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沖縄→東京→竹野と流転する、bozzoの日々。

【ほぼ日】書きかけてやめた、フクシマのことをもう一度。

2012-08-16 | Mement_Mori
【ほぼ日】書きかけてやめた、福島のことをもう一度。

東日本大震災から1年と半年。
もう、被災の傷跡はだいぶ癒されただろう…などと、
思っているひとは、この福島の現状をお読みください。

どれだけ凄惨かつどん底な状況にあるかを。
この記事を書いた永田さんの次の言葉を読むだけでも、
その度し難さがわかるかと思います。

 以下。


   ●

 この記事をいままで書くことができなかったのは、
 書いてどうなるのだ、と思ったからだ。

 すごく悲しい話を、そのまま書いていいものだろうか。
 読んだ人を悲しい気持ちにさせて、
 どうしようというのだろうか。
 悲しい気持ちになってほしくて書くのか。
 現状を知ってもらいたいという使命感が
 はたして自分のなかにはっきりとあるのだろうか。
 あるいは、荒れ果てた風景を伝えることが、
 復興へ向かう福島のマイナス面を
 強調しすぎるのではないだろうか。

 だいたい、どうして、いま書く必要があるのか。
 なにか、震災関連のタイミングに合わせて掲載したほうが
 コンテンツとして自然ではないだろうか。
 そもそも、ほぼ日刊イトイ新聞という場に、
 この主観的なテキストは不似合いではないか。

 「書いたほうがいい理由」と
 「書かないほうがいい理由」の数をくらべたら、
 「書かないほうがいい理由」のほうが圧倒的に多かった。

 しかし、あるとき、ふと思った。
 「書かないほうがいい理由」が
 山ほどあるからこそ、書いたほうがいい、と。

 そうでないと、ぼくらはことばを失うばかりである。
 口をつぐんだほうがいい場面がどんどん増えていく。
 真剣に考えたすえにことばを飲みこむ沈黙ではなく、
 「無難な沈黙」「先送りする沈黙」だらけになってしまう。

 なにかをやろうとするとき。
 「やったほうがいい理由」と
 「やらないほうがいい理由」を比べていったら、
 きっと「やらないほうがいい理由」のほうが多い。
 自分の中で多数決をしていたら、
 たぶん、ずっと、なにもできない。
 そして、これはとても大事なことだけど思うのだけれど、
 なにもできないことを、誰も責めはしないし、
 事実、責められるようなことは、なにひとつないのだ。
 だから、そんなふうにしているうちに、
 月日はあっという間に過ぎてしまって、
 「やったほうがいい」と思っていた自分は、
 まるで、最初からなかったことになってしまう。

 たぶん、ぼくは、そういったことがいやだったのだ。
 それで、書かない理由がたくさんあるからこそ、
 こうして、書くことにした。

 すごく大げさにいえば、
 ぼくはこのように生きていきたい。
 悲しい話に、前向きで幸せな終わりの場面を
 無理に書くのではなく、
 けれども、悲しいなかにある微かな喜びを
 まったくなかったことにするのではなく。
 誰の心も傷つけたくはないが、
 誰かが傷つくかもしれないということを言い訳に
 ぜんぶの表現や、そのもととなる気持ちを、
 最初からなかったことにしてしまいたくはない。

 それで、ようやく、ここまで書くことができた。
 書きかけて、何度も書きかけてはやめた話を、
 ようやく最後まで書くことができた。

 まだ迷いながらではあるけれども、
 こういうふうにして進んでいくしかない。
 とりわけ、誰にとってもわかりやすい一歩が刻める
 見通しのいい道が見えづらくなってしまった
 この時代においては。

 おしまいに、新しく自覚しているのは、
 どうやらぼくが福島という場所と
 まだまだつながっていたいと
 強く思っているということだ。
 それがいったいどういう動機で、
 なにをしていくべきなのかということは、
 これから考えていきたいと思う。
    
       ( text by 永田泰大 )

   ●

そして、これはとても大事なことだけど思うのだけれど、
なにもできないことを、誰も責めはしないし、
事実、責められるようなことは、なにひとつないのだ。
だから、そんなふうにしているうちに、
月日はあっという間に過ぎてしまって、
「やったほうがいい」と思っていた自分は、
まるで、最初からなかったことになってしまう。


この内省の言葉は、昨日の野狐禅の歌詞に通じる。

  すごく大げさに言えば、
  ぼくはこのように生きていきたい。
  悲しい話に、前向きで幸せな終わりの場面を無理に書くのではなく、
  けれども、悲しいなかにある微かな喜びをまったくなかったことにするのではなく。

この愚直なまでの実直さが、物事を正確に読み取る。
ひとつひとつを丁寧に見つめ、自分なりに租借して、すとーんと腑に落とす。

青を塗って、白を塗って、一息ついて、最後に自分の気持ちを塗る。
その「ため」の時間が、ゴロンとした思いを吐き出す。

今のニッポンの情態は、まさに、このような気持ちで向き合わなければ、ダメだと、思う。
キレイ事は、たくさんだ。美辞麗句が聴きたいんじゃない。
ボクたちは、この実直で無骨な中にも、血の通ったゴロンとした言葉が必要なんだ。

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