元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「熊は、いない」

2023-10-23 06:12:06 | 映画の感想(か行)
 (原題:KHERS NIST)社会派サスペンスとしてハードな題材を扱いながら、そこに映画的な仕掛けを巧妙に組み入れてゆく。まさに一流の作家の仕事であり、鑑賞後の満足感はとても大きい。2022年の第79回ヴェネツィア国際映画祭において審査委員特別賞を獲得した、イラン発の野心作だ。似たような構造のアッバス・キアロスタミ監督の傑作「クローズ・アップ」(91年)に匹敵するほどのヴォルテージの高さである。

 監督ジャファル・パナヒは、トルコとの国境近くの小さな村からリモートで映画を撮っている。彼が取り組んでいるのは、偽造パスポートを使って国外逃亡しようとしている若い男女を主人公にしたメロドラマである。彼はパソコンの画面から現場のスタッフとキャストに指示を出して製作を進めていくが、良好とはいえない通信環境および現場との意思疎通の不全により、撮影の進捗状況は芳しくない。そんな中、彼は滞在先で道ならぬ恋に走ったカップルをめぐる騒動に巻き込まれ、難しい対応を迫られる。



 パナヒ監督自身が主人公として出演しているが、これは単に奇を衒ったポーズではない。彼は実際にイラン政府から目を付けられており、街中で堂々と仕事をするわけにはいかないのだ。村での生活は彼にとって一種の“疎開”であるが、閉塞的な抑圧状態はそんな辺境のコミュニティにも及んでいる。パナヒはやがてサスペンス映画の登場人物のような振る舞いを余儀なくされ、頑迷な村のシステムと対峙してゆく。

 一方、彼が作成しているドラマは、実はフィクションではなく本当に亡命を図っている者たちの現在進行形のドキュメンタリーであることが明らかになる。もちろん、この映画自体は実録ものではなくドラマにすぎない。ただし、その中には確実に作者自身の本当の境遇や葛藤が織り込まれている。国外への渡航を図る映画内映画の登場人物たちも、村の掟に逆らったために辛酸を嘗める若い男女も、現在彼の地では本当に起こっていることの象徴であろう。

 この二重三重の作劇の構成はスリリングで、全編目が離せない。ジャファルの息子であるパナー・パナヒは自身の監督デビュー作「君は行く先を知らない」(2021年)で同じくイラン国民の亡命をテーマとして採用しているが、父親に比べるとまだまだである。ジャファル自身をはじめ、ナセル・ハシェミにバヒド・モバセリ、バクティアール・パンジェイといった他のキャスト的確。ジャファルは本作の完成後に当局側に検挙されているが、印象的なラストは、この逆境においても映画を撮り続ける監督の決意を感じた。
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