助けるために妻の芳江は工場で働いているが、やがて数男は高利貸の森安にだまされて店を取り上げられてしまう。

 どうしようもない男と、それにウンザリしながらも付き慕う妻。演じる萩原健一と小柳ルミ子の渾身のパフォーマンスにより、目を見張るリアリティを獲得するに至っている。また子役時代の高橋かおりが演じる香織が最後に言い放つセリフは、まさに痛切だ。

 対して“つまらない部分”というのは、かなりの時間を割いて描かれる新聞記者連中の扱い方だ。本作は、実際に起きた学童誘拐事件を題材にした読売新聞大阪本社社会部編集による同名ドキュメンタリーを原作としており、製作にも同社は関与している。そのためか、実に通り一遍の描かれ方しかされていない。ハッキリ言って、無い方がマシだった。

 監督の伊藤俊也はこのネタを何としても映画化すべく、当時の岡田茂東映社長を説き伏せ、小柳の所属するプロダクションにまで直談判したということだが、結局は製作サイドの事情という“壁”に突き当たってしまったということだろう。

 なお、新聞社の部長に扮する丹波哲郎をはじめ、中尾彬、藤巻潤、平幹二朗、菅原文太、秋吉久美子、伊東四朗など、配役はかなり豪華。しかしながら、主人公一家以外のキャラクターが全然“立って”いないので、何やら虚しい気分になる。菊池俊輔の音楽は良好で、特に谷川俊太郎の詩に曲を付けた「風が息をしている」というナンバーは素晴らしい効果を上げている。
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「ストレイト・アウタ・コンプトン」

2016-01-08 06:32:48 | 映画の感想(さ行)

 (原題:STRAIGHT OUTTA COMPTON)ミュージシャンの伝記映画としては実に見応えがある(似たような題材のイーストウッドの「ジャージー・ボーイズ」みたいな腑抜けたシャシンとは大違い)。その骨太で正攻法の作劇に感心するとともに、時代性の的確な描出と熱いメッセージに魅了されっぱなしだった。近年のアメリカ映画の収穫であると断言したい。

 80年代半ば、治安の悪さでは全米屈指と言われるカリフォルニア州コンプトンに暮らすイージー・Eは、マリファナの売買を行う一方で、何か世間にアピールするようなことをやりたいと思っていた。やがて音楽好きのアイス・キューブやドクター・ドレーといった仲間を得て、ヒップホップグループ“N.W.A.”を結成。地域で名が売れるようになってきた彼らの才能に、音楽業界のベテラン・ビジネスマンのジェリー・ヘラーが目を付ける。

 彼らはルースレス・レコードを設立し、そのアグレッシヴな音楽性とジェリーの効果的なプロモーションにより、瞬く間にブレークする。しかし、ジェリーの不正経理に端を発したメンバー間の確執により、分裂の危機に見舞われてしまう。

 私はラップやヒップホップといった音楽には関心が無く、この映画を観るまでは“N.W.A.”というグループの存在すら知らなかった(まあ、後に映画関係の仕事も手掛けるアイス・キューブやドクター・ドレーの名ぐらいは知ってはいたが)。しかし、こんな門外漢でも惹き付けてしまうパワーがこの映画にはある。

 まず目を見張るのは、彼らの音楽が決して奇を衒ったり粋がっているようなものではなく、自らの厳しい体験を元に切迫した想いを綴った“本物”であることを活写している点だ。実際、コンプトンに住む者達の生活は理不尽極まりないトラブルの連続だ。黒人であるというだけで警官から意味も無く暴力を振るわれる。この社会の不条理を、彼らは血を吐くように訴える。その感情が爆発するかのようなコンサートの場面は凄い迫力だ。

 やがて仲違いをする各メンバーの葛藤や苦悩も、実に丁寧かつ骨太に描かれていて感心する。F・ゲイリー・グレイの演出は堅牢で、弛緩したところが見当たらず、長い上映時間を一気に見せきっている。そして、映像全体がラップのリズムに呼応するようにグルーヴしているような感触を覚えるのも印象的だ。

 キャストは皆好演だが、特にキューブ役のオシェア・ジャクソン・Jr.の不敵な面構えはインパクトがある。聞けば彼はキューブの実の息子とのことだが、今後は幅広い仕事をこなせそうだ。個人的に80年代の洋楽シーンは“産業ロック”みたいなヤワな音楽ばかりが持て囃されていた“不毛の時期”だと思っていたが、こういう骨のある連中も活躍していたことが分かって、少し見直してみようかという気になった(笑)。
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