元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ファーザー」

2021-06-14 06:55:51 | 映画の感想(は行)
 (原題:THE FATHER)これは面白い。最初から最後まで、ワクワクしながらスクリーンに対峙した。もちろん、本作は深刻なテーマを扱っており、ストーリーも全然明るくはないことは分かっている。だから軽々しく面白がれるシャシンではないことは確かなのだが、この映像感覚と絶妙な作劇は、まさに映画的興趣に溢れている。今年度の外国映画を代表する一作だ。

 ロンドンのアパートで独り暮らしを送る81歳のアンソニーは、認知症により日常生活にも支障が出始めていた。心配する娘のアンは時折父のもとを訪れていたが、ある日彼女は再婚を機にパリに移り住むことを告げる。そのため、新しい介護士を手配するという。戸惑うアンソニーがリビングに目をやると、そこには見知らぬ男がいた。彼はアンの夫だと名乗り、アンソニーにキツい言葉を投げかける。



 ふと我に返ったアンソニーの前に、アンとその夫ポールがいた。アンはパリで暮らすなどとは言っていないという。そして父を施設に入れることをポールと話し合うのだった。フロリアン・ゼレールによる戯曲の映画化で、ゼレール自身がメガホンを取っている。

 認知症の罹患者を扱った映画は数多くあるが、その大半が当事者を取り巻く側から描いたものだ。認知症を患った側の視点から映画が進むことは、めったにない。ところが本作は、これ全編がアンソニーの一人称で展開する。彼の認知力と記憶力は日々低下し、かろうじて娘の顔は認識出来るが、その他の人間は実在しているのかどうかもアンソニーにとっては分からない。

 時間感覚も曖昧になり、時制の流れが掴めない。自分がどこにいるのかも理解出来なくなり、そこが自身が保有するアパートなのか、アンが住むマンションなのか、はたまた施設にいるのか、それが判然としない。彼にとっては迷宮に放り込まれたのと同じで、文字通りの手探りで過ごすしかない。

 映画はアンソニーが遭遇する世界を“そのまま”再現する。見知らぬ人物たちが目の前を行き来し、空間は歪んで足取りも覚束ない。この視覚的ギミックは、まさに映像のアドベンチャーであり、シュールでホラーテイストに溢れている。そして、この“異世界”を抜けた後に彼がかろうじて知るのが、今までの人生で積み上げた事物が次々と抜け落ちてゆくという、悲しい自身の姿だ。

 ゼレールの演出は幻想的なモチーフを繰り出してはいるが、アンソニーとその家族の物語という基調を決して外さない。だから映画が安っぽくならず、骨太な人間ドラマたり得ている。主演のアンソニー・ホプキンスの演技はまさに神業で、数多い彼のフィルモグラフィの中では最上位にランクできる。アンに扮するオリヴィア・コールマンも味わい深い好演。また、若い介護士を演じるイモージェン・プーツの明るさは救いだ。ベン・スミサードの撮影とルドビコ・エイナウディの音楽も文句なしだ。
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