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沖縄→東京→竹野と流転する、bozzoの日々。

【山本理顕04】私生活の自由はあっても政治に参加する自由はない

2015-08-27 | memories
建築の設計はリアリティという感覚と深く関わっている。

どのような建築であったとしても、
その建築が実際にできあがる以前に
設計者によってそのアイデアが示されなければならないからである。

そしてそのアイデアが他者に共有され
承認されない限りその建築は実現しない。

つまり、リアリティがあると認められない限り決して実現しないのである。

今までに見たこともない新しいアイデアほどそれが共感されるのは難しい。
それがたとえその地域社会にとって有効な提案であったとしても、
それまでの建築に慣れ親しんだ人たちに
その新しいアイデアを説明することが極めて難しいのである。

だから多くの場合、
それまでにあった建築と同じような
考え方によって建築はつくられる。


過去の例に倣うのである。
特に日本の官僚制機構の中では
過去の例に倣うことが常態化しているのである。

官僚制機構の中の一セクションは
過去に自らが実現させた建築を決して否定しない
それを否定することは
官僚制機構のセクショナリズムそのものを
否定することになるからである。


建築は官僚制的に標準化されている。

その標準が常に最優先されるのである。
標準化された建築がその地域特性と
全く矛盾する場合であったとしても、である。

既に日本中につくりつづけらてきた標準的建築は、
多くの実績があるというそれだけの理由だけで、
リアリティがあると見なされるのである。

だから、
設計者が自らのアイデアを説明しなくてはならない相手は
誰よりもまずこの官僚制機構に対してなのである。

既に述べたように、彼らは非-主観的である
人格を持たない
彼らへの説明は自らのアイデアの説明ではなく、
官僚制機構の命令にいかに忠実に従っているか、
それを説明することなのである。


彼らの命令は社会的要請であるという装いを持つからである。

     ●

でも、建築は常にその場所に固有の空間である。

その建築にリアリティがあるかどうかを
決めるのはその建築を利用する人たちであり、
地域社会に住む住人である。

そしてそれを提案するのは建築の専門家である。

官僚機構ではない。

アレントが強調するのは、
このリアリティの獲得にいたるプロセスこそが
政治的生活と呼べる活動なのだということである。

リアリティという感覚は“common_sense”によって支えられている。

“common_sense”は他者と同じ空間の中に居るという感覚である。
それこそが、政治的生活を支えているというのである。

労働者を管理するための住宅から始まった私たちの住む住宅は
私生活の自由」については良く考えられてきたが、
政治に参加する自由とは全く無縁である。

それは近代建築運動の多くの建築家たちが全く意識しなかった自由である。

というよりも、むしろ意図的に排除してきた自由であった。

「1住宅=1家族」という管理された住宅に住む住人にとっては
本質的にたどり着けない自由なのである。

ミュルーズの労働者住宅のその均質な配置計画は、
できるだけ住人同士が出会わないように
細心の注意深さで計画されたのである。

出会うということは
「私が他人の眼に現われ、他人が私の眼に現われる」
ということである。

そうした「他人によって見られ聞かれる」空間が奪われるということは
リアリティを奪われることに等しい。
そのような配置計画である。

ヒルベルザイマーのベルリンのハイライズ・シティも同じ理念でつくられている。
そして戦後の公団住宅の考え方も全く同じであった。
他者と同じ空間の中に居るという感覚(“common_sense”)を奪う空間である

住民の政治参加をできるだけ妨げるように住宅はつくられ、
配置されてきたのである。


               (山本理顕著「権力の空間/空間の権力」より)



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