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沖縄→東京→竹野と流転する、bozzoの日々。

われに五月を ~寺山修司を唯ふ~

2006-05-04 | memories
1983年の今日、5月4日、寺山修司は亡くなった。

「五月に咲いた花だったのに、散ったのも五月でした」

三周忌の記念に復刊された最初の作品集
「われに五月を」の冒頭で添えられた母の言葉である。

彼は47歳にして永眠してしまうのだが、
最初の作品集「われに五月を」からすでに
彼は死と隣り合わせだった。

ネフローゼと呼ばれる難病で死の床にあった
20歳の若き詩人の才能を買っていた編集者が
なんとかカタチに残そうと奔走した一冊が
「われに五月を」だったのだ。

だから、彼の短歌や散文は、
はかなさが常にただよっている。

若さゆえの「もろさ」や「非情さ」がちりばめられた
ガラス細工のような繊細さが、胸を打つ。



    三つのソネット

    2.  ぼくが小鳥に

    ぼくが小鳥になれば
    あらゆる明日はやさしくなる
    食卓では 見えないが  
    調和がランプのようにあかるい
    朝 配達夫は花圃を忘れる
    歳月を忘れ 
    少女は時を見捨て
    ぼくには 空が青いばかり

    そこに世界はあるだろう
    新しいすべての名前たちもあるだろう
    だがしかし 名前の外側では無窮の不幸もあるだろう
    
    小鳥となるな
    すくなくとも ぼくはなるな
    手で触れてみない明日のためには

   
寺山修司とボクの青春時代が密接につながる背景は
彼のアフォリズムに富んだ作品群だけでは語れない。

実際、ボクは寺山の死を身近に感じたのだ。

あれは中学三年生の四月。
大阪の田舎から東京杉並の一等地に引っ越してきて半年。
内省的な性格だったボクは、東京の地に半ば馴染めず、
行き場を失いながらも、高校受験というレールの上で
毎日を過ごしていた。

そんな中学時代の通学路に
寺山修司が救急で収容された河北総合病院があった。

     ぼくはその現場を目撃している。

     ……寺山が乗った救急車とニアミスをしている。

すでに23年も昔の話だ。
もしかしたら、そう錯覚しているだけかもしれない。

あとから見た夕方のニュースの映像が
オーバーラップしている可能性も、ないとは言えない。

しかし、ボクは報道陣が多く集まった救急口の横を
怪訝な顔をして眺めながら通り過ぎた記憶が、確かにあるのだ。

それからというもの、ボクの中での寺山修司は
あの救急車のざわめきと報道陣のざわめきと、共にある。

強烈な印象として、深く刻まれてしまった。

とてつもない偉人の最期に立ち会ったような、
自負にも近い気持ちとともに。

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