20世紀の倫理-ニーチェ、オルテガ、カミュ by 内田樹
私の自由の前に立ちふさがり、
私の暴力の対象となっているその瞬間に「私を見つめ返すもの」を恐れよ。
これが唯一の戒律である。
あらゆる倫理はこの戒律に基づいて築かれることになるだろう。
こう考えると、『異邦人』でムルソーがアラブ人を殺すことができた理由が理解できる。
ムルソーが殺人に踏み込むことが出来たのは、均衡が達成されたからだけではない。
海岸での殺人の場面において、殺されるアラブ人の「顔」が訴えたはずの倫理的命令「汝殺す勿れ」はムルソーには届かなかったからである。
アラブ人の「顔」を最後まで見ることができなかったからである。
海岸を歩むムルソーは「灼けた大気」と「影」というふたつの遮断幕のせいでアラブ人の顔をうまく直視することができない。
そのときアラブ人がナイフを出して太陽にかざす。
「まさにそのとき、私の眉毛にたまった汗が転がり落ち、生ぬるく厚いヴェールで睫毛を覆った。
私の眼はこの涙と塩の幕で盲目となった。
(Mes yeux étaient aveuglés derrière ce rideau de larmes et de sel)」
拳銃を発射する前、ムルソーは瞬間的に「盲目」となった。
より正確には「盲目になる」ことによってはじめてムルソーはアラブ人を殺すことができたのだ。
ひとは盲目にならずには他者を殺すことができない。
「私」を見返す者を「私」は決して殺すことができない。
「異邦人の倫理」にこうして「抵抗の倫理」付け加えられた条件によって、
とりあえずカミュにとっての倫理の基礎づけは果たされたのである。
「汝、殺す勿れ。」これが絶対的戒律である。
【on_Flickr】0220_LA→PETALUMA
私の自由の前に立ちふさがり、
私の暴力の対象となっているその瞬間に「私を見つめ返すもの」を恐れよ。
これが唯一の戒律である。
あらゆる倫理はこの戒律に基づいて築かれることになるだろう。
こう考えると、『異邦人』でムルソーがアラブ人を殺すことができた理由が理解できる。
ムルソーが殺人に踏み込むことが出来たのは、均衡が達成されたからだけではない。
海岸での殺人の場面において、殺されるアラブ人の「顔」が訴えたはずの倫理的命令「汝殺す勿れ」はムルソーには届かなかったからである。
アラブ人の「顔」を最後まで見ることができなかったからである。
海岸を歩むムルソーは「灼けた大気」と「影」というふたつの遮断幕のせいでアラブ人の顔をうまく直視することができない。
そのときアラブ人がナイフを出して太陽にかざす。
「まさにそのとき、私の眉毛にたまった汗が転がり落ち、生ぬるく厚いヴェールで睫毛を覆った。
私の眼はこの涙と塩の幕で盲目となった。
(Mes yeux étaient aveuglés derrière ce rideau de larmes et de sel)」
拳銃を発射する前、ムルソーは瞬間的に「盲目」となった。
より正確には「盲目になる」ことによってはじめてムルソーはアラブ人を殺すことができたのだ。
ひとは盲目にならずには他者を殺すことができない。
「私」を見返す者を「私」は決して殺すことができない。
「異邦人の倫理」にこうして「抵抗の倫理」付け加えられた条件によって、
とりあえずカミュにとっての倫理の基礎づけは果たされたのである。
「汝、殺す勿れ。」これが絶対的戒律である。
【on_Flickr】0220_LA→PETALUMA