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沖縄→東京→竹野と流転する、bozzoの日々。

【aug_18】昭和三陸大震●災

2012-08-21 | Mement_Mori
「だいしんしょう」と読む。
昭和8年3月3日に三陸を襲った大震災である。

1933年。実に80年ほど前のこと。
南三陸はこの昭和三陸大震嘨災のあと、
1960年のチリ地震でも津波で甚大な被害をこうむった。

この80年あまりの間に3度も。

なんともむごい話である。
そして、これだけの頻度で体感していても
ひとはそのことを忘れてしまうのだ。

この大震嘨災碑も南三陸の至る所に置かれてあった。
頭上を見上げれば津波浸水予想線なる看板も目に付いた。
(ここまでは津波が襲ってくるであろう地点)

そのような前知識があっても
今回の東日本大震災に生かすことができなかった。


語り部の「伊藤さん」は語っていた。
「南三陸は、それでも津波対策に自信を持っていた」…と。

三陸の他地域よりは、避難訓練もたびたび行われていたし、
津波を想定した集合住宅の建設や、避難場所の分散など、
常に津波が生活と共にあった。

しかし、大きく間違っていることがあった…と、
今回の震災で伊藤さんは感じたという。

人間の力を過信しすぎた…と。

人間の力を過信しすぎて、津波に立ち向かおうとしていた…と。

津波と闘おう…だなんて、見当違いも甚だしい…と。

語り部の伊藤さんは、今年70歳。
震災で家も土台から根こそぎ失った。
家族の安否は多くを語らなかったが、知り合いを何人も持って行かれた…という。

津波の引いた南三陸の状況を見て、伊藤さんは悟った。

津波と闘ってはダメだ。
人間は高台に住まいを移し、
いざとなったらまずは逃げるべきだ…と。

防災庁舎で最期までアナウンスをして亡くなった遠藤未希さんを
「日本人の犠牲心の象徴」などと持ち上げるけど、
まずは逃げるべきだった…と。

町の建物の実に95%が流された南三陸町。
1年半経った今も、無言に広がるガレキの荒野を目の前にして、
人間の愚かさを思わずにはいられなかった。




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