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沖縄→東京→竹野と流転する、bozzoの日々。

【山本理顕01】「社会」という空間は他者と共にいるという感覚を剥奪する

2015-08-24 | memories
ミュルーズの労働者住宅以来、
住宅の相互隔離は
そこに住む労働者を管理するためのものであった。

今の日本の住宅も同じ目的によってつくられているのである。
でも、そのような空間に住む私たちは、
それがいかに特殊な空間なのかということを全く意識していない。

こんなにも閉鎖的な形式の住宅が戦後、大量に供給され、
こうした住宅こそが標準的な家族のための
標準的な住宅だと私たちが考えるようになったからである。


こうした住宅が大量に供給されることによって「1住宅=1家族」という形式が
標準的住宅として内面化され(刷り込まれ)ていったのである。

「1住宅=1家族」は平等という思想の“物化”である。

すべての住宅は他と同じ住宅として供給されてきたのである。
標準的な住宅である。
そこに住む私たちもまた他の家族と同じ標準的な家族としてそこに住んでいる。

私たちはこうした住宅に住むことによって
自らを標準化された家族として仕立て上げていったのである。

「社会という空間」は「1住宅=1家族」の標準化という
住宅の供給システムと深く関わっているのである。

でも「社会」の内側にいて、
私たちがこうした「1住宅=1家族」の住人である限り、
この「社会」の根源的な矛盾に気づくことはない。

根源的な矛盾というのは「社会」が「経済的に組織された」空間でしかないということである。

ただ私的な利益のみを目的として組織されている空間なのである。

この「社会という空間」の中では
多数の他者と“共にいる”という意識が徹底して排除される。

すべての他者はそれぞれに
ただ私的な利益を目的とする他者なのである。


多数性とは逆の同一性としての他者である。

この社会は「平等」に依存しているというよりもむしろ
「同一性に依存している」とアレントは言う。

「人間の多数性は、…平等と差異」によって成り立っている。

平等ではあっても差異が失われているということは
多数性そのものがもはや失われているということである。

それぞれに私的利益を目的としている彼らと“共にいる”理由は何一つない。

それにもかかわらず私たちはこの「社会という空間」の中に彼らと共に住まなくてはならない。
それこそが根源的な矛盾なのである。

「社会という空間」は、他者と共にいるという感覚、
他者を必要としているという感覚、
他者と共に世界を共有しているという感覚を剥奪する空間なのである。



               (山本理顕著「権力の空間/空間の権力」より)

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