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沖縄→東京→竹野と流転する、bozzoの日々。

【Feb_20】「汝、殺す勿れ。」これが絶対的戒律である。

2020-03-03 | LA
20世紀の倫理-ニーチェ、オルテガ、カミュ by 内田樹

私の自由の前に立ちふさがり、
私の暴力の対象となっているその瞬間に「私を見つめ返すもの」を恐れよ。

これが唯一の戒律である。

あらゆる倫理はこの戒律に基づいて築かれることになるだろう。
こう考えると、『異邦人』でムルソーがアラブ人を殺すことができた理由が理解できる。

ムルソーが殺人に踏み込むことが出来たのは、均衡が達成されたからだけではない。
海岸での殺人の場面において、殺されるアラブ人の「顔」が訴えたはずの倫理的命令「汝殺す勿れ」はムルソーには届かなかったからである。

アラブ人の「顔」を最後まで見ることができなかったからである。
海岸を歩むムルソーは「灼けた大気」と「影」というふたつの遮断幕のせいでアラブ人の顔をうまく直視することができない。
そのときアラブ人がナイフを出して太陽にかざす。
「まさにそのとき、私の眉毛にたまった汗が転がり落ち、生ぬるく厚いヴェールで睫毛を覆った。
私の眼はこの涙と塩の幕で盲目となった。
(Mes yeux étaient aveuglés derrière ce rideau de larmes et de sel)」

拳銃を発射する前、ムルソーは瞬間的に「盲目」となった。
より正確には「盲目になる」ことによってはじめてムルソーはアラブ人を殺すことができたのだ。

ひとは盲目にならずには他者を殺すことができない。
「私」を見返す者を「私」は決して殺すことができない。


「異邦人の倫理」にこうして「抵抗の倫理」付け加えられた条件によって、
とりあえずカミュにとっての倫理の基礎づけは果たされたのである。

「汝、殺す勿れ。」これが絶対的戒律である。


【on_Flickr】0220_LA→PETALUMA

【Feb_20】自由にはそれなりの限界があること、限界こそがこの存在の反抗の力そのものだ

2020-03-03 | LA
20世紀の倫理-ニーチェ、オルテガ、カミュ by 内田樹

「極限的自由、すなわち殺す自由は反抗の準則とは相容れない。
反抗とは全的自由の請求などではない。
反対に、反抗は全的自由をこそ審問している。
反抗はまさに無制限の権力に異議を申し立てる。
それは無制限の自由がある優越者に禁じられた境界線の侵犯を許すからである。
包括的な自由を請求するどころか、人間存在があるところはどこであれ、
自由にはそれなりの限界があること、
限界こそがこの存在の反抗の力そのものだ
ということが認められることを反抗は望んでいるのである。」

「私の自由」の極限的な発現とは、「他者の自由」の全的否定、すなわち殺人である。

だとすれば、人間の自由に境界線があるとすれば、
それは「殺してはならない」という「限界」に他ならない。
自由の限界はまさに「汝、殺す勿れ」という「戒律」のかたちをとって到来するのである。

この戒律は、いままさに殺されようとしている人間の、
それでも「殺そうとしている私」を見つめ返すまなざしから、
「自らを放棄せぬもの、身を委ねぬもの、私を直視し返すもの」のまなざしから、
訴えとして、祈願として、命令として、私に到来するのである。

「上位審級」なしになおかつ行動しうるための準則があるか、
とカミュは自らに問うた。この問いに彼はとりあえず次のような答えを得たことになる。


【on_Flickr】0220_LA→PETALUMA

【Feb_20】ノモスは脆弱な仮設造営物にすぎないことがあばかれた。

2020-03-03 | LA
20世紀の倫理-ニーチェ、オルテガ、カミュ by 内田樹

理性の極北までたどり着き、カオスの縁から世界の無底をのぞき込んだあと、
自殺することも「跳躍」することも拒否した人間は「もとの世界に戻る」他ない。

それがカミュの選択である。

ただしそれは「不条理」以前のように、無反省的な酔生夢死をむさぼるための帰還ではない。
ノモスは脆弱な仮設造営物にすぎないことがあばかれた。
しかし、世界を超越する意味や永遠の秩序を夢見ることは「理性の自殺」にすぎない。

このふたいろの明晰な断念を携えて不条理の人間は世界に帰ってくる。
このような推論を経由して、カミュはニーチェが残した冒頭の問いを見出すことになる。

「上位審級なしに生きることが可能かどうかを知ること、
それが私の関心のすべてである。私はこの問題領域から一歩もでるつもりはない。」


【on_Flickr】0220_LA→PETALUMA

【Feb_19】世界の無意味性の自覚

2020-03-03 | KANAZAWA
20世紀の倫理-ニーチェ、オルテガ、カミュ by 内田樹

「世界の無意味性の自覚」

私がここにいま存在することのたしかさが希薄になり、
見慣れた人々が機械仕掛けの人形のように見えてくる。
私たちが不意に転落する、この状態をハイデガーは
「世界の適所全体性の崩壊」とか「世界の完全な無意義性」というふうに表現した。

ある社会学者はこれを「規範喪失」と名付けて、そのあり方を次のように記述している。

「このような限界状況はよく夢や幻想のなかに生じる。
それは、世界はその〈正常な〉面のほかにもうひとつの面があって、ひょっとすると、
今までそれと認めてきた現実の見方ははかなくて欺瞞でさえあるのではないかという
執拗な疑惑として意識の地平に現れてくる場合がある。(...)

人間存在の限界状況は、すべての社会的世界がもつ内在的な不安定さを露わにする。
社会的に規定されたすべての現実は、潜在する〈非現実〉によって脅かされ続ける。
社会的に構成された規範秩序(nomos)はすべて、
規範喪失(anomy)へと崩壊する不断の危険に直面しなければならない。」

(...)ノモスは、強力で異質なカオスの力にさらされながら建立された殿堂なのである。


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【Feb_19】いまや大衆が権力者なのだ。彼らが「判断し、判決し、決定する時代」なのだ。

2020-03-03 | LA
20世紀の倫理-ニーチェ、オルテガ、カミュ by 内田樹

自己肯定と自己充足ゆえに、彼らは「外界」を必要としない。
ニーチェの「貴族」は「距離のパトス」をかき立ててもらうために「劣等者」という名の「他者」を必要としたが、
「大衆」はそれさえも必要としない。彼らは「外部」には関心がないのだ。

「今日の、平均人は、世界で起こること、起こるに違いないことに関して、ずっと断定的な《思想》をもっている。
このことから、聞くという習慣を失ってしまった。もし必要なものをすべて自分がもっているなら、聞いてなにになるのだ?」

いまや大衆が権力者なのだ。彼らが「判断し、判決し、決定する時代」なのだ。

 大衆社会とは、自己満足、自己閉塞というふるまいの結果、個人が原子化し集団が砂粒化した状態である。
この「分解への傾向」をオルテガは「野蛮」と呼ぶ。

「あらゆる野蛮な時代とは、人間が分散する時代であり、
たがいに分離し、敵意をもつ小集団がはびこる時代である。」 

そこには、自分とは異質な者と対話を試み、
ある種の公共性の水準を構築し、
コミュニケーションを成り立たせようとする指向が欠如している。

「共同生活への意志」をもつもの、それが市民であり、オルテガのいう「貴族」である。
オルテガによれば、「貴族」の条件は身分でも資産でも教養でも特権でもなく、
この「自分と異質な他者と共同体を構成することのできる」能力、対話する力のことである。

つまり、「貴族」とはその言葉のもっとも素朴な意味における「社会人」のことなのである。
社会とはほんらい貴族たちだけによって構成されるべきものなのである。


【on_Flickr】0220_LA→PETALUMA

【Feb_19】20世紀の倫理-ニーチェ、オルテガ、カミュ

2020-03-03 | LA
20世紀の倫理-ニーチェ、オルテガ、カミュ by 内田樹

大衆社会は、それがどのようなテクノロジーによって満たされ、
成員たちにどのような政治的特権を配分していようとも、
自己開放、自己超克の契機をもたないかぎり、本質的に「野蛮」な社会である。

なぜなら、大衆というのは本質的にきわだって「政治的」な存在であり、
大衆社会の究極の言葉は「私には存在する権利がある。私は正しい」に集約されるからである。

それに反して、貴族社会とは「私の存在する権利」「私の正しさ」つねに懐疑されるような社会のことである。

「私」には「私以外のもの」に優先して存在する権利があるのかどうか、
「私」には「私以外のもの」を非とする権利があるのかどうかを
終わりなく思い迷うような人々によって構成されている社会である。


【on_Flickr】0220_LA→PETALUMA